マニキュア ③

 朝方、枕もとに置いた携帯で起こされた。

 時計を見れば五時半……誰がこんな早い時間から、液晶画面には『紗江子さえこ』の名前が表示されている。

「もし……もし……」

 半分寝ぼけマナコで通話する。

「ああ……あ、あなた……あなた……」

 ひどく取り乱していて、なにを言っているのかよく分からない。

「どうしたんだ? 落ち着いて話せ……」

 紗江子の声の調子に只ならぬものを感じて、俺の眠気も一気に飛んだ。

「莉子が……莉子が倒れた……救急車で運ばれたけど……ううぅ……」

 最後は泣き声に変わっていった。

 なんとか搬送先の病院を訊き出して、俺は急いで病院に向かった。通りで拾ったタクシーの中でどうしようもない悪い予感に指先がブルブルと震えた。莉子、莉子に、いったいなにが起こったんだ……?


 病院の受付で訊いて急いでいったら、莉子の病室にはだれもいなかった――。

 どうしたものかと病室の中で右往左往していたら、ベッドを片付けにきた看護師が、遺体を病理解剖びょうりかいぼうするので手術室に運んだと告げられた。

「病理解剖だと!?」

 その言葉を聞いた、途端、我が耳を疑った。

 解剖ということは……死体? 莉子は亡なくなっている? まさか、嘘だ! そんなこと信じないぞ……昨日の夕方まで一緒に居たんだ。十ヶ月振りに娘といろいろ話をした、そして、もう一度、家族をやり直そうと俺は誓った。

 それなのに……それなのに、嘘だろう? こんなことが信じられるかっ!


 手術室の前の長椅子に、魂の抜けた人形みたいに紗江子が茫然ぼうぜんと座っていた――。

 こんな早朝でだれも駆けつけてはくれないのだろう。元々、ひとり娘の紗江子には親戚は少ない。俺の方の親戚なんか付き合いもないし……。

 紗江子はショックが強過ぎて、泣くこともできない、事実を受け入れられない状態なのだろう。虚ろな眼で……泣き笑いみたいな表情だった。

「紗江子……」

 ピクリとも動かない。

「おい、紗江子……」

 肩に手をかけて、軽く揺らすと俺を見て、一瞬薄く笑った。

「あなた……」

 そう言うと、見る見る瞳に涙が溢れ出して、いきなり俺に縋って嗚咽を漏らすと、大声で赤子のように号泣した。そんな妻を抱きしめて、俺も心の中で号泣していた。

 まさか、まだ十六歳になったばかりの娘が親より先に逝くなんて……そんな理不尽をどうやって受け入れたらいいんだ。

 これはきっと悪夢なんだ! 俺はまだベッドで眠っている……。なあ、そうなんだろう? だれか夢だといってくれい!

 ひと気のない、早朝の病院の廊下で夫婦は抱き合って泣いた――。


 病名は「急性白血病」だと医師に告げられた。


 昨夜、十時半頃に紗江子が自宅に戻ったところ、リビングで莉子が大量の鼻血を流して意識不明で倒れていたという。一週間ほど前から、体調が悪いと訴えていたが、微熱があるし、たぶん風邪くらいだと思っていた。

 三日前から学校を休んでいたが、もう高校生なので、ひとりで病院に行って診察して貰うように言い置いて、紗江子はいつものように仕事に出掛けたという。七時頃に先輩の家に行くとメールがあったので、ああ、大したことなかったのだと安心していた。

 それが……帰ったら、真っ赤な血の海で莉子が倒れていたので、慌てて救急車を呼んだが、意識が戻ることなく、搬送先の病院でそのまま息を引き取った。

 病理解剖の結果、脳内出血を起こしていたらしい。


 俺は莉子の通夜も葬儀もなんだか他人事たにんごとをみているような気分だった。

 ショックが強過ぎて、莉子の死をどうしても受け入れられない。――きっと、紗江子もそうだろう。ずっと放心したように……押し黙ったまま、俺に寄り添っている。

 だが、火葬場で白い骨になった莉子を見た瞬間、急に大声で「いやー、いやー!」と赤子のように駄々を捏ねて、人前で号泣した。骨になってしまった我が子の姿を受け入れられず、紗江子は泣き叫ぶ。とてもあの敏腕、女社長とは思えない取り乱し方だった。――俺だって、妻と一緒に泣き叫びたかった。

 あまり残酷な運命、親が子どもの骨を拾うなんて……そんなことを百分の一でも想像したならば、絶対に子どもなんて作らなかった! 莉子の未来は閉ざされて、俺たち夫婦の夢はくじかれた。


 ――俺は紗江子の元へ帰っていった。とても彼女をひとりにはできない。

 子どもを亡くした夫婦ふたりはもう食べていけるだけの収入さえあれば、それで充分だった。

 デザイン会社は父親の代から勤めている信頼できる社員に任せることにした。俺は会社からから依頼されたイラストや企画レイアウトを自宅でするだけの仕事になった。

 今までの罪滅ぼしに、出来るだけ紗江子の傍に居てやろうと思っている。


 紗江子はすっかり無口になって、なにもしゃべらなくなった。

 亡くなった日から、そのままの状態にしてある莉子の部屋に入っては、寝乱れたままのベッドや放り投げられている学生鞄、読みかけの雑誌、そのひとつひとつを手に触れて……静かに涙を流している。

「紗江子……」

「…………」

「泣くな、泣いても莉子は、この部屋には戻って来ない」

「――あたしのせいだわ。ちゃんと健康管理してやらなかったから……仕事に追われて、外食や買ってきた惣菜ばかり食べさせていたから……それで、あんな病気になったのよ」

 紗江子は莉子の死は自分のせいだと深い後悔と自責の念を持っていた。

「違うよ。――俺が悪いんだ。自分勝手なことばかりして、おまえに仕事の負担をかけたせいで、莉子のことをちゃんしてやれなかったんだ」

「たった十六で死なせてしまった……もっと生きて、花嫁衣装も着させてあげたかったのに……莉子、ママを許して……」

 泣きじゃくる紗江子を優しく抱きしめる。――初めて、俺は妻が愛おしいと思った。

 こんなことになったのは全部、この俺が悪いんだ。もっと人生を真面目に生きていたら……莉子は死ななくて済んだのかもしれない。

 俺たち夫婦の不仲が莉子にとって大きなストレスだったことは間違いない、それがほんの少しでも影響してるとしたら……莉子の死を親の責任だとして、俺たちは死ぬまで自分自身を責め続けるだろう。

「父親としても、夫としても……俺は最低の人間だった。許してくれ莉子、紗江子」

 そのとき、床に頭を擦りつけて、初めて妻に謝罪した。


「俺は頼りない夫かもしれないけれど、悲しみをふたりで分かち合うことくらいはできる。おまえの傍にいてもいいか?」

「あなた……」

 その言葉に紗江子の瞳から大粒の涙が零れた。

 たぶんこれは俺にとって初めてのプロポーズだ。我が子を亡くして血の絆はなくなったが、まだ夫婦の『絆』が残っていた。

 莉子が俺に取り戻して欲しいと願っていたのは、だったのだろうか?

「ふたりで莉子に罪滅ぼししよう」

 この十字架を背負って、ふたりで寄り添って生きていこう。



 天国にいる莉子へ

 皮肉なことに、莉子おまえを亡くして父さんは初めてママを本気で愛することができた。かけがいのない我が子を喪ったという、共通の苦しみが俺たちの心に深い絆を作った。


『ママを頼んだよ』


 おまえはダイイングメッセージとして、その言葉を俺に伝えるためにきたか。

 万引きまでして、俺に伝えたいことを言った、あの最後の日に、おまえと少しだけ本音で話ができたのが嬉しいよ。

 小さい時から莉子は勘の鋭い子どもだったから、自分の運命が見えていたんだろうか? それで大好きなママのことが心配で、俺に頼みにきたんだな。

 心配するな! ママを大事にするから、決してママの傍から離れない。


 ――天国にいる莉子に誓うよ。

 いつか、ママの笑顔が戻るまで……。

 マニキュアになって、ママの心の傷をコーティングしてやるさ!



                 ― 完 ―

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る