第32話 想いは燃ゆる。♯6

 実結さんが、全てを終わらせると言って歩き出した真冬の夜空の下。


 古くからある寺の境内に、その人は現れた。


「寒い中わざわざありがとうございます。こんな時間にお呼び立てして、申し訳ありません」


 実結さんの言葉に、その人はわざとらしく笑う。


「別に、大丈夫」


 白い息がもわりと宙を舞い、そして大気に混ざるように消えていく。さすがにこの時間だ。寒空は、当然のことながら凍えるほど冷たかった。隣に墓地があることもまた、この冷えの一因なのかもしれない。


 街灯の一つだってありはしないこの場所を照らすのは、天高く輝く半分にも満たない月の光のみだったが、それでも十分すぎるくらい、この場所には他の光源が見当たらなかった。


 そんな中で、その人はその人の輝きを放って、境内の静けさを騒がしくする。


「で、何の用?」


 その人は、友人に向けているとは思えないような、嘘くさい笑みでそう言った。


「端的に、結論から申し上げます。この遠柿市と水埜市で連続して発生した不審火事件を起こしたのは、あなたですね」


 その人は、綺麗で整った顔をぴくりとも変えなかった。


 数秒の沈黙。それによる静寂。


 その人はようやく口を開き、白息が宙に浮く。


「なんで?」


「何度も考えました。たくさん考えました。そんなはずない。そんなはずはない。自分に言い聞かせながら、それでも浮かんでくるのは、あなたによる犯行なのではないか、というものばかりでした。いくつもの可能性を消して、そして残るのもあなただったのです」


「へえ。酷いこと言うんだね。面白いじゃん。じゃあ、聞かせてよ。いつかみたいに。あなたが犯人だ、なんて思った訳」


 冷静なのか、達観するようなその目は、いやに冷たかった。


 面と向かう実結さんとその人との距離は十メートル。囁きさえも届いてしまう無音の境内に、実結さんの声が穏やかに響き渡る。


「報道をなぞりますと、これは、十二月七日未明に起こったゴミ捨て場での不審火を発端として、五件立て続けに放火された、連続不審火事件とされています。加えて、わたしは事件に触れる前、不審火とは別に、奇妙なことに遭遇しています。わたしの住むアパートの郵便受けに、封筒が入っていたのです。そこには、『ゆるさないみていろ』との文字がありました。その直後に、不審火事件です」


 立ち姿は儚げで、実結さんの強さと弱さが、滲み出ているようだった。


「一件目とされていたのは、わたしの自宅近くのゴミ捨て場でした。続けて、倉橋くんのご自宅、麻衣ちゃんのアパート、日比野くんのご実家、五件目に本田さんのご自宅。皆さん、わたしと浅からぬ関係の方ばかり。これら全てが偶然である、なんてまずあり得ません。封筒の件と関連づけるのは当然のことと言えるでしょう。わたしに何らかの怨みを抱いた方が、わたしとわたしの周囲を恐怖に陥れようとした、となれば犯人は、悲しいことですが、わたしの知人の中にいると考える他にありませんでした。

 ですが、問題があった。この二件目以降の被害者全員を知る人物に、心当たりがなかったのです。しかしそれは、わたしが考えないようにしていた、だけなのかもしれません。五件目が水埜市で起き、被害者が本田さんであったことがきっかけで、もう目を逸らせなくなりました」


 実結さんの前に立つその人は、表情を固めたまま、僅かに首を傾げた。


「きっと、あなたはこの意味が分からないと思います。何故なら、わたしとあなたでは、被害者は誰か、という点で齟齬があるのですから」


 実結さんは、淡々とした口調だけは崩すまいとしているような風情で、それは、平常心が今にも瓦解しそうな雰囲気さえも感じさせた。


 実結さんは決して強い女性じゃない。他人よりちょっと優しいだけなのだ。その優しさだけが、今の彼女を支えているように見えた。


「数人の方を、まことに失礼ながら『容疑者』として挙げさせてもらっていました。ですがいずれの方も、被害者全員を知る方はいなかった。そしてそれは、あなたを容疑者たらしめるものを否定しうる唯一の材料のようにわたしは感じていました。が、それをあなたは、自身の手で、すなわち五件目とされた事件によってないものにしてしまった。そうです。本田さんが被害に遭われたことが、全てを繋げてしまったのです。

 では、それはどういうことか。他ならぬあなたが一番理解出来ていないと思います。それこそが齟齬なのです。

 あなたは、今このとき、二件目の被害者の呼び方に疑問を抱いたのではないでしょうか。わたしは、その人を『くん』と呼びました。ですが、きっとあなたは、こう呼ばれて然るべきと考えている筈です。『くん』ではなく、『さん』。つまり、『倉橋さん』と」


 その人は僅かに眉を動かした。月明かりで視認出来るくらいなのだから、きっと受け取る印象以上にその感情は揺さぶられたのだろう。


「あなたは倉橋くんを知りません。けれど、もう一人の倉橋さんなら知っているんです。名前はともかく、何度も書店に訪れていて、店員である本田さんをターゲットにすることが出来たあなたなら、先日までそこで働いていた元書店員の倉橋さんのことを」


 その人は笑った。小さく吹き出すように。


「なるほど。面白いね」


「倉橋さんのお宅には、高校の後輩である、倉橋誠くんが住んでいらっしゃいます。あなたが尾行しターゲットにした、倉橋大喜さんの息子さんです。倉橋さんは同じ職場の方でしたが、先月転職されていたため、わたしは自然と、後輩である倉橋くんが狙われたのだと決めつけていました。

 ですが、五件目に本田さんが狙われたことで、職場の方もターゲットたり得ることが分かった。倉橋さんが狙われるのは、何もおかしなことではない。そう考えると、後輩である倉橋くんを知らないからこの人は犯人ではない、という否定は成り立たなくなる。そうなった人物は、一人だけです。それが、あなたなのですよ。

 連続不審火事件、三件目の被害者とされていた、河田麻衣ちゃん」


 その人は――河田麻衣は、美しい顔に真っ黒な笑みを浮かべる。これは私の主観で、犯人だと思っているからそう思ってしまうのだろうが、とても、悪人面に映った。


「ちょっと待って。そんなことでワタシを犯人だなんて言うの? 酷いよ、実結」


 実結さんは頭を下げる。深く。深く。


「謝るくらいなら疑わないでよ。心外だよ」麻衣の言葉が、境内に冷たく響く。


「すみません、麻衣ちゃん。わたしはそれでも、この考えに行き着いてしまいました。否定する材料がなくなり、顔見知りである方の犯行とした場合、この事件を起こし得るのはあなたしかいなかったのです」


「そもそもワタシが疑われた訳が分からないよ。友達じゃん。疑いなんて、最初からかけないでしょ? 友達だったら、さ」


「わたしが麻衣ちゃんの犯行であるかもと思わざるを得なくなったのは、四件目の日比野くんが被害に遭われたときのことです。違和感を覚えました。いいえ。自分の中にあった違和感が、どうにも無視してはいけないものであるということに気付いてしまったのです」


「どうして? ワタシが日比野のことを知ってたから?」


「いいえ。それは関係ありません。事件が重なるにつれて、一件目とされた小火とそのほかとの違いが明確になってきたからです。一件目とされた近所のゴミ捨て場は、あくまでも近所なのです。自宅の目の前、ということでもありません。おかしいと思いませんか。二件目以降はまるで、ターゲットはこの人物である、と特定させるように全てが自宅やアパートの敷地内で起こっているのに、何故一件目だけがやや離れた場所で起こっていたのか。わたしの住むアパートには、目の前に、住民専用のゴミ捨て場があったにもかかわらず、です」


 寒さに紅潮した頬で、実結さんは告げる。


「それは、一件目はわたしを狙ったものではなかったのではないか、との疑念が確信に達するには十分でした。ただ単に偶然、そこで事件が起こっただけだった。そう考える方がしっくり来たのです。それは、今日の新聞報道で確かになりました。逮捕された男性は、一件目とされた事件は自身の犯行と認め、他は否認しています。それによって一件目当時にアリバイがあった麻衣ちゃんからアリバイが消え、犯人である可能性が浮上した。

 では何故、事件は不審火という形で続いたのでしょう。それは簡単です。その一件目とされた不審火事件を受け、それを模倣することによって、自身の犯行の隠匿と、より大きな恐怖をわたしに与えることを狙ったからです。

 ですが、事件が初めて報道されたのは、事件から一週間以上経って、かつ二件目とされる事件が起こってからでした。不審火を知り得えない時期です」


「じゃあ無理じゃない」


「遠柿市によるメールサービス」


 言葉をかぶせるように実結さんは言った。


「それは、地元紙でもなかなか報じないような小さな事件さえ、市民に情報を提供する素晴らしいサービスですが、詳細まで伝えられるきらいがある。事件があった町名まで記載されるのです。それによって犯人は、わたしの自宅近所のゴミ捨て場で不審火があったことを知ることが出来た」


 その人は、不気味な笑みを口許に貼り付け続けていた。


「麻衣ちゃんは事件前よりそのサービスに登録していたことを先日教えてくださいました。事件を、報道より先に知り得たということです。それによって、事件を利用することを思いついたのではないでしょうか。本来一件目となり得た犯行が、大した騒動に、ならなかったから」


 麻衣は息をはいた。真っ白な息だ。呼吸とするには大きくて、麻衣の反応が先程と違うことを示していた。細身のジーンズで露わになるスタイルの良さが、一転、恐怖に戦く鹿のような弱さを見せる。


「今年一年、わたしが最もプライベートを過ごした方が被害に遭っておられないことが不気味でした。しかし、それは違うのでは、と思いました。今月の初め頃、とある方のお車のタイヤがパンクしています。ご本人は、いつもと同じく故障だと思ったそうですが、換えたばかりのスタッドレスタイヤはそうそうパンクしないでしょう。ですが、誰かが穴を開けたというなら別です。

 つまり、本来あなたは、放火なんてせず、タイヤをパンクさせる程度でとどめておこうと考えていた。けれど、騒ぎにはならなかった。それでは、わたしを恐怖させることには繋がらない。意味がなかったんです。そんな中で不審火があったことを知ってしまえば、利用したくなってもおかしくはありません。パンクしていたのは四日の朝ということでしたから、封筒が入れられてから二日後。倉橋くん宅の放火を一件目とするにはラグがありすぎると思っていたのですが、そう考えれば納得がいきます」


 呆れるように麻衣は白息を吐く。


「でもワタシ被害者だよ? 自分で自分のところに火をつける馬鹿いなくない?」


「犯人が被害者を装うことは古今東西、ありとあらゆる事件で行われてきたことです。それに、麻衣ちゃんの住むアパートが被害に遭った日は、不審火事件の報道が地元新聞の朝刊で初めて報じられた日の夜でした。疑われるのではと焦って被害者側に立とうとすることを別段不思議には思いません」


「じゃあ他の被害者は?」


「他の方は、麻衣ちゃんのことを知らない、という人ばかりです。それに、実は麻衣ちゃんの被害だけ、この連続不審火事件で少し他と違うところが見られるのです」


「へえ。どこ」


「放火された場所です」


 砂利の音がした。麻衣が、地面を強く踏みしめたのだろう。


「倉橋さんは車、日比野くんはバイク、本田さんも車。では、何故麻衣ちゃんだけは車ではなかったのでしょうか。一件目のゴミ捨て場が別人の犯行ならば、他にゴミ捨て場で火の手が上がったのは麻衣ちゃんだけなのです。それは何故か。自分を被害者に装うために放火することを決心しても、倉橋さんと同じように車を燃やしては困ることがあったからではないでしょうか」


 言葉が途切れないよう、覚悟が断ち切れないよう、実結さんは口調を早めていた。


「そうです。麻衣ちゃんの住む場所の近くには、バス停がないんです。車を動かせなくなれば、麻衣ちゃんは移動手段を失います。大学にも行けない。それどころか、以降、犯行が出来なくなることになる。目的が果たせなくなるのです。それは恐らく、本意ではない。違いますか?」


 実行に移動能力が不可欠なのは、実結さんが今回の事件を調べる為に車を要したことからも分かっていたことだ。そしてそれは、自宅近くを通るバスが一本しかなくて不便な倉橋くんや、バイクが燃やされた日比野くんには犯行を否定しうるものになる。


「だったら他の家もゴミ捨て場が燃やされるんじゃないの? ワタシが犯人ならそうするよ」


「なかったんですよ。ゴミ捨て場が。他の方は皆さん一軒家にお住まいで、自宅の前にゴミ捨て場がなかった。本田さんの隣家の前には古新聞が積まれていましたが、それを燃やせばさすがに大惨事になる危険があった。それは避けたかったのでしょう。結局、車に焦げ跡を残す程度に留まった」


 麻衣は肯定をしない。頑とした否定もない。どちらなんだ、とやきもきするよりは、特段の否定を見せないことによる肯定のように思えた。


「高校生では不可能なレベルでの移動手段の確保、被害者全員を知っていること、そして……動機。それは、麻衣ちゃんでしか有り得ませんでした」


 麻衣の表情が動いた。一瞬、強い寒風が吹く。麻衣の髪が踊った。境内の砂利が再び鳴って、それは恐ろしく冷たい音だった。


「動、機?」麻衣の声が揺れた。


 実結さんは頷くことをしない。出来なかったように、私には映った。


「咲恵さんに、麻衣ちゃんのご自宅をお訊ねした時、もう一つ訊いたことがあります。不審火事件一件目とされた日、何をしていたかです。咲恵さんは、麻衣ちゃんと一晩を過ごした、と仰いました。麻衣ちゃんにも同じことを訊きましたね。答えは」


「同じだった」


「そうです。それはアリバイを訊いたつもりだったのですが、一件目が別人だったことでそれはアリバイにはならないことが判明しました。が、その質問で分かったことはそれだけではないのです」


「何、それ」


「その日は火曜日でした。麻衣ちゃんの彼氏さんのお仕事が、お休みになる日です。それなのに、サークル旅行の計画のためにわざわざ泊まるのは、少し違うのかなと思いました。もちろん、お休みの度に恋人と過ごすことはないかと思います。けれど、それでもなんだか、違うと思ったんです」


 少しずつ、声音に力強さが付与されていく。強くしているのではない。強くしなければ、その心は容易く崩れてしまうのだ。それほどの、ことなのだ。


「近頃、麻衣ちゃんが大学にあまり来られなかったこと。連絡があまり付かなかったこと。それは秋が深まってからのことでした。その頃に何かがあった。そう考えるべきでしょう。では、何があったのか。わたしになんらかの怨みを持つとしたらなんなのか。わたしは麻衣ちゃんと深く話すことは多くありません。となれば、深い接点は、あの夏のことしか、ありえないのではないでしょうか。つまり」


 沈黙。


 体感十秒。


「彼氏さんとお別れしたんですか。麻衣ちゃん」


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