第18話 できれば隠しておきたくて。♯1

 並み外れている、との評価を受けたのは、多くの人が幼少期を最後としているのではないだろうか。かくいう俺もランドセルが似合う歳の頃が最後だったので、例には漏れない。


「四十二才にもなって独身なんて恥ずかしくないのか」今年の正月、俺にそう言ったのは、確か兄だった。


 俺はその時どう答えたのだろう。「相手がいない」「その気はない」「そんなことは分かっている」「兄貴には関係ないだろう」……思い返してみるが、どれも違うような気がした。


 元日を思い出しながら、理不尽だなあ、と、俺は曇天に向かって呟いた。


 小学校での成績は一番だった。中学校では、天才同級生、まさしく神童がいたので、俺は万年二位。高校は県下一の進学校だったから、博学才穎はくがくさいえいたちのその中で俺の学力は埋もれ、周囲からの評価は並み程度になった。大学は、東京の有名大学だった。一浪したし、一年留年したが、なんとか卒業できた。


 地元企業に就職して、今度は仕事に邁進した。それが人間としてあるべき姿であるとの自負もあった。がむしゃらに仕事をし、それなりに出世をして、田舎のサラリーマンにしてはそれなりに稼げている方だと思う。


 と、ここまでを振り返ってみれば、俺の人生はそんなに悪くないとも言えるだろう。小さな挫折は何度もあったが、それをバネにして今日こんにちまでを走って来られたからだ。


 だが、世の中は総じて理不尽だ。


 勉強は並み、運動も並み、ただ少し顔の出来がいいだけの兄が、早々に結婚した。


 するとどうだ。学業と労働に己を捧げて来た俺よりも、定職に就かず、女性をとっかえひっかえで遊び呆けていた兄の方を、両親も含め皆が礼賛し始めたのだ。


 両親にしてみれば、懸命に働く息子よりも、結婚して孫を見せてくれる息子の方をこそ求めていたのだろう。


 とうとう、両親は周囲に、俺のことをこう言い始めた。


 ――まだ身も固めない、仕事だけが取り柄の愚息ですので。


 理不尽だ。俺は小雪の降る空に呟いた。


「あの、そんなに卑下することないと思いますよ」


 事務員の悠木ゆうきさんが、わざわざ声を掛けてくれた。いい人だ。


「ありがとう。気を使わせてごめんね。仕事、戻るよ」


 俺は、昼の休憩時間に、外の喫煙所で煙草を吸っていた。本当は煙草なんてものは嫌いだ。けれど、良い人を演じ続けることに辟易していた俺は、週に一度だけ、吸うようになっていた。よわい四十三にして、反抗期がやってきたような気分だった。


 オフィスに戻ると、大量の紙がデスクの上に散らばっていた。これから俺は、この大量の紙束全てに目を通し、記載漏れやミスがないかをチェックして、判を捺す。車販売店の店長をしている俺の責務は重い。


 俺は息を吐きながら、座り心地の悪い回転椅子に腰をおろして、午後の業務を始めた。


 仕事は早く、正確に。俺の判を待つ書類たちに、俺は的確に対応していく。


 一つ、書類に間違いを見つけた。当店で車検をしてくれたお客様の名前が間違っている。確か、近藤養二こんどうようじさんという名前だった筈だが、近藤養次さんになっていた。常連客の名前は憶えているし、書類での字の間違いには敏感なのだ。


「これは、小野田おのださんの仕事だったな」


 俺は席を立って、小野田さんのデスクに向かった。本人に指摘する為だ。


「小野田さん、お客様のお名前が間違っていました。こういうミスは致命的ですので、今度から気を付けてください」


 そう言うと、女性事務員の小野田さんは、小さな声で「すみません」とだけ言った。この店での勤務歴が一番長いのは、そうは思えないが実は小野田さんだ。年齢が一回りも違うということもあるんだろうけど、俺は小野田さんに強く注意が出来ないでいる。


「じゃあ、よろしくお願いしますね」そう言って、俺はまた仕事に戻る。


 気が付けば、自分の机の上の書類は、随分と減っていた。一度集中してしまえば、時間が経つことも忘れて作業に没頭出来る。そのせいで身の回りのことが疎かになってしまうのは俺の欠点だが、今のところ特段の不便はないので、直そうとも思わない。また俺は、仕事に手をつけた。



   ○



 就業時間をとうに越えて、時刻は二十時になっていた。


「はあ、しまった。もうこんな時間か」


 すると、最後まで残っていたもう一人の女性事務員、悠木さんが、俺の肩をポンポンとたたいた。


「お疲れ様です。終わりましたか?」


「ああ、今ひと段落したところ。ごめん、待たせたかな」


「いいえ。私も今DMダイレクトメールを準備し終えて、金庫の鍵は閉めたところです。あとは店長に施錠をお任せしようかと。にしても大変そうですね。書類のチェック」


「困ったものだよね。昨日小雪がちらついたおかげスタッドレスタイヤへの交換も多いし、年内に車検を済ませておこうとする人も来るし、おまけに今回はリコールもあった。目を通すものが多すぎて、ちょっと大変だよ」


 俺は凝り固まった肩を回しながら、心許ない背もたれに躰を預けて、少しだけ仰け反った。


「すみません、私たちでは代われなくて」


「まあ、責任者は俺だからね。仕方ないよ」


 責任者とは、当然責任を負う者のことをいう。書類を本社に提出する時も、責任者の欄に必ず俺の名前が載り、俺自身の手で判が捺される。鷹箸穣市郎たかはしじょういちろうなどという画数の多い名前だけあって、やけに人に憶えられてしまう運命も背負っていることだし、雑な仕事は出来ない。


 それに、それ相応のお給金は頂いている訳だから、不満を社員にこぼすなんてことは立場上よろしくない。即座に反省した。


「あとは一人でやるので、悠木さんは帰宅してもらって大丈夫ですよ」


 社員のプライベートの時間を邪魔してはいけない、と、俺はそのつもりだったのだが。


「はい、お先に失礼します」


 そう言う悠木さんは、何故か隣の席に座った。


「あれ、帰らないの?」


「と言いつつ、今、恋人と喧嘩中で、帰り辛くて」


「ああ、一緒に住んでるんだっけ」


 悠木さんは深いため息をついて、「そうなんです」と、人生相談モードに入った。


「そいつ、今年の春から私の借りてるアパートに転がり込んで来たんです。というか、来てって言ったのは私なんですけどね。ずっと遠距離だったんで」


「へえ、そうなの」


「家賃払っているのは私なので、気を使っているのか知りませんが、家事を手伝おうとするんです。別に無理して洗濯して欲しいとか、掃除して欲しいとか思ってないんですよ。そういうことをするのは私の仕事だから、って言ってるんです。それでも『自分で出来ることはやる』って言って聞かなくて」


「いいじゃない。そんなことを言ってくれる人なかなかいないよ」


「違うんですよ店長」


 悠木さんはこぶしでも効かせるような調子で力強く言った。


「私はやってあげたいんです。身の回りのことまで全部。料理だって掃除だって洗濯だって、私がやってあげたくて仕方ないんです!」


 そんなことを俺に言われても、と思いながら、きっと悠木さんも愚痴を聞いて貰いたいんだろうから、うんうんと頷いておくことにした。


「分かりますか。好きな人の為にやってあげたい気持ち」


「うん、まあ、そうね」


 つまり、悠木さんの言うところの喧嘩とは、世間一般に痴話喧嘩と呼ばれるものの類なのだろう。一人身にはなかなかどうして耐え難い話だが、意外なことになんら苦ではない。相談される立場というものには慣れている。


 悠木さんは、それから十分くらい、恋人の不満を漏らしていた。お互いがお互いの為に何かをしてあげたくて、それが極まり、とうとうぶつかってしまったらしい。驚くほどのラブラブカップルだった。


「どう? すっきりした?」


「……はい」


 悠木さんは腰を丸めていた。嘆息して、頭を下げた。


「すみません、店長お疲れなのに、こんな愚痴を」


「ああ、いいのいいの。人の話を聞くの、案外嫌いじゃないから」


 気を使ったのではない。本当のことだ。きっと俺自身の経験が乏しいから、そういう話を聞いて、人生に足りないものを補っているんじゃないだろうかと考えが及んだのだが、そんなつもりで聞いたことはないので、おそらくは考え過ぎと言う奴だろう。


「でも、ちゃんと帰ってあげないと駄目だよ。お互い譲り合って仲良くしなきゃ。せっかく出会えた恋人なんだからね」


 どの口が言うんだ、なんて内心自嘲しながら、偉そうに悠木さんに説教をした。


 しゅんとした悠木さんは、「そうですよね」と微笑して、席を立った。


「ほんと、すみませんでした。じゃあ今度こそ、失礼します」


「うん、御苦労さま。また明日」


「はい。……でも店長、明日お休み取ってましたよね」と笑い、「それじゃ、おやすみなさい」と言って悠木さんは頭を下げ、社を出た。


 そうだ。有給休暇の日数を消化しなきゃいけなくて、明日は休みを取ったんだった。とうとうそんなことも忘れてしまっていたのか。


 卓上カレンダーにも律儀に黒の太マジックペンでしるしがつけられている。でもこれは、有給休暇を意味する印ではないから、休日であると認識できなかった。


 毎日仕事があって当たり前、そんな感覚で生きているからだろうと思うのだが、これが世間で言う所の社畜というやつなのだろうか。いいや、自分で望んで働いているんだから、その枠には当てはまらないと信じたい。


 とうとう一人になった店内。あとは書類をまとめて、俺も帰るだけだ。


 今日からカレンダーは十二月に変わった。


 俺は、冬が嫌いだ。こういう瞬間に、必要以上に心が寒くなっていけない。


 室内で吐く息さえも白くなっているような気がした。そう言えば、誰かが暖房を切っている。気がしたんじゃない。本当に吐息は白かった。スーツだけでは、凛凛とした寒さには太刀打ち出来よう筈もない。


「はあ。全く。まあ、一人で暖房を使うのも勿体ないか」


 と独り言を言ったのも、寂しさ故なのだろうか。判然としない。


 俺はダウンジャケットを羽織って、残りの仕事に没頭する。明日休むのならば、尚更集中しなくては。

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