平間京作は、気に入らない上司の佐田桂兵衛さだかつらひょうえの憎らしい顔面に渾身の一撃を叩き込んだ。無論、妄想である。


 さて、物語の冒頭に申し訳ない。努力は必ず報われる、だとか、成功者は得てして人一倍懸命に努力しているだとか、この物語はそんな話ではない。初めに述べておく。

 私の祖父で、今作の主人公でもあるこの平間京作という男だが、この者は取り立てて努力家でもないし、また他者に何かしてやろうとするような最低限の人格も持ち合わせていないから、人望やら何やらで成功する類の人種でもない。おまけに本質は好色だから目も当てられない。


しかし、それはこの時点の話で、昔はそうでもなかった。平間は二十二である。幼いころは学問に多少秀でていたため、貧しく学の無い彼の両親は、我が子を神童だの後の大大臣だのと誉めそやした。幼さゆえの無知と愚かさに囚われていた彼は、果たしてそれを鵜呑みにし、父母を見下した。


そんな彼は十四の時、人生で初めての挫折を味わうことになる。それについては後述するが、兎角、彼は挫折した。その挫折からはや六年と四ヵ月と二十三日、未だに立ち直れずにいる。その間に、もとから腐りかけていた性格は腐敗し、白蟻に蝕まれた柱のようにぼろぼろになって倒壊してしまっていた。要するに彼は、そんな男である。


無論、読者諸兄におかれましては、このような性悪男の話なぞに興味は無いだろうから、さっさとこのあたりで場面を変えてしまおう。安心して欲しい、次は可愛くて理知的な少女の話だ。

でも、この平間という男にも中々良いところがある。その事を頭の片隅に、それも片隅の片隅にでも良いから、置いておいて貰いたい。それは私にとって大変ありがたいことだから。


玲漸院壱子れいぜんいんいちこはこの日、人生で初めての冒険へと踏み出そうとしていた。と言うのは彼女の主観に過ぎず、客観的事実のみを挙げるとするならば、彼女が為そうとしている事は皇宮からの脱走であった。


壱子は皇女である。正式には玲漸院宮壱子内親王と言い、齢は十二で、父は前の帝、母はそれに仕える女官だった。

これは完全に蛇足だろうが、この国の大英雄を呼び捨てにするのは心苦しいものがある。とは言えこの時はまだそんな影も見えないし、いちいち尊称に割く墨も勿体無いから、まあ許されるだろう。


なぜ壱子がこの日、住み慣れた皇宮から抜け出そうとしていたかは諸説あるが、最も有力なものとしては、前々日に彼女が、兄である帝に貴族の次男坊への降嫁を命じられたことが原因だ、と言うものがある。この次男坊とやらの正確な情報を私は知ることができていないのだが、なんでも壱子とは三十近く歳が離れていたと言う話だ。


壱子は、母から受け継いだ小さな魔鏡をいつも肌身離さず持ち歩いていた。魔鏡と言っても何か特別な、魔法的な力を持っているわけではなく、精密に磨き上げられた銅鏡をこのように呼ぶのである。しかし事の顛末を知る今の私としては、魔境の定義を貴兄らが想像したそれとしてしまっても、おおむね差し支えないと思う。

壱子にとって、構造を熟知した皇宮を抜け出すのはそんなに難しいことでは無かった。皇宮を守護する者たちだって、誰かが外部から侵入することについて対策を講じていても、内部から外へ行こうとする者がいることなど考えもしなかった。

果たして、壱子は生まれて初めて皇宮以外の土を踏むことが出来たのである。


以上がこの物語の導入部分にあたる。

これ以降は筆者の私はなるべく出てこないようにしようと思う。物語を語る上では、どうしても余分なものになってしまうから。

そういうこの一文も蛇足であろう。


――――


初春。まだ肌寒さの残る空であったが、皇都の市は今日も大層賑わっていた。この皇都で三番目に大きい通りである羊門大通りは、きっちりとした店構えの大店おおだなからいわゆる露天商まで、通り全体に大小さまざまな店が軒を連ねる皇国一の常設市でもあった。


「肉と乾飯ほしいい*は揃ったから、食料は野菜の酢漬けでもあればいいか」

 薄汚れた服装の男は、平間京作という。髪はボサボサで、不釣り合いに丈の長い服の裾は擦り切れており、いかにも胡散臭そうな風体である。

平間は「乾物」と書かれた看板の小奇麗な店で、売り物である大量の食物を抱えていた。


「親父さん、もう少し酢漬けはあるかな。あと五食分ほど欲しいんだが」

 店の奥で帳簿をつけていた恰幅の良い店主が顔を上げる。

「そりゃあるさ。うちはそういう店だからな。だがアンタ、そんなに買い込んでて、ちゃんと金はあるのかい」

「もちろんだ。なんだって俺はこう見えて宮仕えだからな」

平間がそう言って懐のぼろ布をじゃらつかせると、いぶかしんでいた店主はさらに眉を潜める。

「アンタ、それ盗品じゃねえだろうな」

「勘弁してくれよ。そんなに俺が怪しいか!」

「怪しいね」

「怪しくない! いいか、俺は政所の和倉係付きの立派な役人だ!」

「わくら……なんだって? 聞いたこと無いが、店先で喚かないでもらえるかな」

「喚かせたのはそっちのほうだろう!?……まあいい、ほら、これを見てくれ」

平間は、首にかけていた金属製の札を店主に示した。

それを店主は訝しげに見やる。


「ふむ、たしかに役人さんみたいだな」

「そうだ」

「てことはさっきの金もアンタの物だな」

「もちろんそうだ」

「しかしアンタ臭いぞ」

「何がだ。俺は怪しくないと言ったばかりだろう」

「違う。くさいんだよ。においが」

「悪かったな! 仕方ないだろう、忙しくて風呂に入る暇も無いんだ」

「まあ待っとれ。酢漬けだな。取って来させる」

「聞けよ! 勝手に言いがかりをつけておいて勝手に終わらせるな」

「喚くな。次やったらつまみ出すぞ。いいな」

「……よし分かった、待ってる」

 平間は口角を上げてわざとらしい笑みを作る。店主はフン、と頷くと、もとの帳簿付けに戻った。


 店を出た平間は、大量の食料を背負って大通りを下っていた。多くの人が行き来するこの通りは、商人だけでなく庶民や軍人などの幅広い人種が売買に来る。それほど多様な店から構成されていた。

「もう少し買い叩きたかったが、まあ及第点かな」

 そう満足げに一人呟く彼の腿に、突如として後ろから軽い衝撃が走る。


「……なんだ?」

 辺りを見回しても、ぶつかったであろう物は見えない。後ろじゃない、前か、と思って前を見ても、もちろんそれらしき物は見えない。

「追われています。匿ってくれませんか」

 後ろからの声に、再び振り返る。

 視界の下から小さな手が出てきた。

 平間は恐る恐る視線を下に移動させていくと、結構降ろしたところで、外套をかぶった少女と目が合った。


少女が微笑む。

「ごきげんよう」

「これはご丁寧にどうも」

「いえいえ、こちらこそ突然お声かけしてすみません」

「そんなそんな」

 なんだこの会話は、と自分で内心突っ込みを入れる。

「あの、ここではなんですので、あちらの方へ」

 少女が口を開く。

「できれば、急いで欲しいです」

 少女は平間の手を引き、大通りの脇路に駆けて行く。


 平間はまた混乱した。自分は今、見ず知らずの少女に路地裏に連れて行かれようとしている。何故?

仮説①、路地裏には少女の愉快な仲間たちがいて、脅されて身包みを剥がれてしまう。やだなあ。

仮説②、少女に安宿につれていかれ、大人な関係になろうとした所で刺青まみれな怖い仲間たちに脅されて身包みを剥がれる。これも勘弁したい。

仮説③、「ずっとあなたのことを見ていました、好きです。めおとになりましょう」。これならまあいい。俺には少女趣味は無いけど、身包み剥がれるよりは全然マシだ。そろそろ身を固めろ、孫の顔が見たい、と母上にも嫌味を言われるようになってきたし。


 などと平間が自分勝手で気持ちの悪い妄想をめぐらせている間に、気付いたら人通りの無い場所にいた。「へえ、少し入ればこんなところもあるんだな」などと感心していると、少女が振り返る。

「追われています。匿ってください。……ていうかこれ二回目ですよね?」

「そういえばそんな事言ってた気がする」

「そういうわけです。匿ってください」

「……何故俺が匿わなきゃいけないんだ。どこの誰とも分からない君を」

 平間は少女の話から、災難の匂いを嗅ぎ取っていた。

 彼は苦難を好まない。それが他者に因るものならば尚更だった。


「それもそうですね。分かりました。名乗りましょう」

 そう言うと少女は、外套を払い顔を見せた。艶やかな髪が小さく揺れて光る。年は十二、三辺りだろうか。形の良い薄桜色の唇と、やや小さめの鼻、何より印象的なのは少しあおみがかった黒の瞳である。その深い海を思わせる透き通った色に、平間は思わず吸い込まれそうな錯覚に陥る。これはこれは、将来はきっと美人になるんだろうな、などと平間はぼんやりと考えていた。


「私は玲漸院れいぜんいん壱子いちこと申します」

 歌うように紡がれる清らかな言葉。

「大皇国第八皇女である。よしなに」



*乾飯:炊いた米をさらに天日干しした保存食。そのままかじったり、水に戻したりして食べる。

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