雪迷宮 ①

 わたしはかつてとても怖ろしい写真を見たことがある。

 それは新雪と思われる深い雪の上を足跡が三歩だけ残っているというものだった。

 足跡は始まりもなく、終わりもなく、たった三歩で唐突とうとつに消えてしまっている。この足跡の主は何処からきて、何処へ向かおうとしていたのか? 

 それすら分からない。

 たった三歩の雪の中の足跡――そのことを、私はずっと考えていた。



 夫の四十九日の法要が終わったら、何だか張り詰めていた糸がプツリと切れてしまって、寂しさだけが胸に残った。

 結婚して二十年になる子なし中年夫婦だった。

 子どもがいない分、友達のように仲が良くて、何処に行くのもいつも一緒だった。その夫を亡くして、これから独りでどうやって生きていけばいいのか分からない。

 経済的には夫の残してくれた家と貯金と保険金もあるが、お金や物で心の隙間は埋められない。以前から寝酒に飲んでいたワイン、日ごとに量が増えていく、今日も朝から飲んだくれている。

 結局、アルコールでしか寂しさを紛らわせなくなってしまった。


 あの朝、出勤前の夫と些細なことで口げんかをした。

 最近、残業続きで毎日帰りが遅いので、「週末だから、今日は早く帰ってきてね」と夫にいったら、「今日も会議で遅くなる。新しいプロジェクトを立ち上げたばかりで忙しい」と、いうので、「そんな仕事ばかりで仕事に殺されても知らないから!」私が怒って、ちょっと言い争いになった。

 連日の午前様に夫の健康状態も心配だったし、いつも帰りの遅い夫を待っていたが、十時を過ぎると空腹に耐えかねて、私は独りで先に食べてしまう。それに夫は外食して帰ってくることも多かった。

 たまには夫婦で温かい料理を一緒に食べたかった、仕事で疲れた夫を家でのんびりさせたい。それで仕事が忙しいことは分かっていたが、私が駄々を捏ねてしまったのだ。

 結局、優しい夫は「じゃあ、できるだけ早く帰るよ」といって、慌てて家を出ていった。――その十分後、夫は帰らぬ人となった。

 駅に向かう道にある交差点で信号待ちしている所に、未成年が運転する改造車が信号待ちの人の群れに猛スピードで突っ込んできたのだ。その事故で六人の歩行者が犠牲になった。

 軽傷三名、重体二名、死亡一名、最前列に立っていた夫は撥ね飛ばされて即死だったという。


 夫が死んだのは、きっと私のせいなんだ! 

 あの朝、言い争いになって、いつもより家を出る時間が遅くなったため、あんな悲惨な事故に巻き込まれてしまった。しかも急いでいたので、夫はすぐに横断歩道を渡れるように最前列に立っていたのに違いない。

 いつも、通りの時間に出掛けてさえいれば……早かったら、夫は死なずに済んだのに……私が朝から文句を言ったせいなんだ。


 小さな選択によって人生は成り立っているのかもしれない。

 右に行くか、左に行くか? 十分早くするか、十分遅くなるか? 信じるか、信じないか? そういう選択肢が常に突き付けられていて、どれを選ぶかによって、後の人生が大きく変わっていく。

 場合によっては、それが生死の分かれ目になることもあるのだ――。

 あの、そう十分間遅れてしまう選択肢によって夫は死んでしまった。

 毎夜、死んだ夫が恋しかった。独りでは不安で夜も眠れない、夫婦の寝室だった夫の空ベッドを見る度に、寂しくて気が狂いそうだった。もう一度、夫に会いたかった――。

 私は自分を責めた、責めて、責めて――泣きながらお酒をあおっていた。やがて酔い潰れて、そのまま眠ってしまうのだ。


 ザクッザクッザクッ……。だれかが雪を踏みしめ歩く音で目が覚めた。

 どうやら、酔い潰れてソファーで寝込んでしまったようだ。こんな真夜中にだれが雪道を歩いている。雪道!? 温暖な気候のこの町で、そんなに降り積もるほどの雪がいつ降ったのだろうか? 私はソファーから飛び起きて、すぐに窓を開けて外を眺めた。

 一面の銀世界だった。

 深い雪で覆われて、雪しか見えない。まるで雪崩なだれにあったように見渡す限りの雪原せつげんになっていた。いつもの風景が一変して、隣の住宅さえ見えない。電信柱が一本もない。街灯の灯りがともっていない。《嘘? そんなバカな!?》不思議な光景に驚いて、私はダウンジャケットを羽織はおると外へ飛び出した。


 夜空には満月が煌々こうこうと輝いて、光はそれしかないが雪灯りでとても明るい。

 だれかがこちらに向って歩いてくる。雪が反射して、近づくにしたがって、その人物の顔がくっきりと浮かび上がった。

由布子ゆうこさーん」

 手を振りながら私を呼んでいる。――その人は亡くなった夫である。

 スキーウェアを着て、スキー板を肩に担いでいる。スキー用のゴーグルをかけているが、あれは間違いない、まだ付き合い始めたばかり、二十年前の若き日の夫の姿だった。

 これは夢なの? それともアルコールのせいで幻覚を見ているのかしら? ただ茫然と私は立ちつくす。

「由布子さん、こっちだよ。君に見せたい滝があるんだ。スキーでくだるとすぐに見えるから、僕についておいで!」

 溌剌はつらつとした声で、まだ結婚する前の夫が話しかけてくる。

 ――と、いわれても……。この格好では、と思って自分の服装を見たら、なんと! いつの間にかスキーウェアを着てスキー板を履いているではないか!?


 そして信じられないことに、この私も二十年前の娘に若返っていた――。

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