第31話 想いは燃ゆる。♯5

 明日は我が身。今日こそ来るか。そんな日々だった。


 朝になって、ゴミ捨て場を見に行く。問題なし。一応車を見る。問題なし。


 無差別ではない不審火は、今日も私と真奈加を襲うことはなかった。一安心、と言うには早いが、一息つくことは出来る。


 真奈加を職場まで送り届けるのもこれで二日目。無論、実結さんの足となる役目の為には、真奈加が運転して出勤し、車が手元にない状態になっては困るからだ。


 しかし、昼頃になっても実結さんから連絡が来ることはなかった。


 どうしたのだろう。連絡が来ることが当たり前になりつつあっただけに、なんだかモヤモヤしていた。所詮は運転手。こちらから協力を申し出ることは出来ない。ようは、実結さんからの要請なしには動けないのだ。


 もどかしい。もどかしい。


 私は布団に寝転んで、天井のシミを数えていた。もしも真奈加という恋人がいなかったら、きっと私は万年床で自堕落に過ごしていただろうと思う。フローリングの上にカーペットを敷き、畳でもないのに床生活をする私には、全身が床に付いている状態が一番楽だった。重力に出来るだけ逆らいたくない生き物なんだと思う。


 こんな人間なのに、色恋にはとんでもなく不埒なのだから、そんな自分には辟易しているところだ。真奈加がせっせと働いている間にも、私は天井を見つめるだけで、考えることといえば実結さんのことばかりだ。


 何があったんだろう。連絡の一つもくれないのはなんでだろう。


 私の一年は、あの出会いの日から随分と変わったと思う。


 あの日、たまたま車が壊れていなかったら、私はバスに乗って実結さんのいる書店を訪れることもなかった。


 あの日、たまたま万引きが起きていなかったら、私は実結さんとお話することもなかった。


 幾つもの偶然が今日まで導いてくれていたことを思うと、人生は何が起こるか分からない。実結さんの表情に一喜一憂して、幸せで、でも、片想いに少しズキズキもして、本当に、不思議な一年になったものだ。


 昼食も取らず、テレビも点けず、静かな室内。布団は暖かい。数えるシミもなくなれば、あとは目を瞑るくらいしかなくなって、おやすみも言わず、私は夢の中に入っていった。



     ○



 おはようは夕方になっていた。一日を無駄にした、という後悔がため息になった。こんな怠惰が許されて良いものかと自分を責めながら、癖のように携帯電話を取る。三分前に実結さんから連絡が入っていた。どうやらこの着信で現実に引き戻されたらしい。


 慌てて折り返すと、


『すみません。お忙しいところ』


「いえいえ」この私が忙しい筈もなく。「何かありましたか」


『もしかしたら、新たな不審火が発生したかもしれません』


 思わず咽せた。「ご、五件目ですか」


 私は眠たそうな声に驚愕を乗せた。けれど、違和感があった。


「もしかしたら、って、例の事件情報のメールが入ったんじゃないんですか?」


『違うのです。メールに入ってくるのは、遠柿市で起きた事件や事故だけで、他の市町村のものは配信されません』


「ってことは、今回は他市で不審火があって、それも同一犯だと?」


『ええ。夕刊に、隣の水埜市で今朝不審火があったと書かれています。市を跨いでいることから連続不審火との疑いについては書かれていませんが、それでも隣ですから』


「同一犯の可能性あり……。じゃあ、水埜市にお知り合いがいらっしゃると」


『何名か思い当たります。今日はアルバイトもお休みを頂いていたので、申し訳ありませんが、今からお会いできますか』


 訊かれるまでもない。その言葉を待ちに待って待ちきれず惰眠をむさぼっていたのだ。

「よろこんで!」



     ○



 合流は駅前だった。助手席に実結さんを乗せ、夕映えの町を軽自動車は走る。水埜市までは十分ほどだろうか。


「被害者が誰か分かったんですか」私が訊ねると、実結さんはかぶりを振った。


「連絡が付いた方は皆さん違いました。なので、やや不躾ではありますが、連絡が付かなかった方の家にこれから向かおうかと思いまして」


 指先まで覆うような袖からちらりと見える細い手が、胸の前でぎゅっと握られている。


 少し違う。実結さんの雰囲気が、少し違う。なんだか、この五件目の事件を目にしてしまうことを恐れているようでもあった。それは、倉橋くんの家に行く時とも、麻衣の家に向かう時ともまるで違う表情だったのだ。


「大丈夫ですか」


 右折するタイミングを待つ間に私がそう言うと、実結さんは少し驚いたような表情でこちらを向いた。まんまるな目が、少し優しくなった。


「ありがとうございます。ほんのちょっとだけ、本当にちょっぴり、大丈夫じゃなかったかもしれません」


 夕陽が実結さんの頬に淡い色をさしていた。暖房の効きの悪い車内、真っ白な吐息さえもオレンジ色になった。その姿は、この世の物とは思えないほど美しく、儚くも消えていきそうな輝きは、まるで今この瞬間だけのもののような気がしてならなかった。


 私が想い過ぎるが故なのかもしれないけれど。


「急ぎましょう。解決は、思いの外、近いのかもしれません」


 その言葉が、昨日までの実結さんとの違いだ。


 一体そこに何があるのか。私には分からないけれど、きっと、何かはあるのだ。


 アクセルを強く踏むことの出来ない国道を嘆いた。いち早く、そこに行きたいと願っても、私たちの道には、あまりにも信号と障害が多すぎる。



     ○



 水埜駅近くの一軒家。最近建てられたような真新しい建物の表札には、「本田」とあった。どこかで見たような名前だが、別段珍しいものではないから、どこかしらでは出会っているであろう名字だ。


 駐車スペースは乗用車二台分。だが、一台も止まってない。留守かとも思ったが、実結さんは躊躇わずインターフォンのボタンを押した。優しさの欠片もない音がけたたましく鳴る。ぴんぽーんじゃないタイプの方だった。


「はいはい」と声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。少しだけ、背筋に寒気がはしった。


 扉が開かれ、玄関に立っていたのは、覚えがあって当然、春に私を万引き犯扱いしたあの書店員じゃないか。私は顔をしかめた。


「あら、実結ちゃん。やだあ、どうしたの急に。初めてじゃない、うちに来るなんて」


 テンションの高さがいかにもおばさん、と内心呟くとさすがに失礼かとも思ったが、こちらも春に失礼を頂戴したので、おあいこである。


「本田さん、どうして……」


 どうやら実結さんもこの人物が家にいることは予想していなかったようで、少し驚いていた。


「自転車があったので、てっきり娘さんが出てこられるかと思ったのですが。本田さん、今日はお仕事だった筈では?」


「さすがに休んだわよ。こんなことがあったのに家を空けられないから。娘が残るって言ったんだけど学校もあるし、若い女の子一人家に残しておけないじゃない?」


「こんなこと、といいますと、やはり不審火は本田さんの家で起こっていたのですね」


「あれ、もしかして夕刊載ってた? そうなのよ本当に参っちゃう。まあそろそろ買い替えようかなんて言ってた車だからいいんだけど。とにかく怖いわほんと。それだけよね」


 実結さんは、深々と頭を下げた。


「ご迷惑をおかけしてしまって……」


 本田は慌てて実結さんを止める。


「ちょっと、なに、実結ちゃんが謝ることじゃないでしょう。頭上げてよ、ほら」


 実結さんは、数秒、頭を上げなかった。


 数歩後ろで、私は見ていることしか出来なかった。実結さんの心にある想いを止めることは、私には出来ないのだ。自分のせいで――そう考えてしまう実結さんの苦しみが、端々に見て取れたからこそ。


 ようやく頭を上げて、それでも尚俯く実結さんは、今何を思っているのだろう。犯人への憤りだろうか。また、自身を責めているのだろうか。見えはしない表情を想像して、私の胸がずきずきと痛む。恋の痛みとするには、刺々しさが過ぎた。


「にしてもさ、ちょっと聞いてよ」


 玄関先は主婦のホームグラウンド。実結さんの表情が見えている筈の本田は、自身のペースで井戸端会議モードに入って話し始めた。


「なんかね、色々と物色した気配はあるみたいなの。そこの自転車、いつもとは違うところに置かれてたし。でも、やっぱり車でしたかって言うわけよ警察の人が」


「やっぱり、ですか?」


「そ。なーんか車とかバイクとかばっかり狙ってるとか言って。ほら、知ってる? 遠柿の不審火。何件も立て続けに起こっているらしくて、今回もそれと同じ犯人じゃないかって。他にも燃やしやすいものなんてたくさんあるじゃない、ほら、隣の家なんてゴミ捨て場が遠いからって家の前に古新聞なんて積んであるのよ? 冬なんだから火事になったら大変じゃないのって言ってるんだけど懲りずに出すのよあの人。でもそれは燃やされなかったのよね。むしろ燃え移らないように遠ざけてまでいるって。おかしな話よね。自分で火つけておいて」


 井戸端会議は忙しないと聞くが、この早さで言葉が継がれるのでは付いていくのもやっとだった。もう少し歳を重ねれば、このスピードに付いていけるのだろうか。


「悪趣味よね、車なんて狙って。きっと怨みがあるのよ車に。事故に巻き込まれたことがあるとかさ、でなきゃ狙わないでしょ。なのに大して燃やしもしないし何よって感じよね。うーん、まあね、実を言うと、うふ、新車を買う決心出来て良い機会だったなあ、とか思ったりもするんだけどね。あ、これ旦那には内緒ね。残念がりながらおねだりするから。ちょっといいやつにしようかなって。週末見に行くのよ、楽しみだわあ」


 しぶとい。いや、図太いぞ本田。


 でも、被害に遭った人がこれくらい明るくいてくれたら、実結さんの心も少しは軽くなるのかな、なんて、私は思ったりもした。



     ○



 一時間。話題は実に他愛ない世間話に終始した。否。本田の一方的な世間話に終始したと言うべきか。実結さんは相槌を打つのがせいぜい。三分と持たずに変わっていく話題はとうとう、海外タレントの隠し子騒動にまで発展した。


 それに終わりが見えたのは、日が暮れて、「晩ご飯まだー」と本田娘が声を上げたときだった。本田がまだ喋り足りないような顔を見せたのは全く以て信じ難いが、やっと井戸端会議が終わってくれる、などと思っていると、玄関を入っていく本田に向かって頭を下げる実結さんに目を奪われた。


 そこまでしなくても、とは思う。けど、実結さんはそれをする人だった。


 そして、実結さんは私の方へと振り向いた。


「帰りましょうか」


 口許に、確かな笑みはなかった。なんだか、おぼろげだった。


「もう、いいんですか」


「ええ。疑問に思っていたことは、一応解決しました。帰って、もう少し考えてみます」


 そう言う実結さんの目に、頬に、口許に映るものは、一体なんなのだろうか。


 悲しげ、なのだろうか。微笑んでいるのだろうか。私には分からなかった。


 ただ「ああ、この時間ももう終わりなんだな」と感じる私がいたということは、私自身、もう幕引きはすぐそこまで来ていることを自覚していたに他ならない。


 私は事件について考察することが出来ない。そんな頭を持っていないし、そんな優しさを持っていない。だから、現時点でこの事件がどこまでの進展を見せているかも分からないまま、私はハンドルを握っているだけだ。


 それでも、実結さんが纏う優しさと暖かさが、ほんの少し陰りを見せたように感じたその瞬間が、実結さんがこの事件と向き合った証拠のように思えたのだった。


 それはまるで、グラスの中の氷が溶けていくように。いずれは来ることが分かっていたその果てに、とうとう辿り着いてしまったように。


「寒い、ですね」私はたまらず声を出す。


「ええ。冬ですからね。仕方がありませんよ。仕方が、ないんです。きっと、仕方がなかったんです」


 夜道でしか聞こえないような、小さな、声だった。



     ***



 翌日。とある報道が、地元新聞朝刊の端にあった。私はそれを、実結さんから送られてきたメールに添付されていた、紙面の写真によって知った。


『遠柿市の住宅街ごみ捨て場に火を付けたとして、県警遠柿署は二十一日、松本二郎容疑者(52)を現住建築物等放火未遂容疑で逮捕した。容疑者は七日未明、泥酔し帰宅する道すがら、指定の曜日を守らずに捨てられていたごみに腹を立て、火を付けたという。同市では今月に入ってから不審火が数件発生しており、余罪があるとみて追求するも、容疑者は一件目を除き否認しているという』


 これは、つまり答えを示していた。


 私にはどういうことか分からなかったが、実結さんはメールをこう締めくくっていた。



『終わらせます。全てを』

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