第21話 できれば隠しておきたくて。♯4

 こんなことが起こると想定出来るような人生を送ってきていたなら、俺の日々はここまで退屈ではなかっただろうと思う。未経験故に俺は目を見開いた。これは、ある種の急襲だった。


「こ、こ、この俺に、すす、好きなどという感情を抱く奇人が、果たしてこの世にいるのだろうか」


 冷静さを欠いた。狼狽えた。今の俺には、正直に抱いた感想を言う他に感情を表現する方法はなかった。

 齢四十三にして、こんなことが起こるとは夢にも思っていなかったからだ。


「と、言うことは、鷹箸さんはこのお手紙に心当たりがないのですか」


 当然だとばかりに俺はかぶりを振った。


「ま、全くないよ。誰が鞄に入れたんだろう。いや、ちょっと待って欲しい。本当に分からない」


 俺は頭を抱えた。仕事用の鞄に入れたと言うことは、


「職場の誰かか? いや、悠木ゆうきさんは恋人がいるからあり得ないし、小野田おのださんは年齢が一回りも違う、ありえない!」


「勤務先で働いてらっしゃる女性は二人だけなのですか」


「ああ。そうだ」


「では男性からでは」


 手を顔の前で大きく横に振る。


「いや、さすがに勘弁して……そりゃあこの歳まで独身だと、親戚からそんなことを言われたのは一度や二度じゃないけれど」


 そんなこともあり得る、などと考え始めたら明日からの仕事に支障を来たしそうなので、候補からは外しておくべきだ。


「あの、本当にその、悠木さんと小野田さんというお二人しか考えられないのですか」


「職場に他の女性もいないし、お客さん……はあり得ない。女友達なんて一人もいないし、あとは女の子というと姪っ子くらいだから、その二人意外考えがつかない」


「そうですか……姪っ子さんと言うと、彩花さんですね。まだお会いしたことないんですよ」


「そう。昨日も家に泊まって……は、どうでもいいんだけど」


 実結ちゃんが小さく手をあげた。


「あの、よろしければ、そのお手紙、見せて頂いてもいいですか?」


「え、ああ、いいけど」


 俺は実結ちゃんに、その手紙を渡した。



『鷹箸壌市郎さんへ。

 急なことで、ビックリしたと思います。ごめんなさい。直接言うのははずかしいので、手紙で書くことにしました。でも、何をどう書いたらいいのか分かりません。だから、単刀直入に、正直に、本音を書きます。

 ずっと、あなたのことを見ていました。

 好きです。わたしと、付き合ってください。

 返事は、早くなくてもいいです。

 よろしくお願いします』



 実結ちゃんは声を出して読み上げた。


「実結ちゃん、さすがに音読は恥ずかしいから」


 熱くなった顔を手で押さえながら言うと、実結ちゃんもさすがに照れているようだった。頬がほんのり赤くなっている。


 実結ちゃんは居直って、改めて手紙を見つめた。


「まっすぐなメッセージですね。すごく、可愛らしいです」


「いやあ、本当に心当たりがないんだけど、ど、どうしたらいいんだろう、これは」


 初めての経験に途惑うことしか出来なかった俺は、何故か目の前の実結ちゃんに助けを求めた。


「これ、どっちからだと思う?」


 そんなことを訊いてどうするんだ、と気付いて、すぐに「ごめん」と謝った。実結ちゃんは悠木さんのことも小野田さんのことも知らない。


 実結ちゃんは、柿の載った皿を机の真ん中の方へとずらし、俺と実結ちゃんが見やすい位置に、手紙を置いた。


 そして、考え始める。


「とても綺麗な字です。確か鷹箸さんは、職場で店長さんをやっておられるんですよね。でしたら、従業員の字を確認することは度々あるはずです。この字に見覚えはありませんか?」


「うーん」俺は唸ることが精いっぱいだった。


 ボールペンで書かれた字は、印刷された機械的な字、とまではいかないまでも、とても整っていた。


 ところどころ掠れたように見えるところから、おそらくは、一本で複数の色を出すことが出来るノック式のカラーボールペンで書いたんじゃないかと思う。そういう判断は、普段から様々なペンで書かれた字を見ているからか、容易についた。


「でも、仕事の書類の字しか見ないからなあ」


 実結ちゃんは首を傾いだ。


「ああ、えーっと、何て言うかな。仕事の書類ってたくさん書かなきゃならないから、こんなに丁寧に書かないんだよ。自分の書きやすい字で書かないと、就業中に終えることが出来ない。だから、これがもし小野田さんや悠木さんの本気の字だとしたら、もう判断のしようもない」


「なるほどです。本気の字、ですか」


 様子を見るに、実結ちゃんは、どうやら本当にこの手紙の差出人を突き止めるつもりだ。漏らす息や視線に、真剣さがあるのが分かる。


 俺は、その理由が分からなかった。


「どうしてそんなに悩んでいるのかな。自分で訊いといてなんだけど、君にとっては他人事だし……」


 実結ちゃんはこちらを見て、小さく笑った。とても、優しい目をしていた。


「鷹箸さんを想う女性が誰なのかが分かれば、鷹箸さんはその方のことを、一分一秒でも多く、本気で考えることが出来ます。それは、その女性にとっても、鷹箸さんにとっても、とても大切なことだと思うのです。

 相手の想いに応える方法、それは、両想いになることだけではありません。その方のことをどれだけ真剣に考えたか、が大切なのです……と、自分自身の反省も含めて、わたしはそう信じているのですが」


 それに、と実結ちゃんは継ぐ。


「このラブレター、君が書いたの? と女性に訊くのは、さすがに相手に失礼だとも思いますし、鷹箸さんにとっても難しいことでしょうから、ここで分かるに越したことはないでしょう?」


「まあ、確かにそうだね」

 俺は笑みを零した。


「では、この手紙の入った封筒を見つけた状況や、昨日の職場でのこと、思い出せる限りでいいので、お聞かせ願いますか。考察の手掛かりは、一つでも多い方がいいですから」


 実結ちゃんは笑顔でそう言った。


 和室の掛け軸を背負う今日の実結ちゃんは、なんだか、とても楽しそうだった。



   ○



 俺は、衰えを感じ始めていた脳みそに目一杯の力を込めて、薄れつつある記憶を呼び起こそうと必死になった。昨日のことなのだが、なかなかどうして苦労する。


 ベッドから躰を起こしてから、まずどうしただろうか。きっと毎日と同じ行動だっただろう。朝食は、思い出せない。


 その割に、会社でのことはすらすらと出て来た。俺はどこまで行っても仕事人間ということらしい。


 出勤時、自分のデスクに座る前に自動販売機でコーヒーを買った。


 午前の朝礼では何度も言葉に詰まって、男性社員に笑われた。


 昼休憩中に己の人生についてぼやいていると、通りかかった悠木さんに励まされた。


 小野田さんに、書類の誤字について注意をした。


 遅くまで仕事をした。悠木さんが帰る頃、二人で話しをして、悠木さんが帰ると、会社に残ったのは俺一人だった。


 そして、今日有給休暇を取っていることを昨日の夜まで忘れていたことと、それほどまでに仕事に集中していたことも含めて、とにかく思い出せることは全て、実結ちゃんに伝えた。朝食と昼食については、とうとう思い出せなかった。


「で、帰ってからはと言うと――」


 続けて、帰宅後のことを話した。


 ビールを飲み始めて、テレビを見て、彩花が来て、通知表のコピーを見せられ、担任教師からの一言コメントみたいなところを俺が読み上げると「そこじゃなくて」、とか言いながら彩花が怒って、などなど。


 実結ちゃんは首を大きく縦に振りながら、幸せそうに聞いていた。


 今日の朝のことになれば、思い出そうとしなくても勝手に脳内にイメージが浮かんできた。掛け布団、おにぎり、メモ書き、封筒を見つけるに至るまでも振り返り、これでようやく、経緯を話し終えることが出来た。


「ごめん、まとめるのが下手で。長くなっちゃったけど、こんな感じかな」


 実結ちゃんは頷きながら考えを巡らせているようだった。時折、口許に笑みを浮かべる瞬間があるのは何故だろうか。二回り近く離れた子の心を読もうとは思わないが、どうにも気になった。


 実結ちゃんの目線は手紙に向かった。悩んでいるような風情は見られない。


 しきりに見せる微笑も合わせて考えてみれば、もしかして、と俺は思った。


「実結ちゃん、まさかとは思うけど、もう何か分かってる?」


「はい、割と最初から」


 淀みない笑顔で、というよりは、「そんなの当たり前でしょう」といった様子で実結ちゃんは言った。


「悩む要素が見当たりません。ただ、鷹箸さんに説明して納得していただける理屈を探していただけで」


 俺は唖然とした。一体誰がこの手紙を、という所よりは、実結ちゃんがどうしてそんなにすぐ分かったのか、という所に口をあんぐりとさせた。


「この手紙を見て、話を聞いて、わたしとしては、この方以外に考えられない、という所までは来たのですが」


 俺は少しだけ膝に体重を乗せて、身を乗り出すようにして訊ねた。


「じゃあ、誰がこの手紙を?」


 実結ちゃんは手紙を手にし、躰を俺に向けた。小柄で、幼さをそのまま連れて大人になったような雰囲気の実結ちゃんは、真っ直ぐ伸びた背筋に凛々しさを携えて、ほんのり赤い頬と小さな唇を動かして、柔らかな声を響かせる。


「まず、悠木さんは違います」


 開口一番に分かりきったことを言うとは思わなかった。


「だ、だろうね」


「はい。同じ理由で、小野田さんも違います」


「それもそうだ……ん、同じ理由?」


「はい。だってそのお手紙、仕事用の鞄に入っていたんですよね。今日、鷹箸さんが休みを取っていることを、そのお二人は知っているでしょうから、仕事用の鞄に入れてしまうと、下手をすれば明日まで気付かれない可能性すらある、ということを悠木さんも小野田さんも想像出来た筈です。一大決心で告白をするのに、なかなか気付かれないであろう場所を選ぶとは思いません。

 お仕事に真面目に取り組む鷹箸さんのことです。忙しい師走、一人会社に残ることも想像に難くないことから、鷹箸さんのデスクに忍ばせておく、ですとか、社内で渡す方法いくらでもはありますしね。

 もちろん、悠木さんには同棲する恋人がいる、というのも理由の一つです。あと、小野田さんもまた別の理由があるので違います」


「別の理由?」


「はい。それは、また後でまとめて話します」


 この件に関してもったいぶる必要はないとは思うのだが、実結ちゃんなりの順序があるようだから、出来る限り口は挟まないようにしよう、と俺は決めた。


「そして、この手紙です。とても綺麗な字ですね」


「うん、そうだね」異論はない。綺麗な字だ。


「でも、この手紙、何かおかしいと思いませんか? ご本人なら、真っ先に気付くと思うのですが」


 俺は鼻で息を吸い、頭を掻いた。


「いや、まあ、ね」


 この手紙にある、とある間違い、について問われたのだと察した。


「これ、俺の字、間違えているんだよね」


 よく見るまでもない。この間違いをまさしく本人たる俺が見過ごす筈がないのだ。


 茶封筒でも、本文でも、『鷹箸壌市郎』という表記になっている。だが、俺の名前に当てられた字は、これではない。


「俺の『じょう』って字はつちへんじゃなくて、のぎへんの方の『穣』なんだよね」


「はい。他の字はともかく、ここだけ、間違えているのです。そして、これを以てわたしは、差出人と思われる人にあたりを付けられたのです」


「ど、どういうこと?」


「中学一年生では、まだこの字は習っていないのではないか、と思いまして」


 俺は耳を疑った。


 眉根を寄せて、俺は恐る恐る訊ねた。


「中学、一年生?」


「はい。このお手紙は、おそらく彩花さんからのものです」


「……え? あ、彩花?」


 最も排していた可能性に、俺は口をあんぐりさせる他になかった。

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