マニキュア ②

 ドラッグストアから駅に向かって親子で歩いていく。駅前は帰宅途中のサラリーマンたちの人の群れで賑わっていた。

 俺は万引きをした娘をどうやって叱ればいいのか考えていた。

 昔から人を責めたり、怒ったりするが苦手な人間だったから、そういう場面に出くわしたら、いつも曖昧な態度で逃げてきた。――だが、さすがに今回はそうはいかない。

 莉子はひと言もしゃべらない、なにがあってこんなことをしたのか分からないが……十ヶ月振りに見る娘は、蒼白い顔でうつむいて歩いていた。

「なぜ、父さんを呼んだんだ?」

「…………」

「ママじゃなくて、俺を呼んだのは訳があるのか?」

「だって、ママは忙しいから……」

 紗江子はいつも遅くまで会社に残って仕事をしている。そうか、俺みたいな仕事をしない社員のせいで、社長はいつも残業ばかりだ。莉子の言葉に初めて少し反省した。

「――そうだな、家まで送ろうか?」

「ううん。お父さんの家に行きたい」

「えっ!」

「ダメなの?」

 さぐるような目で莉子が俺を見た。

「いいや、構わないけど……部屋汚いぞ、いいのか?」

「うん」

 たぶん、引っ越ししてから二、三度しか掃除をしたことがない。しかも掃除機がないので適当にホウキでパッパッと掃いておしまいという、いい加減さである。俺は女を部屋に連れ込むのが嫌いなので清潔にしておく必要もないのだ。


『クラブの先輩の家に行くから、帰り遅くなります』


 紗江子にメールを送ってから、莉子は俺の部屋に付いてきた。

 ちょうど玄関に唐揚げ弁当があったので、食べるかと訊くと「うん」と頷いた。冷めていたのでレンジで温めて、冷蔵庫の缶コーヒーと一緒に手渡した。

 ふと、いつも帰りが遅い紗江子だが、莉子の食事なんかどうしているのか気になった。 俺が一緒に暮らしていた頃は、紗江子の帰りが遅い日には莉子とファミレスにいったり、ふたりで料理を作ったりしていた。

 マンションのダイニングキッチンで、ひとりぼっちの食事をしている莉子の姿を想像すると……やけに切なくなった。

 黙々とお弁当を食べている莉子の側で、俺は缶ビールを夕飯の替わりにする。

 やはり、なぜ万引きをしたのか理由を訊かなくてはならないだろう。叱るのは理由を訊いてからにしようと思い、ひと口ビールを呑んでから莉子に話しかけた。


「ママと何かあったのか?」

「別に……」

「学校でイジメられてるとか?」

「ないよ」

「じゃあ、どうして万引きなんかしたんだ」

 俺の問いに、莉子は箸を置いて食べるのを止めた。

「――父さんを怒らせたかったから」

「えっ?」

 莉子の言葉に驚いた。

「父さんって、昔から本気で莉子を叱ったり、怒ったりしたことがないよね? いつも物分かりが良いんだ。いつだってそう、傍観者の振りして見て見ぬ振りをしている。面倒なことや厄介なことになったら、素知らぬ振りして逃げてばかりだもん。お父さんって自分のことしか興味がないんだね? それってだよ」

 無口な莉子が一気にしゃべった。

 俺はエゴイストか? たしかにそう言われればそうかもしれない。他人に腹を立てないのは、しょせん、どうでもいいと思っているからで、昔から他人とトラブルを起こすのが嫌いだった。だから相手が怒りだす前に、いつも適当に謝ってを済ませてきた。

 エゴイストねぇー、自分ではそう思っていなかったが、莉子に言われると……なるほど、そうかもしれないと妙に納得した。

「父さんは生きるのがヘタな人間なんだ」

「だから、自分だけ楽になろうとする訳?」

「いいや、そうじゃないけど……」

「そんなの言い訳になってないわ!」

 今日は母娘で俺のことを責めやがる。

 十六歳の娘からこんな辛辣しんらつな人間批判されようとは思わなかった。――俺が家を出た後、十ヶ月の間になにがあったんだ?


「さっきドラッグストアの店長が、俺に奥さんをお大事にって言ったけど、あれはどういう意味なんだ?」

 話題をそれとなく変えた。

「あれは……ママが癌で入院しているって言ったから……」

「ええー? 紗江子は、今日も俺に会社で怒鳴っていたぞ」

「嘘よ。そう言って同情を引いたら、少しでも赦して貰えるかと思って……」

「そうか、さすが俺の娘だ。おまえも悪知恵がはたらくようになったなぁー、あははっ」

 俺が茶化ちゃかすと、莉子がむきになっていい返した。

「父さんは何も分かってない! ママ身体は元気だけど、心はボロボロなんだよ」

「……なんで?」

「ママは仕事で遅くに帰ってきて、いつもキッチンのテーブルでため息つきながら、お酒飲んでいるんだよ。きっと寂しくて悲しいんだと思う。お父さんが出ていったから……」

「まさか? あいつは俺の顔を見るといつも憎々しげに嫌味ばかり言いやがる」

「ママは今でもお父さんが好きなんだよ。――実は離婚届けもまだ役所に持っていってないの」

「ホントに? 紗江子がどうして旧姓に戻らないのか不思議だったが、莉子の名字が変わると世間体が悪いからだと思っていた。そうか……まだ夫婦のまんまだったのか……」

 莉子の口から初めて紗江子の心情を聞いた。

 俺の前ではいつも突っ張っているが、こんなに傷ついていたとは想像もしていなかった。あいつは強い女だと思っていただけに……意外だった。


 元々、この結婚は紗江子が一方的に俺に惚れたところから始まった。

 当時父親の会社に入ったばかりの俺に、紗江子はなにかと親切にしてくれた。いつの間にか、お昼のお弁当まで作って持ってきてくれていた。

 だが俺は紗江子以外にも二人の女と付き合っていた。ひとりは美大時代からの女友だちで紗江子と付き合うまでは半同棲していた。もう一人は十歳年上の人妻でお小遣いをくれる、セックスだけの関係だった。

 たまたま、紗江子が妊娠したので結婚したまでで、ホントのところ俺は、三人の女のだれでも良かったのかもしれない。

 ぶっちゃけ、俺という人間は今まで女を本気で愛したことがない。愛という名の元で、自由を拘束されたり、干渉されるのが嫌だから、いつも女たちとは距離を置いて付き合っていた。女にも、仕事にも、家庭にも、そんな足枷あしかせで縛られるのは真っ平御免だ!

 ――たとえば、雲のようにふわふわと自由気ままに生きていたかった。

 そんな俺だから、社長の椅子を紗江子に譲ったら、やれやれ……肩の荷が下りたとばかりに、妻が経営の建て直しに躍起になっている姿を尻目しりめに、会社の金で遊び回っていた。そして水商売の女との浮気がバレて、紗江子の逆鱗げきりんに触れた。

 離婚届けの用紙を突き付けられた時も、《まあ、紗江子が怒るのも当然だわなぁー》と半分あきらめムードで判子を押したのだ。

 まさか、こんな俺にまだ未練を持っていることが信じられない。


「莉子に前から聞きたかったんだが、どうして俺は“とうさん”で、紗江子は“ママ”なんだ? 普通、両親の呼び方って揃えるもんだろう?」

「うん。お父さんは『家族』だけど、ママは『身内』だもん」

身内みうち? そうかママは莉子にとってなんだ」

 たしかに母と子は胎児のときは子宮の中でへその緒で繋がっている、こればかりは男には勝てない『絆』の深さがある。――だから父親は家庭の中で孤独になってしまうのかもしれない。しょせん、男は『家族』しかなれない存在なのだから……。

「――だから、莉子にはママの気持ちが分かるんだ」

「そうか、羨ましいなあ。だったら俺の入り込み余地なんかないじゃないか」

 さっき娘の言葉に、柄にもなく俺は傷ついていた。

「違うよ! ママは強がって、父さんには突っ張っているけど、本当は父さんがいないとダメなんだ。キッチンでため息つきながらお酒呑んでるママの姿なんか見たくないよ。ママ、本当は父さんに帰ってきて欲しいんだ。今でも父さんが使っていた部屋をきれいに掃除しているんだから……あたし父さんもママも好きだよ。どっちか親を選ぶなんて……できないよ! お願い、ママの元へ帰ってきて……」

 いつもは無口な莉子がひどく饒舌じょうぜつなのに俺は驚いた。

 そんなにママのことが心配なのか? 万引きをしたのも俺にうったえたいことがあったから? 今、目の前にいる娘は俺の知っている莉子ではないような気がした。

 しかし、そこまでして両親を仲直りさせたいと思う気持ちが健気だった。

「――そうか、一度ママと話し合ってみるよ」

「お願い……」

 さすがの俺もひとり娘の頼みには弱い。

 言いたいことだけ言ったら、胸がスッとしたのか、携帯の時計をチラッと見て「もう帰るわ」立ち上がって玄関の方へ歩いていく、時刻は八時を少し過ぎたところだ。心配なので家まで送ると俺は言ったが、莉子は通りに出たらタクシーを拾って帰るからとすげなく断った。

 じゃあタクシーを拾うまで、ふたりで通りに出て探そうと言ったら、タイミングよく空車がきたので、手を上げて停車して貰った。久しぶりに会った娘と少しでも長く居たかった、そんな子どもみたいな俺がいる。

 タクシーに乗り込む時、俺の方を向いて、

『ママを頼んだよ』

 莉子が薄く笑った、その透明の笑顔がはかなげで切なくなった。


 タクシーを見送った後、ひとりで部屋に戻った。――見れば、莉子の座っていた場所にぽつんと赤いマニキュアが置かれていた。万引きした品物なので俺のとこに置いていったんだろう。

 なぜ、マニキュアなんか……ふと思った、家族は長く一緒に暮らしていると、いろんなモノが剝がれて、嫌なモノまで見えてくる。その度にネイルを塗って、傷を隠して体裁を整えて暮らしていけばいいってことなんだ。

 もう一度、家族三人でやり直そうかと俺は考え始めていた。

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