マニキュア ①

「おはよう……」

 ドアを開けて挨拶をした途端に、俺の目の前にいきなり冊子のようなものが飛んできた。

「遅い! なにやってたの? もう十一時過ぎよ、打ち合わせは十時からとメールしたでしょう!」

 女社長はカンカンに怒っている。

 無理もない遅刻はこれで三回目だ。やる気があるのかと問われたら……さあ、どうだろうか? と答えるしかない、この俺だった。

 俺、河野啓司こうの けいじは、バツ一、中年、金なし、やる気なしの最悪の人間だ。十ヶ月前に妻と離婚、原因は俺の浮気がバレて……浮気癖の治らない夫に、ついに妻の堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れた! 目の前に離婚届けの用紙を突き付けられた。

 そして俺は家から追い出されてしまったのだ。――元々マンションは妻の名義だったので、俺はわずかな荷物を持って家から出ていった。今は小さなワンルームマンションでひとり暮らしだ。

 なによりも辛いのは……今年、高校生になったばかりの最愛の娘、莉子りこと会えないことだった。これも身から出たさびなので仕方ないか……トホホ。

 さて、目の前で俺に悪口雑言あっこうぞうごん、怒りのオーラでののしる女社長こそ、なにを隠そう、元妻の紗江子さえこである。


 元々俺の勤めているデザイン事務所は、紗江子の父親の会社だった。

 美術大学を卒業したが就職もしないでブラブラしていた俺に、大学の先輩がこの会社を紹介してくれた。従業員十数人でやっているこじんまりしたデザイン会社だが、居心地は悪くなかった。

 最初はアルバイトのつもりで軽い気持ちで入社したが、当時父親の会社で経理事務をやっていた、社長の娘の紗江子とデキちゃって……。

 そのまま結婚して、婿養子みたいなカタチで義父の会社で働いていた。


 生まれついてダメな男のオーラが漂う俺は、今までの人生なんとなく女にはモテてきた。

 今も社内では十歳年下の派遣社員の女と付き合っているし、行きつけの飲み屋の女将とはもう五、六年の付き合いだ。

 たぶん俺という男は会社員より、ヒモかジゴロが向いているんだろう――。出来れば、働かないで《女に食わせてもらいてぇー》みたいな。

 そんなことを考えながら社長紗江子の長い説教を馬耳東風ばじとうふうで聴いていた。


「――で、分かってるの? 河野さん!」

「……はい」

「遅刻の理由はなんなの?」

「いやそのう、目覚ましのアラームが鳴らなかったんで……」

 俺の言葉に彼女は眉根まゆねを寄せてこちらをにらんだ。なにか感に触ったみたいだ。

「アラームが鳴らなかったとか、靴紐がうまく結べなかったとか……いつもそうやって、だれかのせいにするのね。それで世の中渡っていけると思ってるの?」

 無責任な俺の性格を知ってるくせに、今さら責められてもなあー。

「こんなやる気のない人は、もうクビにしたっていいのよ!」

「……はあ、スミマセン」

 俺は気のない返答で謝った。一応、こっちは雇われの身だし……。


 最後に捨て台詞のように、紗江子が俺を睨みつけて言った。

「いい加減、その甘えた性格を直したらどうなの? 男として最低よ!」

 もう夫婦でもない俺たちは、完全に立場が逆転している。離婚した時点で、なぜ俺を会社から放り出さなかったのが、今思えば不思議なくらいだった。

 男のプライドなんか糞喰らえ! この年で失業者にだけはなりたくない。

「申し訳ありません。以後、気をつけますから……」

 元妻に平頭低身へいとうていしんで謝った。

 なんだかんだ言っても、お情けで会社に置いて貰っている俺なんだから、いい返す言葉もない――。


 三年前、義父の社長が急死した。

 そのまま経営を引き継いで新社長になった俺だが、経営手腕がまったくない、社長になった途端に注文は減るわ……、顧客は離れるわ……、ライバル会社にごっそり仕事を盗られるわ、もう散々だった。たちまち会社がになってしまった。

 会社の経理を見ていた妻に言われた。

「あなたに任せていたら、このままでは父の会社が倒産してしまうわ」

 俺はギブアップして、経営は社長の娘の紗江子にバトンタッチ。そこから、彼女の頑張りは奇跡だった。

 離れた顧客の一軒一軒を回って、亡き社長の娘の立場を利用して、泣きついて仕事を回して貰った。お陰でライバル会社に盗られた仕事も少しづつ取り返してきた。その上、新しく出来たファッションビルのデザインや宣伝の仕事まで取ってくるし、タウン誌やネットビジネスも展開していた。

 紗江子には生まれつき経営手腕があったのだ。

 それに比べて俺ときたら……社長なんて元々うつわではなかったし、無能振りが露呈ろていしただけだった。――それでも俺だって必死だった、苦手な営業だって頑張っていたんだ。けれども……経営状態が悪くなる一方だったので、だれも俺の頑張りなんて評価してはくれない。


 ――と、言ってみても、今となっては愚痴ぐちでしかない。

 会社の赤字の補てんもせず、平社員に降格したといっても、会社に置いて貰っているだけでも感謝すべきなんだろう。けれど、やる気なんていつまで経っても出そうもない、この俺だから……。

「じゃあ、営業にいってきまーす」

 あの後、会社から飛び出し、パチンコ屋で時間を潰して、自分のワンルームマンションに直帰ちょっきしようとした。

 途中、派遣社員の女から『今夜、会いたい』と何度もメールがきたが、そんな気分になれなかったのでメールは無視していた。

 駅前でほか弁を買って、唐揚げ弁当の唐揚げをつまみにビールでも呑むか、そんなことを考えながら部屋の鍵を開けていたら、ふいに携帯が鳴った。《しつこいなぁーまた派遣の女か?》と思って、液晶画面を確認すると知らない電話番号なので無視しようか悩んだが……何となく受信してしまった。


「もしもし、河野ですが……」

河野莉子こうの りこさんの保護者の方ですか?」

 知らない男の声に問われた。

「はあ、河野莉子はうちの娘ですが……」

 その男は駅前のドラッグストアの店長だと名乗った。

 店の商品を娘の莉子が万引きしたというのである。今から保護者の方にきていただきたいと、丁寧だが厳しい口調で言われた。

 買ってきた唐揚げ弁当を玄関に置いたまま、俺は急いでその店へ向かった。


 大手ドラッグチェーンの店舗には薬だけではなく、インスタント食品や菓子類、飲料水、日用雑貨、化粧品まで品揃えが豊富である。生鮮食料品以外なんでも売られていた。

 その店内に入っていって、品出しをしていた女店員に簡単に事情を説明して、店長室へ案内して貰うことにした。たぶん万引き事件なんて、この店ではさほど珍しくもないのだろう。別に驚く様子もなく、彼女は淡々と事務的に取り告いでくれた。


 ドラッグストアの奥の店長室に案内された。八畳くらいの室内には事務机とパソコン、窓にはブラインド、壁側には段ボールが山積まれていた。その中央に会議用の机とパイプ椅子が並べられていた。

 そのひとつに、制服姿の莉子が項垂うなだれて座っていた。机の上には赤いマニキュアが置かれている。――たぶん、これが万引きした商品なのだろうか?

 パッと見、千円もしないような商品である。欲しいなら自分のお小遣いで買えるはず、しかも真っ赤なマニキュアなんて、本当に欲しくて莉子が万引きしたとは到底思えない……。

 ――毒々しい真っ赤なマニキュア。

 高校一年生の莉子は、小さい時から大人しく手の掛からない子どもだった。家でも学校でも優等生の彼女がどうして万引きなんか? よく我が子が犯罪で捕まったときに、親が「まさか、うちの子に限って……悪いことをするような子どもではありません!」そんなベタなセリフが、俺の頭の中をグルグル回っている。


「あのう、河野莉子の父親ですが……」

 女店員の後から入ってきた俺を、莉子はチラッと見たが、そのまま膝に視線を落とした。

「ああ、どうぞ、こちらに座ってください」

 四十代後半の俺と同じくらいの年の店長が莉子の隣の椅子を勧めた。

 その後、店長は莉子が万引きした経緯について説明したが、しごく単純で制服のポケットにマニキュアを隠して、店から出たところを私服警備員に捕まったらしい。万引きも隠す風もなく、側に人が通っていても堂々とポケットに商品を入れたので、警備員も見ていたらしい。

 なんでまた、そんなバカなことをしたのだろう?

補導ほどうして、すぐにここで話を訊いたら素直に謝って本人も反省してました。単独でどう見ても初犯みたいなので、学校と警察には通報しませんでした」

 助かった! 莉子の入学した女子校はこの辺では有名なお嬢様学校で、万引きしたことが学校にバレたら、間違いなく退学処分になるだろう。


「ありがとうございます」

 俺は思わず、その店長にお礼を言った。

「聴けば……いろいろ事情があって、衝動的にやったみたいだしね。まあ、思春期だから、分からないこともないけど、万引きは犯罪だから見過ごす訳にはいかない」

「ハイ、本人にはよーく言い聞かせますので、スミマセン……」

「わたしにも高校生の子どもがいますから、出来るだけを荒立てたくないんです」

「本当に申し訳ありません」

 まったく、今日の俺は謝ってばかりだ。

「じゃあ、これに著名、捺印お願いしますよ」

 書類を渡された、それは保護者としての念書だった。二度と万引きをしないように家庭で教育します。今度やったら警察に通報しますよ。そういう内容が書かれていた。

「じゃあ、奥さんお大事に……」

 やっと解放された俺たち親子は、帰り際に店長から意味不明の言葉を掛けられた。奥さんって、紗江子さえこのことか? 

 あいつは俺を怒鳴りつけるほど元気だ――。

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