五月:

才能は孤高・1

 よく、二度あることは三度ある、と言われるけれど、私の周りの物事をふと顧みれば、既に二度目まで起こってしまっていることが多い。例えば、入ろう!と思っていた部活が中学でも高校でもいつの間にか廃部になっていたり、そのたびに顧問の先生に勧誘されて全く未知の部に入った挙句に、気付けば何故か部長にされてしまっていた(多数決というのは恐ろしい)こともそうで、それゆえに、一度何かがあった時には次に備えておくべきかもしれない、という意識が芽生え始めた今日この頃、ではあったのだけれど。

 まさか、誰かに訳も分からないままひたすら追い掛けられる、という事態が、こんなに早く到来するなど思いもしていなかったわけで。

 「堤、止まれ!止まらんとお前らの会誌の装丁も童話の挿絵も金輪際やってやらんぞ!助言も校正も何もかも、最早これまでだからなー!!」

 「そ、それは凄く困りますけど!だからって詩乃ちゃんを裏切るわけにもいかないですからー!!」

 半ば脅しめいた、しかもこちらとしてはかなり窮地に追い込まれかねない台詞が背中に突き刺さるのに、振り向く余裕もなく私はそう言い返していた。

 実を言えば、今回は追われる原因については一応分かっている。私ががっちりと胸元に抱えている一冊の冊子、例の『あやめ色の雨』だ。けれど、そのために彼が何故こうまで執拗に追い掛けてくるのかまでは、未だ判然としていなくて。

 考えている間にも足は動いて、教室棟三階の廊下を南から北へと駆け抜けてしまうと、どうやらこれだけは人より速いらしい、と今更ながら気付かされたスピードで、北階段をやみくもに下りはじめる。既に放課後とはいえ、先週に浦上くんから逃げていた時よりはずっと時間も早いせいか、踊り場で、廊下で、そして階段の途中で生徒とぶつかりそうになるのも、一足ごとに肩に掛けた黒の鞄が跳ねるのもきついけれど、何より絶対に落としたり出来ないものを手にしているから、それもさらなるプレッシャーになっていて。

 「待たんかー!!だいたいそれは元より俺のものだ、返してもらうことに何の不都合が……っ、こら、離せ!!」

 「真雪ー!!こっちは任せといていいからとにかく逃げてー!!」

 どうにか二階に降り立ったところで、頭上から立て続けに響いた声にびくりとして振り向くと、三階から二階に降りる途中の、踊り場の少し手前に立つ、大小二つの人影が目に入ってきた。つまり、千切れんばかりにネイビーのブレザーの背中を引っ張られている梶先輩と、力いっぱい引っ張っている、小鈴で。

 「ほらー止まらなーい!!大丈夫ー、なんだかんだ言って梶先輩フェミニストだしー、物理的手出し不可能男子だからー!!」

 「そんなことは当然だろうが!いいから離せ、離さんとこのまま引きずっていくぞ!」

 なんとか振り切ろうというのか、宣言通りにずりずりと、前に数歩足を進めた先輩は、ふいに真顔になると、さっと手を上げてブレザーのボタンを外し始める。

 あ、まずい、と思う間もなく、きちんと前で閉じられていたものが左右に開くのを目の当たりにして、私は再び全力で走り始めた。あの動きからすると、間違いなく服を犠牲に追い掛けてくるであろうからで。

 「わー、空蝉の術とか卑怯千万ー!ていうか梶先輩このブレザー人質に取っちゃうけどいいんですかー!?」

 「好きにしろ、替えがあるからどうとでもなる!」

 「だったら詩乃ちゃんに問答無用で引き渡しますよー!ケースに入れて崇め奉るレベルだしーきっと喜んでくれるだろうしー、よーしさっそくそうしよーっと!」

 「すぐさま止めろ!あいつなら本気でやりかねんだろうがー!!」

 ……小鈴、誘導、感謝。その行動は正直、火に油だとは思うけど。

 嬉々としてそう告げるなり、宣言通りに即踵を返したらしい小鈴の声が遠ざかっていくのに、一拍置いて荒い足音がそれを追っていくのを耳にしつつ、私は内心で呟いていた。

 ……それにしても、こっちはこっちでどうしたものだろうか、本当に。



 そもそも、私と小鈴が梶先輩と知り合うことになったのは、『図書同好会』から図書部に昇格が決まった時に、当時の先輩方に彼を紹介されたからだった。才能はあるんだけどーこの子ぼっちだからー、時々部室に出入りするけどよろしくねー!と、非常に軽い調子で言ってきた三人の先輩の横で、よろしく頼む、と真顔で一礼されたのが記憶に残っている。

 そこから、会誌を作る際にはスペースや器具を融通したりする代わりに、表紙のロゴやデザイン、それに挿絵を請け負ってくれたり、回ってきたリレー連載のストーリー展開にアドバイスを受けたりと、どちらかというとこちらがお世話になることが多いくらいで。

 だから、いずれにせよ新入部員(まだ仮入部期間ではあるけれど)が来てくれた以上は、今後のこともあるし、彼らを紹介しておくべきだろう、とは思っていた、ものの。

 「やっぱり、返事来てない……小鈴の方は?」

 「こっちもぜんっぜんさっぱりー。うーん、そんな怪しまれるような文面にしたつもりないんだけどー、なんか邪念を察知されたのかなー?」

 文字通り、ほぼ学校中を走り回った一週間も過ぎて、翌週の火曜日。

 教室棟三階の、二年七組前の廊下。その窓際に背中を預け、並んで立った私と小鈴は、パールホワイトとペールグリーンのスマホを手にしながら、今日一日もまるで変化のないメーラーを前に、ちょっと途方に暮れていた。

 ごくごく簡単に、新入部員が入ったので顔合わせをしたい、ついてはご都合のいい日をお知らせください、という内容で、梶先輩にメールを送ったのは昨日のことだ。けれど、いつもならその日のうちに返事が返ってくるところが、全く音沙汰もなくて。

 「先輩、妙に勘がいいからなあ……もしかしたらまだ本入部でもないのに?って思われちゃったかな」

 「けど、流れとしてはそんなに不自然じゃないと思うよー。だいたい真雪が部員増えて狂喜乱舞しちゃうだろうなーってもう予想の範囲内だしー?」

 「そ、そこまで浮かれて……ないとは、言えないけど」

 液晶に指を滑らせながら、にやにやと小鈴が指摘してきたのに、否定できずに頬が熱くなる。何しろ、金曜日からこの方、やっと本格的に部活開始だ!と常ならずテンションが高くなっているのは、心底自覚しているからで。……昨日なんか、我ながら酷かったし。

 「でもさー、このままノーリアクションだと地味に困るよねー。ただでさえ詩乃ちゃん、前にもまして朝も昼も放課後も追っかけ回しまくったから、こっちまで先輩の足取り掴めなくなっちゃったしー」

 「そうなんだよね……出没ポイント教えてあげたの、かえって仇になったかなあ」

 小鈴の言葉を受けて、私は小さく息をつくと、邪念というか、実のところ他意を大いに含んでいたメールを閉じて、肩に下げた指定鞄の内ポケットにスマホを入れてしまった。いずれにせよ、じっと見ていたところで話は進まないのだ。

 今日は部活もないというのに、各階の合同掃除もとうに終わって、人気も減った三階に残っているのは、詩乃ちゃんのためだった。色々と捨て身で頑張った部員勧誘が、驚いたことに実を結んで、なんと三人もの男子が来てくれたことで、ひとまず降格の危機も遠のいたから、梶先輩と話が出来るように協力する、という約束を果たすための余裕も少しは出来たわけだ。

 というわけで、明日からの連休に入ってしまう前に、彼への今後のアプローチについて三人で相談をしようか、となったものの、彼女のおよそ一か月弱続いた追っかけの結果、接触すること自体が相当に難しくなっていて。

 「うーん、登下校はとっくに時間帯変えられちゃったみたいだし、昼休みは気が付くともういないっていうし、次の会誌七月発行だから、いつものパターンだと美術部には当分顔出さないだろうね、って山石やまいし部長にも言われちゃったし……」

 「あれだけいろんなとこで取材取材って写真撮りまくったりスケッチしまくってたのもやらなくなったしねー。青柳先生、仮にも顧問のくせに俺も探してるくらいですとか言うしー、もーなにーこの手詰まり感ー」

 その上、二人で知る限りの情報といっても、こうしてみれば大した量でもなく、あっという間にお互い出し終えてしまうと、小鈴は気を抜くようにうん、と伸びをして、

 「やっぱりさー、最初に考えた、和やかに顔合わせの中真雪とわたしにこないだ助けたお礼を言いに来た詩乃ちゃんが!って作戦でもうよくないー?万が一逃げそうになっても、チカちゃんっていう入口塞ぎに最適要員もいることだしー」

 「前半はともかく、後半は完全にアウトだから!二度と顔出してもらえなくなるよ!」

 何気に怖い提案をさらっと繰り出してきたのにさすがにそう突っ込んだ時、ふっと耳をかすめた声に、私は動きを止めた。

 「……なんか、怒鳴り声?」

 「下からってことは、なんだろー、サッカー部かどっかの階段ダッシュ?」

 同じものを捉えたらしい小鈴の言葉につられるように、右斜め前にある北階段を見やった途端、その推測を完全に掻き消す台詞が飛んできた。

 「……だめですー!!これだけは、これだけは例え師匠の命令であっても絶対にお返しできませんー!!」

 「既に師弟関係があるような呼び方をするなと言っただろうがー!!そもそも、それをお前が持っていること自体がおかしな話であってだなあ!」

 珍しく、ちょっと切迫した雰囲気の声に続いて、鋭く責めるような台詞が届いた直後、ばたばたと階段を駆け上ってきたのは詩乃ちゃんだった。見るからに必死な様子の彼女は、すぐに私と小鈴を認めて目を見張ったものの、足を止めることもなく目の前を通り過ぎ、そのまま廊下をひた走っていく。

 そして、階段一階分の段数、その概ね半分ほど遅れて三階に上がってきたのは、当然というか梶先輩だった。もう随分と走って来たのか相当に息を弾ませている彼は、こちらに顔を向けることすらせず、ただひたすらに後輩の背中を追って、駆け抜けていって。

 「……えっ、ふ、二人とも待ってー!!それになんでいきなり立場が逆転してるの!?」

 「ていうか詩乃ちゃんこれってむしろいい感じじゃないけど望み通りじゃないー!?」

 追うものが追われるもの、に唐突に取って代わってしまった状況に混乱しつつも、私と小鈴はほぼ同時に走り出した。数秒の硬直はあったものの、幸い見通しの良すぎるほどに良い廊下だけに、二つのネイビーの背中を見失う心配はない。

 すると、その小さい方の背中に、見慣れないものが背負われているのに私は気付いた。横に長いタイプの、淡いピンクのあまり厚みのないリュックで、懸命に振られている両の手には何も下げていない。どうやら、あの重すぎる(主に中身だが)鞄は止めたようで、以前に追っていた時よりも若干スピードは速い。とはいえ、追う方の梶先輩もやや疲れが見えるものの、頭半分以上は彼女より高い身長ゆえに、コンパスの違いは歴然だ。

 そんなことを見取っている間に、右手に並ぶ五つの教室前を過ぎた詩乃ちゃんは、迷うことなく南階段へと足を向けると、意外なことに下ではなく上を選んで床を蹴った。そうしながら、一瞬ちらりと振り返って背後を確かめると、思い切りよく一段飛ばしを始める。

 「もしかして詩乃ちゃん本気モード!?こないだよりかなり早いんだけどー!!」

 スピードを落とさないままの小鈴の言葉に頷く余裕はないものの、同じ感想を抱きつつ上り階段に足を掛けた時点で、踊り場を回る詩乃ちゃん、六段ほど下に梶先輩、とまるで縮まらない距離を奇妙なほどに保ちながら、それぞれに走り続ける。

 と、じきに先頭の彼女が四階に辿り着いたかと思うと、脇目も振らず廊下に出るなり、今度は右手に足を向けたのに、私は思わず声を上げてしまった。

 「え、なんで!?詩乃ちゃん、そっちって……!」

 そこまで言いかけている間に、梶先輩が、そして数歩遅れて小鈴、すぐ後ろに私の順で階段を上り切ってしまうと、次々に後について、右手、つまり一組と二組の方へと折れて。

 「……ようやく、諦めたのか?」

 一年一組の、どの教室とも同様に二つある、その北側の扉の前で。

 少し息を弾ませながらも、ようやく足を止めた先輩が睨む先には、彼女がいた。校舎の南端、今はもちろん閉ざされている両開きの扉は非常口で、それを示す緑と白の誘導灯の真下に、酷く思い詰めた様子で立ち尽くしている。

 二つの教室も背後の扉も施錠されていて、完全に袋小路になっていることを分かっていながらの行動に、戸惑いつつも口を挟めずにいると、詩乃ちゃんは小さくかぶりを振って、

 「これまで二年、あなたを追い続けてきたのです。諦めるなど出来ません」

 「その過去もこれから費やす時間も無駄だ、俺の心は変わらん。お前に望むのは、ただ、あれをこちらに引き渡して、俺につきまとうのを止めることだ」

 普段の柔らかさも消えた、きっぱりとした口調で言い切ったのを、間髪入れずに厳しい声が切り捨てる。一瞬、身を固くした後輩は、それでも真っ直ぐに据えた瞳を逸らさないまま、そろそろとリュックを肩から下ろすと、その最上部にあるファスナーに手を掛けた。

 「では、もしこれを返すとしたら、理由を教えていただけるのですか」

 音も立たないほどにじりじりと、それを開けてゆきながら投げられた問いに、梶先輩は怪訝そうに眉をひそめて、

 「どれだ。弟子を取らない理由か、本に関する理由か」

 「どちらも、ですが。特に、後の理由を」

 短いその言葉が、彼に一撃を与えたかのように、ネイビーの背中がぴくり、と強張る。自分で尋ねたことなのに、と、隣に立つ小鈴と目を見交わした時、先輩は一歩足を進めた。

 「前の問いなら、俺はそんな器じゃない、それだけだ。後の問いには、答えるつもりは今もこの先も、一切ない」

 「……分かりました」

 まさににべもない答えに、納得したように深く頷いた詩乃ちゃんは、半ばまで来ていたファスナーを一気に引き開けてしまうと、するりと中に右腕を差し入れた。

 と、慎重な手つきでそろそろと取り出してきたのは、あの、印象的な和綴じの冊子で。

 それを目にするなり、色めき立った様子でまた数歩、先輩が足早に近付いた時、赤の、丸い眼鏡の奥の瞳が、ぎゅっと細められて。


 奪おうと伸ばされた手を避けながら、力を逃がすようにわずかに、膝を曲げて。

 とん、と足先がコンクリートを離れざまに、細い両の腕が、鋭く上方へと振り抜かれて。


 「……あっ、えっ!?こっち!?」

 理想的なスリーポイントシュート、とでも言うべき曲線を描いた冊子が、先輩の頭上を綺麗に越えて、目の前へと落下してくる。反射的に腕を差し出すと、軽い衝撃とともに、ぱさり、と透明なカバーが乾いた音を立てるのが、奇妙にはっきりと耳に届いて。

 「堤先輩、わたしの宝をお預けしますー!お願いですー、逃げてくださいー!!」

 「えっ、あの、わ、分かった!」

 気付けば、何故か床にへたりこんでいる後輩の切実な声に叩かれて、一も二もなくそう応じてしまった私は、勢いのままに踵を返した。即座に後も見ずに(というより、怖くて見られずに)駆け出しつつ、抱き締めるように冊子を抱え直しながら、さらにスピードを上げるべく床を蹴って。

 「……なっ、おい、待て!だいたい何故お前らがこの話に関わってくる!!」

 「そんなの頼まれたからに決まってるでしょー!?それに大人しく黙って見守ってれば先輩一度ならず二度までもしかも一年女子の夢を打ち砕くとか贅沢かつ横暴すぎー!もーそんなんだったら詩乃ちゃんうちによーこーせー!!」

 「元より俺に所有権など無いものをどうしろと!?こら、離せ、足を掴むなー!!」

 予想通りに進路妨害を買って出たらしい小鈴の声と、次第に高くなりゆく梶先輩の声が交互に飛んでくるのを後ろにしながら、突然に降って沸いたいくつもの謎について、私はあてどもなく考えを巡らせていた。



 そうして、焦るばかりで何ひとつ答えを見いだせないまま、身体だけは動いて。

 「どっちに……どこに、逃げよう」

 北階段を降り切り、教室棟を出て、北側の渡り廊下をひた走りながら、私は迷っていた。特別棟は、いつものように一階から四階まで何かしら部活や会議などが行われているし、何より走り回って邪魔にはなりたくない。裏庭は先輩もよく知る場所だから却下、となると、と考えているうちに、見慣れた昇降口が見えてきて。

 そうだ、とりあえず私のロッカーに入れてしまえば、と閃いて、そちらに足を向ける。アイボリーのそれらが幾列も並ぶ中から、向かって右端から五列目の通路に走り込むと、五段十列のほぼ真ん中に位置する、自分の名前を掲げたそれを目指しながら、肩に掛けた鞄の外側のポケットに入れてあるはずの鍵を探る。けれど、指先はなかなか目的のものを掴めなくて。

 「あれっ、ない……?」

 端から端まで手を動かしてもキーリングの鳴る音すらしないのに、慌ててファスナーを全開にしてみても、黒い空洞が見返してくるばかりで、ますますうろたえが広がって。

 「……堤ー!いるんだろう、さっさと出て来い!」

 確信なのか試しなのか、どちらにせよ思っていたよりも早く廊下に響いた声に、困惑が一瞬で吹き飛ばされて、私は再び走り出した。校舎の外に向けて開け放たれた扉を抜けると、右、つまり正門へと向かうルートを選んで足を速める。

 幸い、ではないけれど、私用で部室を使うわけにもいかないし、詩乃ちゃんとの相談は校外に出てからどこかでするつもりだったから、帰り支度だけは万端だ。最寄り駅までは徒歩七分と結構あるものの、毎日使う道だけに、逃げも隠れも出来る場所には心当たりがたくさんある、そう言い聞かせながら地面を蹴り続けて、次第に近付いてくるレール式の門へと、ただ一直線に向かっていた時、

 「部長、なんでそんなに走ってるんすか」

 唐突に左から掛けられた台詞とともに、黒い影が小さな軋みを上げて傍らに現れたのに、声も出せずに、それでもさっと顔を向ける。

 もう全速力、とは言い難い、私の走るスピードに合わせてぴたりと並走しているのは、浦上くんだった。羽織っているところを未だ見たことのないブレザーが無造作に前カゴに突っ込まれている黒い自転車を、揺らがせもせずに器用に操りながら、窺うようにじっと、こちらを見ていて。

 いつの間に、とか、でもこの状態で何をどう説明すれば、とかバラバラな断片ばかりが頭に浮かぶうちに、目の前に正門が迫ってきて。

 「……真雪ー!!本気でやばいから、逃げてー!!」

 肺活量の限りを尽くした、という声量で警告が耳に飛び込んできたのに、振り向こうと身をひねった途端、右のローファーの底がシルバーのレールを踏んで、滑って。

 ぐん、と背中から引っ張られるような感覚に、だめ、転ぶ、と思考が走る間に、せめてこれだけは、と冊子を胸に抱え込んだ瞬間、身体のそこここに鈍い衝撃が走って。

 「……なんで、そのまま倒れるんすか」


 間近で響いた、呆れと困惑がない混ざったような声に、閉じていた瞼を上げる。

 瞬きの間に認めたのは、少しでも動けば触れそうに寄せられた、彼の顔で。


 「……うわ、ご、ごめん!ごめんなさい!」

 叫ぶと同時に慌てて身を引こうとして、彼の右手が肩を、そして左手が腰を支えていることにあらためて気付いて、違う叫びがまた零れそうになるものの、その肩越しに見えた光景が、それを瞬時に打ち消した。銀縁の眼鏡が派手にずれる勢いで向かってくるのは、むろんのこと梶先輩で。

 そのすぐ後ろに小鈴が、そして遥か彼方に詩乃ちゃんが迫っているとはいえ、せいぜい数十メートルほどの距離しかないはず、と見て取った私は、手にしていたものを無理矢理浦上くんに押し付けた。

 「お願い!これ、凄く大事なものだから、持って逃げて!」

 説明も何もない勝手な依頼に、後輩はわずかに目を見開いたものの、鋭く首を巡らせて。

 追跡者の姿を捉えてからの行動は、素早いどころではなかった。傍らに横倒しになっていた自転車を飛び越えると、低く身を屈めて地面に転がった鞄とブレザーを拾い上げる。そうしながら空いた右腕で黒の車体を一息のうちに引き起こすと、掴んだ荷物を前カゴに放り込んで、足を跳ね上げた一挙動で、飛び乗って。

 「なんかあったら、連絡ください」

 私の目の前を通り過ぎざま、手の中の冊子をするりと攫っていくと、門を出て左手の、駅に向かう方へと走り去っていった。

 その行く先を追おうとよろめく足を一歩踏み出した直後、複数の足音が追い付いてきて。

 「……お前が、あれにどうしてそこまでしてやる必要がある?」

 苛立ちにまみれた低い声に振り返ると、まだ息も整い切らない様子の梶先輩が、ひたと睨み付けて来ていて、さすがにひるんだものの、

 「事情も知らずに、いきなり割り込んだことは謝ります。でも、あの本を彼女がとても大事にしていることは知っていますし、それに、ひとつだけ納得がいかなくて」

 「なんだ」

 眉間の皺をますます深くしつつも、こんな時でも話は聞いてくれるらしい態度に、妙にほっとしながら、私は逃げるうちに浮かんできた疑問をぶつけてみた。

 「あれは、会誌と同じように発行されたものなんですよね?だったら、経緯はともかく、もう彼女のものであるはずなのに、作者だからって引き上げようとするのは違うんじゃ、って思って」

 言い終えるか終えないかのうちに、先輩の肩がかすかに震えるのが見えて、きつく口を噤む。まるで何かが刺さったかのような反応にうろたえていると、彼は、顔をそむけて。


 「……俺には、あれ自体が、振り返ることも許せないほどに、羞恥の対象なんだ」


 ひとつひとつを絞り出すように、言葉を吐き出した梶先輩は、そのまま背を向けて。

 険しい表情の小鈴の横で、呆然として立ち尽くしている詩乃ちゃんを顧みることもなく、校舎の方へと歩き去っていった。

 「……なに、あれ」

 ふいに、ぽつりと零した小鈴が、私を、それから詩乃ちゃんを見やって、ぎゅっと拳を握ると、

 「なにあれー!もー、なんなのあのひとほんっとわけわかんないしー!!」

 おそらく、ここにいる当事者全てが思っているだろうことを、実に簡潔に叫んでくれた。

 ……それにしても、こんな急展開って、ついていけなさすぎるよ、もう。

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