第22話 できれば隠しておきたくて。♯5
驚愕に唖然とする俺の反応を見て、実結ちゃんの方が首を傾げた。
「全く頭になかった、という風にお見受けするのですが」
「なかったよ、そりゃあ。いや、あり得ないでしょ」
「あり得なくないのですよ、鷹箸さん。考えてもみてください。普通、親と喧嘩したからと言って、年頃の女の子は叔父さんの家には逃げません。同じマンションに住んでいたとしてもです。泊まるなんてなおさらですし、いくら迷惑を掛けてしまったことを反省したとしても、お布団を掛けるくらいはしても、なかなかおにぎりまでは用意しないでしょう。そうです、好きでもない限り」
俺は実結ちゃんの額に手を当てた。
「あの、風邪を引いているから突拍子もないことを言っている、とお思いですか?」
「ごめん。でなければ、さすがに怖いかなあ、と」
手を引いた。どうやら熱はないらしい。
「多感なお年頃の女の子は、大人な男性に心惹かれるようですよ。そして、好きな人には何でもしてあげたくなってしまうのが、無垢な乙女心というものです」
なんだか聞いたことのある言葉だったが。
「そんな……まさか」
俺は両手を膝の上に置いた。前髪を直す実結ちゃんは、にっこりとした表情を崩さない。幸せに満ちた顔で、優しげなオーラをこれでもかとこの和室内に伝播させる。
俺は視線を狼狽えさせながら、机の中央に置かれた柿に手を伸ばし、堅くて噛みごたえのある食感に心の安定を求めた。無論、そんなもので安定するほど、人の心は易くない。
「ちなみに、その誤字と言うのが、小野田さんである可能性の否定にもつながったのです」
俺は戸惑いをそのままに実結ちゃんを見つめる。
「鷹箸さんの話では、小野田さんは昨日、書類に記載するお客様の名前を間違え、鷹箸さんに注意されています。その小野田さんが鷹箸さんに恋文を
「なるほど、それは、まあ理解出来るよ」
「それに、この『穣』の字を間違えていた、というところもポイントです」
手紙をこちらに向けて、本文、冒頭、そこを指差しながら、実結ちゃんは言った。
「もしわたしが鷹箸さんにお手紙を書くとしたら、わたしは、『穣』の字よりもむしろ、『鷹箸』の方をこそ間違えてしまうように思うのです。あまり見られない苗字ですからね。ですが、そちらに関しては綺麗に、完璧に書かれています。理由は一つしかありません。日頃から、この二文字は書き慣れているのです」
俺ははっとした。
「彩花は兄貴の子供……鷹箸彩花、自分の名字と同じだから、書き慣れているって言いたいのかい」
「はい。でなければ、なかなかお見かけしない『鷹箸』と言う字に、もう少し戸惑いが垣間見えて然るべきです」
「でも彩花はここまで字が上手くないと思うんだけど……何せ、メモ書きの字もそんなに」
「ラブレターというのは、漢字テストの何倍も丁寧に書くものですよ、鷹箸さん。それに仰っていたじゃないですか。通知表に書かれていたことを鷹箸さんが読み上げ、彩花さんが怒った、という所です。
担任教師からの一言、『ノートも、テストの時のように丁寧で綺麗な字で書いてください』でしたか。ということは、彩花さんはテストの時、とても丁寧に、字を書かれているということでしょう?」
ああ、そうだ。先程俺は、昨日起きた出来事をかなり細かく説明した。その中で、そう言ったことは確かだ。
「それに、もう一つ」
「も、もう一つ? まだあるの」
「メモ書きです。内容、もう一度言って頂けますか?」
「メモって、ああ、朝のやつね。……確か、『昨日はごめん。仕事頑張って』だったかな」
実結ちゃんは徐に頷いた。
「察するに、彩花さんは、今日鷹箸さんがお休みを取っていることを知らなかったのではないでしょうか。有給休暇をお取りになられたということですし、ご本人ですら忘れていたくらいですから、彩花さんは知る方法がなかったと思います」
だから、書かれていたのが『仕事頑張って』だったのか。
「想いを直接伝えることが出来なかった彩花さんは、手紙を渡すことも躊躇ってしまい、忍ばせるように仕事用の鞄に入れたと考えます。そこならば確実に気付いてもらえる、との考えだったのかもしれません。それに、鷹箸さんは昨夜、鞄を玄関に置いておいたままだった、ということですし、帰り際に目に入った鞄に彩花さんが入れた可能性は高いと思います。
これで、彩花さん以外の誰かである可能性を否定出来るだけの材料には十分なり得るのではないでしょうか」
俺はうなだれるように肩を落とし、「そっか……。いや、でも」と、自分でも往生際の悪さを自覚しながらそう呟くと。
「最後に一つ」
どうも実結ちゃんにはまだ明かしていない推論があるようで。俺はそれを慌てて制止した。
「ま、待って実結ちゃん。……そんなに論拠を並べられると、俺の中で、その可能性を否定することができなくなってしまう」
「困るのですか?」
「法的にも感情的にも困る要素は列挙出来る程にはあると思う」
「法的に……それは困りました」
それだけが問題じゃないんだけど。
「ですが、鷹箸さんには、聞いて頂きたいです……これだけは。わたしの推論が真実とは限りませんが、彩花さんの想いは、きっと、とてもまっすぐなものだと思いますから」
実結ちゃんの表情に少しだけ、険しさ、ではない、なんだろうか。何か、力強さが突然に発現したような。それでいて、あるべき柔らかさや穏やかさはそのままなのだ。それは、とても特別な物のように窺えた。
「彩花さんは昨夜、外で待っていたんです」
「うん、そうだね」
「鷹箸さんが帰ってくるのを外で待っていたなら、鷹箸さんが帰宅した時、玄関を開ける前に声を掛けて、一緒に家に入ることも出来た筈です。でなくとも、帰りしなにチャイムがならされてもいい筈なのです。でも、そうではなかった……それが、最後の理由です」
俺が首を傾ぐと、実結ちゃんは目を閉じて、手紙を胸元に当てた。口許の微笑は彼女のやさしい推論を静かに語りだす。
「きっと、ドキドキしていたんです。鷹箸さんが帰って来たこと、すぐに気付いた筈なのに、声を掛けられない程、家のチャイムを押せない程、大好きな人に会うその瞬間に、ドキドキしていたんです。
俺は、顔面がカッと熱くなっていくことに気付きながら、それを押さえることが出来なかった。
何せ、俺は俺の人生を俯瞰して見た時、それを己のものと知りながら蔑んでしまいたくなるような人生を歩んできた人間だ。青春も、恋も、それらは勉学と労働によって蚊帳の外どころか家屋の中にも入れてもらえないような所に追いやられ、そしてそんな毎日の上に今がある。
誰かに好意を寄せて貰ったことなど、学生時代の日記を繰ろうと片隅にも記載されていないだろう。未経験だからだ。
よもや姪に好かれてしまうとは。とは思いつつ相応の照れというものは芽生えてくる。
だが、俺がその想いに応えることは、法と、個人的感情と、さまざまあって、出来ない。
そう考える俺に、実結ちゃんの手がそっと添えられた。膝頭がほんのり温かくなる。
「鷹箸さんがどうお答えになるのか、わたしにどうこう言う資格はありません。ですが、さしでがましくもお願いがあります。どうか、真摯に応えてあげてください」
幼さの中に宿る彼女の強さというものが、その大きな瞳から俺へと注がれるように。
「彩花さんの勇気に、正直な心で」
俺は、息を細く吐きながら、頷いた。頷くしか出来なかっただけだが、それでも、頷いた。
「よろしくお願いします」
そう言いながら、実結ちゃんは俺に手紙を差しだした。
俺はもう一度頷いて、手紙を見つめた。
もう一言では言い表せられないだけの感情が、俺の中では渦巻いている。人ひとりに納まっているとは思えない程、膨大で複雑で混沌としていた。
誰かに想われる。恋と向き合う。それはきっと、俺が想像するよりはるかに難しく、覚悟のいることで、そして、苦しいことなのだろう。
「いい歳になって、初めて知ったよ」
実結ちゃんは、この一言の意味もよく分からないだろうに、小さく笑って、絹織物のような繊細さと鮮やかさと慎ましさで、静かな和室の寒さを温めていた。
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