第7話 歯型

 そこからだ。

 わたしの平穏で楽しい生活が脅かされはじめたのは。


少女の呪いは、その他の幽霊たち地味ないやがらせ、脅し、他愛のないドッキリとは格が違っていた。

 わたしを襲ったのは、歯型だった。

 彼女を殺して、家に帰り……もう遅い時間だったので、家族はみな寝ていた……シャワーを浴びて、ビールを飲んで、安らかな眠りについた。

 人を殺した日は とてもよく眠れる。ちょうど、ジムに行ったくらいのいい運動になる。


 わたしの鼾がうるさい、という理由から、妻とわたしの寝室は別々だった。

 その日もわたしは、いつも人を殺したときと同じように……夢も見ずにぐっすりと眠り込んでいた。


 と、突然、左ふくらはぎに鋭い痛みを感じて、飛び起きる。


 一瞬はこむらがえりかと思った。

 しかし、痛みが違う……これは何か硬いものが、肌に食い込んでいる痛みだ。

 それに……ベッドの……足元あたりには、何かがいる。わたしではない何かが……。

 妻が突然、欲情してベッドに潜り込んできた?

 ……そんなバカな……わたしたち夫婦はもう、二年もセックスレスだ。

 それに、わたしの妻はそんなに激しくない。

 間違っても、いきなり噛み付いてきたりはしない。

 わたしはあわててベッドサイドに置いてあった眼鏡を掴んで掛けた。


「うおっ……」


 よほどの事がない限り、わたしが人間らしい恐怖を感じることはない。

 これまでも無数の亡霊に囲まれて暮らしながら、とくに気にすることはなく平常心で暮らしてきた。そんなわたしでも、いきなり寝床に入ってきた生き物にふ くらはぎを噛まれたりしたら……それなりに動揺する。


 あなただったらどうする?


 眼鏡を通して、自分のふくらはぎに噛み付いている生き物を見た。


 そいつは全身が真っ黒だった。

 エナメルのような、クロームメッキのような光沢を持つ黒。

 まるで豹のようにしなやかな体つきをしたそいつは、四つん這いになって長い髪を振り乱しながら、わたしのふくらはぎを食いちぎろうとしている。


「わああっ!」

 わたしは悲鳴を上げた。

 そりゃ、わたしだって悲鳴くらい上げる。

 慌てて半身を起こすと……その長い髪に包まれたそいつの頭を掴み……なんとか引き剥がそうとした。

 髪はべっとり濡れていた。

 油に浸っていたのかのよう に、ぬるぬるしている……でも、そんなことを気味悪がっている場合ではない。

 髪の毛をひとひと束つかみ、手の平にまきつけて、思い切り引っ張った。


 びくともしなかった。


 もう片方の手も使って髪の毛を掴み、力任せに引っ張る……やはりびくともしない。

 びくともしないどころか、そいつはふくらはぎを噛み締める力をまったく緩めないので、わたしが力を込めて引っ張れば引っ張るほど、歯が食い込んでくる。

  痛いが、そのまま噛まれているわけにはいかない……わたしは髪を掴んだまま、そいつの頭を右足の裏で思い切り蹴った。


 ぶちぶちぶちっ……という音がして、そいつがベッドから転げ落ちる。

 両手には、ごっそりとぬるぬるとした毛が残った。

 自分のふくらはぎを見る……すでに血にまみれていた。

 わたしの貴重な血が、レモンの形をした歯型の傷から溢れ出している。


 逃げるにせよ反撃するにせよ、とりあえずそいつの次の攻撃に対して何らかの対処ができるよう……わたしは辺りを見回した。


 奴の気配はない……どうしよ う?

 ベッドサイドに携帯がある……警察を呼ぶか? 

 実際、正体不明の家宅侵入者がわたしに噛み付いてきたわけだし。

 警察は市民を守ってくれるんだろう?……わたしのような善良な市民を。


 携帯に手を伸ばしたときだった。

 そいつが、わたしの手首を掴んだ。

 そして、再びベッドに這い上がってくる。


「わあっ!……おい! よせ! やめろ!」

 やはり、コールタールの中で水泳でもしてきたかように、全身がぬるぬると黒光りしていた。

 顔面に貼り付いた長い髪に隠されて、その表情を伺い知ることはできない……目が見えないのが、何とも不気味だった。

 まるで、深海魚だ。

 そいつがわたしの上にのしかかってくる。


 力は強い。

 昔、知合いの家でじゃれついてきたシベリアン・ハスキーくらいに強い。

 そいつの頭が、ぐん、と迫ってきた。

 あわてて、そいつの肩……らしい部分を両手で掴み、攻撃を食い止める。

 案外、か細い肩だった……目と鼻の先に、べっとりと濡れた髪に覆われたそいつの顔がある。

 そいつは息をしていた……しゅー、しゅー、しゅーと音を立てて 呼吸している……魚の腐ったような匂い、ヘドロの匂い、闇にさらされて腐った水の匂いがした。


「ぎゃっ!」

 噛み付き攻撃を抑えたので油断していた……そいつがわたしの両肩を掴む。

 どうも爪を長く伸ばしているらしい……両方の肩にそれぞれ五本ずつ爪が食い込んでくる。


「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」

いきなり、そいつが笑い出した。

「えっ……」


 びっくりさせられたが、いろいろとわかったことがあった。


 まず、そいつが人間であることがわかった。笑い声は人間だ。

 そしてそいつの性別が、女であることがわかった。

 そして、その笑い声には聞き覚えがある。

 

 こいつは、あの少女だ。


 ほんの数時間前、わたしが絞め殺し、例の貯水池に重しをつけて捨ててきた少女……あいつだ。

 実は死んでなかったとか?

 いや、そんなことはない。彼女の息が止まり、心臓が動いていないことはちゃんと確認した。

 そしてわたしは彼女をビニール シートでぐるぐる巻きにして、しっかり来世紀まで沈んでいるように充分な重しをつけて、あの貯水池に投げ落とした……

 でも、死んでなかったと?


 どこかで読んだが……まれに、一度は完全に心肺停止していた人間が、短い仮死状態の後、息を吹き返すことがあるという。数時間プールの中に浸かっていて 仮 死状態にあった子供が、蘇生した例もあるとか……。


 人殺しにしてみると、これほど恐ろしいことはない。


 一部の人殺しには、殺したあと、死体をバラバラにする奴もいる。

 食べるためだとか、肉体を“モノ”化してしまうことで優越性を得るためだとか、歪んだ セックスの願望だとか、犯罪心理の専門家の先生方はいろいろと仮説を立てているようだが、わたしの考えはそのどれとも違う。

 バラバラにしておけば…… まさか、いくらなんでも、息を吹き返すことはないだろうからだ。

 連中は連中なりに、念には念を入れているんだ……。


 待て待て、そんな他人のことを気にしている状況ではない。


 いや、それにしても……わたしが投げ落とした後、水中で息を吹き返し、自分を戒めていたビニールシートを解き、重しを外し、水面まで浮き上がった、とい うのか? ……ラスベガス級のマジシャンならできるかも知れないが、常人にそんな芸当はとてもムリだ。


 それに、あの山奥からどうやってここまでやってきたんだ?

 ……車でも、充分二時間はかかる……あの山奥の寂しい貯水池付近に、偶然通りかかった車を、 ヒッチハイクしたとか? ……ますますありえない。

 あんなところに車が通るわけがないし……こんな怪しげないでたちの少女を乗せる物好きがいるとも思えない。


 じゃあどうやって? ……走って来た、っていうのか?


 なぜわたしは、その時にそいつのことを、幽霊だと思わなかったのか?


 それは、そいつがこれまでの幽霊とは比べ物にならないくらいの存在感を持ってい た からだ。わたしに噛みつき、爪を突きたて、しかも目の前で呼吸している。とても、このリアルな存在のことを幽霊だとは思えなかった。


「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」


 また、そいつが……貯水所から這い出してきたあの少女(らしい奴)が、笑い声を上げ、わたしの肩へ、さらに深く爪を食い込ませた。あまりの激痛に、わたしはつい、そいつの肩を抑えていた手を緩めてしまった。


 ぐん、と顔が近づいてくる。

 

 真っ黒の髪に覆われて、相変わらず目は見えない。

 しかし、顔を覆う髪の隙間から、しっかり噛み合わされた真っ白な歯が、ぞろりと覗いているのが見えた。歯の根元には、腐りかけのトマトのように、赤黒い歯茎さえ見えた。


 がぱっ、と上下の歯が開く。

 そして、そいつの頭が胸元に飛び込んでくる。

 次に襲ってきた激痛のせいで……わたしは意識を失った。

 

 目が覚めたのは明け方だった……あの黒い影の姿はなく、わたしの両手に絡みついているはずの黒髪も消えていた。


 しかし、痛みは歴然と身体に残っている。

 左の首筋がズキズキと痛んでいた。

 左のふくらはぎを見ると……やはりレモンの形をした歯型があり、そこからあふれ出した血が、傷の周囲で固まっていた。

 さいわいハーフパンツを履いていたので、服の汚れはたいしたことなかった。


 家事の中でも洗濯はわたしが担当しているので、こういうときには便利だ。


 しかし上に着ていたTシャツのほうは……べっとりと血に濡れている。

 家族に気づかれないように、洗面所に行って、鏡でその他の傷を確かめた。

 左右の肩には、爪のあとがついている……これは肉を裂くほどではなかったようだが、しっかりとわたしの肌に跡を残していた。


 まあ服を着れば、なんとか 隠しおおせるレベルの傷だろう。

 しかし、問題は首筋だった。


 首の付け根と肩の間を、ふくらはぎよりもひどく噛まれている。

 シャツを汚したのは、その傷口から溢れた血だ。

 とりあえずシャツを脱いでお湯で濡らすと、上半身の血を拭い取った。

 乾いていた血が剥がれ、 くっきりとした歯型が露わになる。


 ぞっとした。


 あと数センチ右下で、喉仏だ。

 さらにあと数センチ上で、頚動脈だ。

 

 あいつは……あの少女は、わたしを殺そうと思えばできた。

 でも、そうはしなかった。

 理由? ……想像はつく。

 

 わたしを怖がらせたいのだろう。

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