才能は孤高・2

 梶先輩と詩乃ちゃん、そして何故か私たち図書部(の一部)まで巻き込まれてしまった、『あやめ色の雨』を巡る逆転追跡劇が繰り広げられた、その夜。



 遅くなってすいません


 浦上 亨

 To:堤 真雪


 さっき、大原からのメールも見ました。

 事情は、だいたい了解しました。本は無事です。

 なんなら家に郵送するか、って聞いたんですけど、

 そこまではいい、連休明けに渡してもらえれば、

 ってことで話はつきました。

 よろしくお願いします。



 「良かった、連絡してくれたんだ……」

 間もなく、午後九時になろうかという時刻。自宅二階の、自分の部屋で。

 ようやく届いた後輩からのメールを読み終えた途端に、ベッドの上で正座していた姿勢から、私はそのままずるずると布団の上に倒れてしまった。……気が抜けた、ほんとに。

 浦上くんにあの本を無理矢理託してしまったあと、梶先輩の謎でしかない発言を受けて、困惑に包まれたままの詩乃ちゃんを小鈴と二人で励ましたりしてみたものの、正直あまり役に立てたとは言えなかったし、彼女も巻き込んですみません、とかえって落ち込ませてしまっていたから、ひとつの懸念が解決したことに、張り詰めていたものが一気に崩れて。

 と、気力もだけれど、それ以上に体力を消耗していたのか、瞼がゆっくりと落ちかけているのに気付いて、はっとして身を起こす。食事もお風呂もとっくに済んで、パジャマに着替えているからある意味支障はないものの、返事は返しておかないといけないからだ。時間も時間なので、ごく短めに、と心がけつつ、本当に有難う、迷惑掛けてごめんなさい、来週また部活で、と簡単に返信してしまう。

 メーラーを閉じて、安堵にほっと息をつくと、すぐに画面が黒く暗転する。天井からの白い明かりを受けたそれに映し出された自身の顔は、情けないほどに不安に満ちていて。


 ……これから、どうやって糸口を見つければいいのかな。


 彼女の言によれば、私たちの元に来る途中で梶先輩を見かけて、常の如くに追い掛けていたところが、あの冊子の名前を出した途端に顔色を変えたということだったし、一連の行動から見てもあれがキーなのは間違いないだろう。けれど、残していった言葉の意味は、きっとずかずかと踏み込んで聞くべきことではないだろうし、かといって、詩乃ちゃんの想いを砕くような真似もしたくなくて。


 ……むやみにぶつけるだけではいけないのは、分かっていたんです。

 でも、会ってしまうとどうしても、気持ちをおさえられなくて。


 俯いたきりで、か細く声を震わせていた姿が脳裏を過ぎて、天秤が揺れたような心地に息を吐く。加えて、保健室で覗かせた心の内も知っているだけに、どうしても彼女寄りになってしまっていることは、自覚していて。

 そんな傾きを阻むように、手の中で液晶が光を放った。もしかして詩乃ちゃんかな、と思ったのも束の間、直後に鳴り響いた着信音と、画面中央に浮かんだ受話器のアイコンが電話だと知らせてくる。そして何より驚いたのは、その下に表示されている、彼の名前で。

 「え、浦上くん!?あっ、わ、とにかく、出なきゃ」

 焦りながらも、フルネームで登録されているその名前に触れるように指を伸ばした途端、突然、ふつり、と音が途切れてしまった。

 「……なんだろう、間違えたのかな」

 首を傾げているうちに画面は切り替わってしまって、ホーム画面には履歴を示す小さなアイコンだけが残されている。ひょっとして伝え忘れでもあったのかな、と考えていると、再び画面が光って。

 どうやら操作ミスではなかったらしく、また掛かってきたそれに少しだけ戸惑いつつも、私はそろそろと『通話』のアイコンに触れてから、スマホを耳元に添えた。と、

 『……あらた、まとわりつくな、危ない』

 もしもし、とこちらが言う前にそんな台詞が聞こえてきて、たぶん家族だろう、誰かが傍にいるらしいことが窺える。どうしよう、話してもいいのかな、と迷っていると、

 『ほら、母さんに叱られるぞ、明日もあるんだから、もう寝ろ。……ああ、おやすみ』

 柔らかくたしなめるような優しい声のあとに、かなり高めの可愛らしい声が『おやすみなさーい』と応じたのまで聞こえてきて、さすがにちょっと笑ってしまった。

 当然ながら、それを耳にしたのだろう彼は、一拍ほどの間を置いて、

 『部長、すいません、遅くに。浦上です』

 まるで何事もなかったかのように、淡々とした調子で名乗ってくるのに、さらに口元が緩んでしまう。抑えきれない笑みもそのままにしながら、私は答えを返した。

 「ううん、まだ全然起きてる時間だし、大丈夫。今のって、もしかして弟さん?」

 『そうです。俺が自分の部屋に行こうとすると、いつもああなんで』

 「やっぱり。仲、いいんだね」

 先週の金曜日、仮入部の手続きをする際に、彼が『早目に帰らないとまずい日がある』理由を話してくれたのだけれど、それが年の離れた(しかもなんと十一歳差だ)弟さんのことだった。毎日ではないものの、ご両親が仕事の都合で、保育園にお迎えに行けない日などに代わりに出向いたり、ご飯を作ってあげたりと、こまめに面倒を見ているそうで。

 凄く懐かれてるみたいだし、いいお兄ちゃんなんだなあ、と和んでいると、はい、まあ、と短く応じてきた後に、数秒の沈黙が続いてしまって。

 しまった、彼のことだからこんな雑談じゃなくてちゃんとした用件があるはず、と思い至って、慌てつつも私は口を開いた。

 「あの、今日は、ほんとにごめ」

 『部長は、大丈夫っすか』

 「……え?ええと、何が?」

 あらためてお詫びとお礼を、と言いかけたのをさえぎるように放たれた問いに、意図が分からなくて尋ね返すと、また少し間が空いて。

 『足とかです。だいぶ息上がってたし、転びかけた時も危なそうだったんで』

 「あ、うん、もうなんともないよ。支えてくれたからどこも痛めてないし……」

 何気なくそう返してから、ふと重大なことに気が付いて、語尾が途切れる。

 ああしてがっちりと支えてもらった、ということは、木原くんやチカくん(と言っても、彼はいささか規格が違うけれど)と比較しても細身と言っていい体格の彼に、間違いなく全体重を掛けてしまった、ということで。

 「ご、ごめん、私、結構重いのに!浦上くんこそあの時って大変だったんじゃ……!」

 小鈴くらいの体格ならともかく、ましてや身長なりの体重はしっかりとある自分では、と思ってそう言うと、

 『いえ、俺は別に。新の扱いで慣れてるんで』

 「……えっと、男の子とはいえ五歳の子だったら、たぶんだけど三人分くらいは余裕であると思うよ?」

 『けど、あいつが遊んでくれって暴れるのもわがままも、部長の三倍どころじゃないと思うんで、平気っす』

 実にあっさりと、間を置かず返ってきた答えに、うっかりその光景を想像してしまって、私は今度こそ小さく吹き出した。

 それこそ絡まるように懐いてくる幼い弟を、あまり表情も変わらずに、でも絶対に邪険にはせずに構ってあげているだろう姿が、どうしてだか目に見えるようで。

 『なんか、変なこと言いましたか、俺』

 「ううん、そんなことないよ。ただ、その……」

 戸惑ったような声に、否定しながらもまた吹いてしまっては、説得力も何もない。変にツボにはまってしまったことを謝りながら、私はどうにか笑いをおさめると、

 「心配してくれて、有難う。頼りないけど、頑張るね」


 まだ、何をどうしたらいいのかすら、分からないではいるけれど。

 こうして、差し出してくれた気遣いや優しさには、応えていきたいから。


 なんとなくだけれど、進むべき方向が見えてきた気がしてそう言うと、浦上くんは一瞬、押し黙って。

 『……なんか、ある時は。俺にも、言ってください』

 「えっ、はいっ。わ、分かりました」

 少し前に聞いた台詞と、似ているけれど違う響きの声に、何かうろたえてしまって。

 つられるように敬語で返してしまうと、もう一度お礼を告げてから、通話を終えて。

 ……なんだろう、ざわざわ、する。

 微かなさざなみめいたものに揺らがされているのを感じながら、まだ名前と電話番号が表示されている画面をぼうっと見つめていると、いきなりそれが切り替わった。

 くるりと回転した封筒の形のアイコンの下には、来るとは思っていなかった人の名前が記されていて、一気に緊張しながらもそれを開いてみる。



 顔合わせについて


 かじ 友哉ゆうや

 To:堤 真雪


 近日中に、俺の方から連絡する。

 望月にも、そう伝えておいてくれ。

 醜態をさらしたことは、悪かった。



 簡潔すぎる文面に、それでも関わりを断つつもりはなさそうな気配を読み取ったものの、結局のところそれ以上でも以下でもない。枠の外にある、自分の立ち位置を思い知らされながら、私は取り急ぎ、小鈴のアドレスを呼び出していた。



 そうして、五日間の連休も瞬く間に過ぎた、月曜日。

 「今朝は、副部長は来なかったんすか」

 「行きたいけど時間的に無理ー!って。小鈴、もの凄く朝は弱いから」

 「……なんとなく、低血圧とは縁がなさそうに思ってました」

 「それは当たってる。決まった時間に寝て起きて、ってしないと後がもたないっていう体質なだけだしね」

 浦上くんと私は、篠川ささがわ駅から我が校へと向かう通学路を並んで歩いていた。普段よりはかなり早く出てきたとはいえ、別に通学経路が変わるわけでもないから、徒歩と自転車の押し歩き、という組み合わせだ。

 今は七時五十分を過ぎたところで、いつもの登校時間よりは三十分ほども早いけれど、篠上の生徒は、私たち以外ほとんど姿が見えない。自転車通学の多い朝練組はもっと前に家を出てくるし、朝のHRは一時間後、授業は九時からとなれば、道行く人々は制服よりスーツ率の方がよほど高いくらいだ。

 そんな中をこうして一緒に高校へと向かっているのは、もちろん詩乃ちゃんとの約束があるからで。

 「ひょっとしたら途中で会うかと思ってましたけど、いないっすね」

 「うん……詩乃ちゃんの自転車なら、絶対見逃さないよねって思ってたんだけど」

 少し前、彼に駅まで送ってもらった時に目にしたことのある彼女のそれは、丸い眼鏡に合わせたようなつやつやとした赤で、とにかく目を引く代物だったから、視界に入りさえすればすぐに分かるはずだ。ことに、この道はひたすら南北に真っ直ぐだし。

 詩乃ちゃんからの申し出で、皆揃って昇降口で落ち合おうか、と決めた時間は八時で、あと十分弱だ。徒歩でも余裕だし、自転車ならもっと楽勝なくらいだから、もしかしたらとっくに着いているのかもしれない、そう考えて、人が少ないのを幸いに、いっそう足を速めていると、

 「部長、チャリ乗れますか?」

 「え?うん、一応乗れるけど」

 いきなり横から飛んできた質問に、ちょっと驚きつつもそう答えると、浦上くんは黒の自転車を見下ろして、思いがけないことを言ってきた。

 「乗りますか?それで俺が走ってついていけば、ちょっとは速いですけど」

 「も、申し訳ないからだめです!あっ、だったら浦上くんだけ先に行ってもらった方がいいよ!早く届けられるかもしれないし!」

 「赤になったんで、止めときます」

 言葉通りに、横断歩道の白線の手前でぴたりと停止した後輩に倣って、私も慌てて足を止める。駅から数えて校門に辿り着くまでに三つある交差点のうち、ここは二つ目だから、まだ道のりのおよそ半分だ。

 右手から出てきた白い車が過ぎたのに続いて、灰色のスクーターが目の前を通って駅の方へと曲がっていっても、まだ変わらない信号をそわそわと見上げていると、

 「それに、俺だけ行っても、部長、絶対落ち着かないと思うんで」

 さらりと続いた指摘に顔を上げたタイミングで、信号が赤から青に変わる。真っ直ぐに顔を前に向けて、すぐさま歩き出すそのスピードは、私の精一杯の早歩きと同じくらいで。

 さりげなく見抜かれていることにも、焦り過ぎている自分にも何か気恥ずかしくなって、そうだね、とだけ小さく応じてしまうと、黙々と歩くことだけに集中する。

 ほどなく右手前方に見えてきた正門は既に全開にされていて、自転車登校組の数台が、白、青、黄色の順で、慣れた様子で次々と走り抜けて行く。反射的にそれを追った視線の先に、ぽつん、と立ち尽くしている姿を認めた途端、向こうもこちらに気付いて。

 開け放たれた門の影に隠れるようにしていた彼女が、周りも見ずに飛び出してくるのを目にするなり、浦上くんがその場に自転車を止めた。

 私も同時に足を止めると、前もって彼から預かっていた例の冊子をすかさず黒の鞄から取り出して、傍まで一気に駆け寄ってきた詩乃ちゃんに見えるように差し出す。と、

 「……有難う、ございます」

 そろそろと伸ばしてきた両の手で、壊れ物を扱うかのようにそれを取り上げた彼女は、見る間に眼鏡の奥の瞳を潤ませながら、しっかりと胸に抱きしめてしまって。

 そうして俯いたきり何も言えないでいるのに、どうしたものかとおろおろとしていると、がしゃん、と縁石を車輪が乗り越えたらしい音がすぐ近くで響いて、顔を上げる。

 「……先輩」

 軽い軋みとともに、数歩離れた位置でブラウンの自転車を止めたのは、梶先輩だった。サドルから降りる気配はないまま、地面につけた左足に重心を置いた姿勢で、私を、彼を、確かめるように順に見やってから、つと、彼女に目をやって。

 身を震わせながらも、引き下がるそぶりもなく、なお冊子を抱え込んだ詩乃ちゃんに、先輩はわずかに眉を寄せると、意外な台詞を放ってきた。

 「放課後、話せるか?」

 私もそうだけれど、まさかの展開だったのだろう。彼女は目を見開いたきり、しばらくその場に固まっていたが、やがて、大きくひとつ頷きを返す。

 それを受けた先輩が、即座にペダルに足を掛けたのに、私はとっさに声を上げた。

 「あの、それなら、うちの部室を使ってください!邪魔はしませんから!」

 ネイビーの背中にそう提案をぶつけてみると、首だけで振り向いてきた先輩は、すっと目を細めて、

 「心配か」

 「……はい」

 「だろうな。なら、お前らもいればいいだろう」

 あっさりとそう言い捨てるなり、今度こそ勢いよくペダルを踏んで、奥にある駐輪場の方へと走り去っていってしまった。

 「……ごめん、詩乃ちゃん。浦上くんも、勝手に決めちゃって」

 「俺は、別に。大原次第だと思うんで」

 至って冷静な声に、憧れの人が消えた先からのろのろと顔を戻した彼女は、私の視線を捉えてきて。

 「出来れば、先輩方に見守っていていただけると。でないと、わたし……」

 弱く途切れた言葉をそのままに、惑いに引かれるようにうなだれてしまった後輩の姿に、私はあることをひとつ、心に決めていた。



 それから、小鈴を始めとして、他の部員の皆にも事情を伝えて了承を得て、いよいよ、放課後。

 「部長ー、なんつかこれって観客席ってか傍聴席?っぽくて、すげえ落ち着かないんすけどー」

 「ご、ごめん……でも、あんまり二人に近いのもなんだし、スペース的にこうするしかないよねって」

 詩乃ちゃんと梶先輩のために、すっかりセッティングを終えた、図書部の部室で。

 珍しく戸惑い気味の小声を上げた木原くんに、私は同じくひそひそとそう返していた。

 とはいえ、そんなに大したことをしたわけではない。いつもは部室の真ん中に縦にして置いてある長机を部屋の一番奥まで寄せてから、それを挟んで向かい合わせに右は緑の、左には朱色の丸椅子を置いて二人の席を、そして、残りの椅子は入口のある壁際に一列に並べて、極力話の邪魔にならないように距離を開けて、とレイアウトしてみたのだけれど。

 「……ていうか、けもの道が出来上がりそうな勢いで歩き回るのやめてもらえません?シルエット的に小熊かペンギンがぽてぽて歩いてるようにしか見えないんで」

 「落ち着かなさをひたすら歩くことで発散してるんだからほっといてー!!そっちこそでかい図体でのそのそ後追いされると日陰になるからついてこないー!!」

 「日が当たるの遮っとけば電池切れるの早くなるかと思ったんですけど。あ、実は動力ネジなんですかね?うっわーどこまでもアナログー」

 「だから前後左右にひねらないー!わたしのお団子はゼンマイでもレバーでもないからー!!」

 緊張に耐えられないー!と外に走り出て行った小鈴と、なんか狭苦しいんで、とついていったチカくんはあの通りだし、何より、とうに用意した席についている詩乃ちゃんが、じっと膝の上に置いた例の冊子を見下ろしているばかりだから、やはり空気は重くて。

 とはいえ、約束した以上先輩がそれを違えることはまずないし、今は定刻の四時十分が到来するのを待つより他はない。そう言い聞かせつつ、腕の時計に目をやっていると、

 「……部長、あの人、来ました」

 入口の傍に立って、外を窺っていた浦上くんが知らせてくれるなり、部屋の中の全員が椅子を鳴らして立ち上がる。それ以上動けずにいる彼女に頷いてみせてから、私は戸口に駆け寄った。と、

 「失礼する」

 短い挨拶とともに、黒の指定鞄を右肩に掛けた梶先輩が姿を見せたかと思うと、一瞬、奥に立つ詩乃ちゃんの方を見たものの、足を止めることなくしつらえてある席へと向かう。それから、長机の端に鞄を置いてしまうと、立ったままぐるりと首を巡らせて、立ち並ぶ私たちを、ふっと眺め渡してきて。

 「……えらく綺麗な大中小だな、お前ら」

 「っちょ、そこからっすか!?挨拶とか定番の自己紹介とかすっ飛ばして!?」

 軽く眉をひそめて、端的かつ割と失礼な気もする感想を述べた先輩の台詞に、すかさず木原くんが突っ込んだのに思わず横を見ると、確かに、と納得してしまった。

 つまり、入口近くからチカくん、木原くん、そして浦上くん、という順に並んでいると、バランス的にはまさしく、そんな感じで。

 「それは、また改めて。ともかく、先に用件を済ませてからのことにしてもらえるか」

 こちらの反応に、先輩は平静にそう返してくると、椅子に座るそぶりもないまま彼女に向き直る。おずおずと見返してきた後輩の瞳を真っ直ぐに捉えて、彼は口を開いた。

 「……悪いが、それを見せてくれないか」

 ついに告げられた言葉に、詩乃ちゃんは唇をぎゅっと結んで、それでも小さく頷くと、ずっと胸に抱えていた『あやめ色の雨』を、思い切るように前に突き出した。

 目立った反応もなく、無言でそれを受け取った先輩は、表紙にざっと目を走らせたあと、わずかに眉を寄せたものの、やがて、ページをゆっくりとめくり始めた。

 動揺した様子は、もう見られない。懐かしむというよりは検分するような厳しい視線を絶えず向けながら、さほど多くはないページを全て繰り終えてしまうと、息を吐いて。

 「……それだけじゃないな」

 呟くようなひとことを漏らすと、とん、と指先で表紙を叩いて、さらに続けた。

 「画力はもちろんだが、構図も展開も雑な上に、何といっても粗が多すぎる。お前は、これのどこがいいと思ったんだ?」

 「全部です!」

 即座に返ってきた答えに、さすがに面食らったのか先輩が目を見開く。その表情も目に入っているのかいないのか、詩乃ちゃんは机の上に置いていたピンクのリュックを掴むと、中から一冊のノートを取り出して、ずい、と一歩足を進めた。

 「つつましやかで上品な色合いの装丁も、表紙の文字も配列も、絵柄も展開も何もかも、わたしの好みを具現化したような作品で、だから……ずっと、想いを綴ってきたのです」

 また一歩間を詰めるとともに、机ががたん、と揺れるのにも構わずに告げてしまうと、捧げるようにそれを差し出して、動かずにいて。

 ひたと見つめる瞳から表紙へと目を移した梶先輩は、怪訝そうにしながらも冊子を脇に置いてしまうと、先程と同じようにノートを受け取った。

 一ページ目をめくるなり、現れたものに顔をしかめたものの、じきに忙しく左右に目を動かし始めて、しばらく静けさの中に、紙が繰られる音だけが響いていたけれど、

 「……こんな意図があったわけじゃないぞ。ここも、こうまで深読みするとは……」

 そんな呟きをいくつか挟みつつも、読み進めるごとに眉間の皺が深まっていって。

 最後のページまで、かなり速いスピードで目を通し終えた先輩は、ノートを閉じて。

 冊子の横にそれを並べて置くと、見比べるように視線を、動かして。

 「お前は、気に入ったのか」

 「はい!毎日のように読み返してしまうほどに!」

 「……そうか」


 囁くような声の中に、複雑な色が垣間見えた気がして、その横顔に目を移す。

 けれど、静かに伏せた瞼の下に、覗いていたものは隠されてしまって。


 細く息を吐いた彼は、目を上げると、無造作に黒の鞄を掴んで、

 「これは、お前にやる。あとは好きにしろ」

 そっけなく言い捨てるなり、そのまま後も見ずに出て行こうとするのに、真っ先に動いたのは小鈴だった。私と浦上くんの間からさっと飛び出すと、先輩の行く手を塞ぐように両手を広げて、鋭く命令を飛ばす。

 「チカちゃん、入口閉めて、前に立ってて!」

 「はいはい、了解ー」

 「……お前ら、何のつもりだ」

 すぐさまその通りに動いたチカくんに驚いている暇もなく、眉を跳ね上げた梶先輩を、腰に手を当てた小鈴が、きっと咎めるように睨み付けた。

 「先輩、身勝手過ぎー!自分ばっかり言うだけ言って彼女の気持ちは聞かないとかー、そんな態度取るなら中途半端に構うんじゃありませんー!!」

 「だから、俺は最初から明確に拒んでいただろうが!」

 「……梶先輩、漫研に入るのは、どうしてもいけませんか?」

 危うく派手な言い合いに突入しかけたのを、割り込んだ声がぴたりと止める。

 彼の傍まで寄って来ていた詩乃ちゃんが見上げてくるのに、先輩は顔をしかめて、

 「俺しか、おらんのだぞ」

 「大丈夫です、ひとりよりはふたりです!」

 「それに、俺はひとところに留まるのは好かない。今の状態が性に合っているからこそ、こういう活動をしているんであって……」

 「ならば、どこまでもついていきます!元よりその覚悟でやってきたのですから!」

 ひとつひとつに、揺るぎない決意を返してくる彼女の言葉を受けて、先輩の顔に初めて迷いが浮かんで。


 「……俺が引退したら、また、ひとりになるだろうが」


 顔を逸らして、低く零した台詞に打たれて、詩乃ちゃんが大きく目を見張る。

 そのことを考えてもみなかったのか、揺らぎを見せた彼女を見ながら、ためらいつつも私は口を挟んだ。

 「あの、だったら、ここに二人がいつでも来てもらってもいいように、場所を作ります。活動の場、でもいいし、休憩所みたいな感じでもいいし」

 と、私の言葉に、二つの眼鏡が一斉にこちらを向いてきて、ちょっとひるんでいると、

 「うんうん、そしたら先輩がどっかに放浪してても詩乃ちゃん預かれるしー、その間にこっちの戦力に取り込み作戦出来るかもしれないしー」

 「無理でしょ、それ。こんな恥ずかしげもなく大告白大会やらかすような人材なんだし」

 「ていうか、七人ってなると机確実にもう一台いるよなー。スペース足んねえ……あ、あの微妙に使ってないラック一個放り出せばいいんじゃね?チカなら一発だろ?」

 「そんなに重くないしな。けど、扉からも窓からも出せそうにないから、ドライバーかスパナがいると思う」

 小鈴の台詞から始まって、あっという間に具体的な作業の話にまで話が及んでいくのを見ていた先輩は、次第に眉間の皺を深くしていったかと思うと、こちらに視線をくれて。

 「根回し済みか」

 「……えっと、はい。ざっくりとだけ、ですけど」

 実は、昼休みに図書部全員で集まってもらった時に、この案を話してみたのだ。結果がどうあれ、詩乃ちゃんが弟子入りをそう簡単に諦められるはずもないし、取り急ぎここにいてもらえばいいんじゃないかな、程度ではあったのだけれど。

 そんなことを伝えると、梶先輩は短く、唸るような声を上げて、

 「……堤、大原、ついてこい。いずれにせよ、うちの顧問に話を通さねばならん」

 諦めたようにそう言うと、今度こそ入口へと足を向けるのに、思わず詩乃ちゃんの方を見やる。と、

 「……はい!大原詩乃、一生かけて、師匠についてまいります!」

 綺麗に背を伸ばして、きっぱりと宣言した彼女が、ネイビーの背中に飛びつきかねない勢いで走り寄ると、跳ねるような足取りでその後に続いていった。

 それを見届けてから、戸口まで近付いた私は、ふと、足を止めて。

 「部長、追っかけなくていいんですか」

 「うん。行き先は分かってるから、ちょっとだけ遅れていった方がいいかな、って」

 浦上くんの問いにそう応じながら、未だ不本意そうに眉を寄せたままの師匠と、満面の笑みで追っていく弟子の姿が校舎へと入っていくのを、私はそっと見送っていた。



 それから、詩乃ちゃんの入部も叶い、顧問の先生方の正式な許可も得て、部室は無事に、図書部兼漫画研究会、となったのだけれど。

 「……これが?全部?俺の作品の考察だと!?」

 「はい、現在十四冊目の途中まで達したところで!でも、これからは直接師匠に想いの丈を伝えられるのだと思うと、わたし……!」

 「あー……梶先輩、ドン引き?」

 「ま、仕方ないんじゃないの?あのプロポーズまがいの申し出受けちゃったんだし」

 「……なんか、やたら重そうな『一生』だな」

 積み上げられた二年の集大成に顔をひきつらせた師匠と、感動に打ち震えている弟子を離れて眺めながら、一年男子が述べた感想は、あまりにも的確過ぎて。

 ……とにかく、いざという時には止められるように、覚悟だけはしておこう、色々と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る