第19話 できれば隠しておきたくて。♯2

 十年前に買ったマンションの一室が、異様なまでに寒い。


 漂わせる冷たい空気を俺に自慢するかのように、これでもかと室内を冷却して待ち構えている。となると、必然的に帰ることが億劫になる。かと言って夜遊びするような人間でもないので、仕事終わりは直帰し、結局は玄関のドアノブをため息混じりに開けるのだった。


 暖房を入れて、発泡酒の缶を開けて、躰が温まり始めるまでに数分の時間がかかった。ここでも、吐き出す息は白い。


 テレビから流れるクリスマスプレゼント特集を見ていると、人間的な日々を送ってきていた筈の自分の人生が、まるで最初から最後まで間違っていたかのような感覚に襲われる。恋人にクリスマスプレゼントを買うこともしないあなたは、世の中からはみだしているのですよ、と言われているように感じてしまうのだ。


 そんな瞬間だった。玄関のチャイムが鳴った。


 こんな時間に誰だろう、と思ったが、なんてことはない。日常茶飯事だ。


 俺はインターホンの存在を無視して玄関へ向かい、施錠していた鍵を開けた。こちらがドアノブに手を掛ける前に、向こうが開けた。


「遅い」玄関開けたらすぐこれだ。「もう十時なんだけど。何? 過労死するつもりで働いてんの? それとも私を凍え死にさせる気?」


「酷い言われようだな。店長にもなるとね、色んな責任が乗っかるものなの。分かるかな。中学生にはまだ分からないか」


 目の前にいるのは、同じマンションに住む兄の、一人娘。つまり、姪っ子だった。


「今日は帰ってくるの遅かったし、彩花あやかも家帰りな」


「やだ。お父さんお酒臭いし。お母さんは勉強しろってうるさいし」


「んなこと言ったって、俺だってお酒は飲むし、勉強しろって言うぞ」


「いいの。ジョーくんはちょっとしか飲まないし、勉強しろって言っても無視すればいいし」


「あっそ。便利な存在ね、俺って」


「そういうこと」


 彩花は、ことあるごとに俺の家に遊びに来る。両親のいる家の中にいるのが嫌なのだそうで。つまり反抗期という奴だ。年相応で結構結構。ただ、俺を巻き込まないでくれるなら何より。


「おじゃましまーす」


「あ、こら!」


 彩花はパジャマ姿で家に上がり込んだ。風呂にも入ってすっきりしたんだろうに、わざわざ寒空の下に出る感覚は理解できない。とっととベッドに入って寝てしまえばいいのに、処理しきれない有り余った体力が、中学一年生の少女から睡魔を追い出してしまうのだろうか。


「ねえ。これ見て」


 俺の自宅ソファーに何故か存在する定位置に彩花は座り、俺に一枚の紙を差し出した。握りしめていたのか、くしゃくしゃだ。


「成績通知表?」


「の、コピー。学期始めに先生に提出してたから手元にはない筈なんだけど、夏休み中にコピーしておいたんだって」


「兄貴そんなことしてんのか」


「違う。やったのはお母さん」


「ああ、それはそうか」


 兄は勉強を疎かにして大人になったような人だ。娘にも勉強について押し付けないし、何も言わない。だが、兄の嫁は違う。彩花を進学校に入れるんだと、中学入学早々に進学先を声高に叫んでいたくらいだ。彩花に求めるものは大きい。


 ちなみに、その進学校は俺の母校だ。全力でめておくことを薦めたい。背伸びをして入学して、苦しむのは彩花自身だ。身の丈に合う所を選ぶのが道理であり、最善だと、何度か進言しているのだが聞き入れてもらえない。


「見て」彩花はテレビを見ながら言う。


「これなら夏休み中に見せられた気がする」


「いいから見て」


 俺も彩花の隣に座って、ため息をつきながら目線を落とした。


「んー、と。担任からの一言。授業ノートも、テストの時のように丁寧で綺麗な字で書いてくださいね」


「違う! そこじゃない!」


 わざわざ読み上げたのだが、見て欲しいところはそこじゃなかったようだ。


「それ、ほとんど『3』と『4』なんだけどさ」注目してほしいのは各教科の成績だったようだ。


「うん。まあ、体育だけ『5』なのが兄貴の子だ」


「うっさい。ってかさ、もう一ヶ月も経たずに二学期終わるじゃん。お母さんにさ、その時渡される通知表でこの評価が一つでも下がってたら塾増やすって、脅された。ついさっき、これ見せられて。ってか言うの遅くない? もう期末テスト終わってるし」


 確かに、それは少し可哀想だ。


「もう評価の上げようないじゃん。むかついて、これ奪ってジョーくんの所に来た……いなかったけど」


 待てよ。となると、彩花は一体この寒空の下、何分俺の帰りを待っていたんだ。


「まあ、十分くらいで帰って来たけど」


 なんだ、十分か。とはならない。風呂上りで冬の空の下なんて、躰が冷えて仕方ないだろう。マンション内とは言え、階段や玄関前は吹きっさらしだ。俺は彩花の頬に触れた。


「ひゃんっ」


「おい、肌冷たいぞ。大丈夫か」


「びっくりするじゃん、やめてよ。ってか、手あったか」


「おじさんっていう生き物は、手だけはあったかいもんだからな」


「は? わけわかんない」


 彩花は急に眠たそうな目をし始めた。若さ故の元気も、寒さに体力を奪われれば底を尽きるものらしい。温かくなってきた室内に、冷えた躰もほっとしたのだろう。


「ほら。もう帰れ。明日も学校なんだろ?」


「やだ。今日ジョーくん泊まる」


「馬鹿言うな。急にそんなことしたらお母さんに怒られるだろ」きっと俺もその巻き添えを食う。


「帰ったら勉強させられるもん。通知表のコピーとか引くんですけど」


 俺は困り果てた。俺も今日は疲れている。出来ればベッドで寝たい。彩花が泊まるとなると、せっかく快適に眠れるようにと買ったダブルベッドを占領されてしまう。


「分かった。送るよ。それでお母さんに、今日は彩花も疲れてるから勉強させずに寝かせてやってくれって言ってやるから。な。とりあえず帰ろう」


「泊まるの」


 彩花はソファーの上で体育座りをして、頑として動こうとしない。


 母親と喧嘩をする度にこうではさすがに俺も辛い。先週も今日と同じようなことがあったのだ。金の掛からない独身生活故に、ソファーもそれなりに良いものを買ってはいるが、一晩過ごすとなると初老の躰には優しくない。


 だが、こうなったら頑固なのが彩花だ。もう諦めるしかない。


「分かったよ。じゃあ、もうベッド行っておいで。お母さんには俺が連絡しておくから」


 と言うと、彩花は眠たそうな目で微笑んだ。


「ありがと。ジョーくん」


 そう言って、彩花はソファーで眠り始めた。可愛らしい寝息を立てて、幸せそうに夢の中に沈んでいく。さっきまでの仏頂面が嘘のようだった。


 俺は彩花を抱えて、ベッドまで連れて行った。子供の頃に比べれば重たくなったが、小柄で細い躰はまだまだ軽い。それでも、難なく持ちあげられるのはきっと今だけだ。友達と過ごす時間が増えて、今にこの部屋にも来なくなって、そうなったときにはこんな寝顔も見せてくれなくなる。そう考えると、一抹の寂しさがあった。


 時間が経つのは早い。青春時代は、特にあっという間だ。


 俺の青春は勉強に彩られたが、この子の青春は一体どこにあるのだろう。好きでもない勉強に時間を費やして、それは果たしてこの子の為になるのだろうか。勉強が全ての世の中ではない。身を持って実感している。


 俺は、俺という人間を俯瞰して見て、己のものでありながらその日常をどこか蔑んでいることがあった。


 学生時代には恋をして、大人になれば結婚をして子を育て、考えが古臭いと言われるかもしれないが、結局のところ多くの人がそこに幸せを見て、求め、いつかはそれを得る。


 それを得られれば、どんなにか。


 服を脱ぎ、シャワーを浴びた。熱いお湯が躰を打ちつけ、冷たい肌が悲鳴を上げるように赤くなる。湯船に浸かろうかとも思ったが、湯を張るのが面倒だった。


 数分で脱衣所に出て、水分を拭い、肩から湯気を昇らせて、ジャージーを着た。


 冷蔵庫から酒を出そうとしたが、水にしておいた。酔うのはあまり好きじゃない。


 だらしない初老の躰をソファーに沈めた。


 そういえば、夕食をとっていない。今から準備をするのも面倒だし、躰も温まって、程良く眠気もやって来た。


 俺は暖房の効いた部屋で、一先ずまどろむつもりで目を閉じた。



   ○



 まどろみは熟睡になった。テレビは朝の情報番組を流している。日々の労働で疲労困憊、精疲力尽せいひりきじんの俺に、まどろむだけの若さはなかったようだ。そういえば、彩花の母親に連絡を入れることを忘れていた。俺も彩花母の怒気を浴びせられることになりそうだ。


 ソファーに全身を預けた俺の躰には、分厚い掛け布団が載っていた。きっと彩花だ。部屋には暖房もあるから、少し暑い。


 汗ばんだ躰を起こし、テレビのリモコンが置かれた背の低い机を見ると、一枚のメモ書きがあった。下手な字だからというのが判断材料になったわけではないが、彩花のものだ。


『昨日はごめん。お仕事頑張って』とあった。


 その隣には、おにぎりが置いてあった。彩花は料理が上手い。恐らく、台所の状況から俺が昨夜何も食べていないと推測して、わざわざ米まで炊いてくれたのだろう。


 テレビ画面の中の、左上にあるデジタル時計を見ると、既に八時だった。眠る瞬間の記憶があいまいだから分からないが、九時間近く寝たのだろうか。


 少し焦ったが、今日は休日だ。


 用を足し、歯を磨き、寝汗が酷いのでシャワーを浴びた。


 掛け布団を丸めて除けて、ソファーに座り、おにぎりを口に運ぶ。具はないが、さすがの出来だ。塩気もいい。しっとりとした海苔が好きなのも知ってか、そのようにしてくれているのも嬉しかった。


 程良い朝食に満足して、俺は出掛ける準備を始めた。有給休暇を取れと本社から責付せっつかれた俺が、どうして今日を休みにしたのか。もちろん理由はあるのだ。


 あまり先方を待たせる訳にもいかない。すぐに仕度を整え、俺は玄関へ向かう。


 昨日は余程疲れていたのか、鞄も玄関に置きっぱなしだ。ということは、携帯電話も鞄に入ったままだろう。俺が携帯を取り出そうと鞄の中を見ると、おかしなものが目に入った。


 茶封筒だった。俺の名前が書かれている。見覚えはない。


 ここで封を開ける時間はないので、俺はそれをプライベート用の鞄に入れ、家を出た。これが何なのかに頭を抱えながら、車にエンジンをかけ、目的地へと走り出す。

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