第32話 発動

 聖堂の中には、やわらかな夕暮れの陽光が注がれている。天井のステンドグラスからさしこむ、その細い光は、その下に複雑な細工で張り巡らされた飾り梁に反射し、筋を分かたれて、分散されている。


 荘厳な雰囲気は、大勢が集まる祭礼殿とはまた違っていた。


 祭壇の前に侍女たちが据えていった花器に白薔薇を活けながら、エヴァリードは小さく歌った。


 「──薔薇よ、薔薇よ、香りたかき薔薇よ

  輝く無垢な白

  凛とひらく花弁

  その香りに、なにを託すの?

  なにを望むの?


  神に、あなたを捧げたい

  香りたかき薔薇よ

  美の化身よ

  私たちの心を魅了する、その姿


  あなたこそ、神の名に相応しい

  輝く無垢な白

  凛とひらく花弁


  薔薇よ、薔薇よ、香りたかき薔薇よ

  この想い、どうか、その香りにのせて

  天高く運んでおくれ」


 馥郁たる薔薇の香りとともに、澄みきった、清清しい歌声が昇っていく。


 エヴァリードは目を閉じた。


 神の加護を祈り、空人の無事と繁栄を願い、愛しい存在の幸福を望む歌。


「エルダ」


 最後の薔薇を活けようとしたとき、涼やかな声が彼女を呼んだ。

 歓喜の笑顔で彼女は声に応える。


(ボリスさま)


 一輪の薔薇。


 白い薔薇のもつ意味は、相思相愛。


 エヴァリードは、その薔薇をボリスに捧げたくなった。そこで、両手でそっと抱いて、彼のもとへと歩みよる。


「そろそろ、ここは君には冷えるだろう。さあ、部屋に送ろう」


 さしだされた手の力強さを誰よりも信じる彼女は、思わずその手の甲に蕾のような唇を寄せた。あたたかく、やわらかな感触に、ボリスの心が震える。薔薇の香りが彼の全身をつつむ。


 彼の心には、ある影が生じていたのだが、エヴァリードの姿を見ると、その感情は沈静した。誰よりも大切で、いつでも護りたい、そんな存在。離れるわけにいかない。


 囁くような、妙なる歌が、エヴァリードの咽喉をついて出た。


 「──薔薇よ、薔薇よ、白く無垢な薔薇よ

  真心に咲き誇る薔薇よ

  その名を呼び、愛の名を告げて」


 二人は互いを見つめる瞳に恍惚としていた。


 「──輝く薔薇よ、

  咲き誇る、香りたかき薔薇よ

  愛の名を

  真の愛の名を呼び、語れ」


 深い吐息、甘いため息が、ボリスの全身を揺るがした。


「……ああ、エヴァリード」


 瞬間、彼女の胸を強い鼓動が打った。


「ああ、なんということ……!」


 一瞬、ボリスには、その言葉の意味するものが判らなかった。


「え?」


 わずか数秒前には幸福と希望に満ちていた顔が青ざめ、絶望の目が彼を刺し貫く。


「……!!」


 そこで、彼は息をのんだ。


「……しまった、エルダ!」


 だが、もう遅かった。


 首を横にふり、エヴァリードが囁く。


(いいえ、私のせいです。あなたに責はありません。私の歌が……ああ、でも……)


 彼女の心が放つ声。いま、それは悲しみにひびわれていた。


 エヴァリードの手の中の薔薇が、みるみる茶色くしなびて、粉々に砕け散った。


 二人の周囲を、冷え冷えとした風が渦巻いている。氷の粒をふくんだ、頬を叩く風だ。ボリスはエヴァリードを腕にかばい、その風から護ろうと抱きしめる。しかし、彼の銀髪は風に激しく巻き上げられているというのに、彼女の金髪はまったく乱れない。


 ボリスの胸に不吉な思いがたちこめた。


 そのとき。


「わが君!」


「マーロウ!」


 『雷光剣』を首にさげた黒豹が、飛びこんできた。剣の柄につけられた飾り紐を首にからませている。


 そして哄笑が近づいてきた。


「殿下、これを!」


 黒豹が首を振るうと、剣が舞い、ボリスの手の中に納まった。


「マーロウ、僕は」


「わかっております、殿下。こうなっては、もう避けられません。

大公さまが血の絆……命名の絆で結界を突破してきます」


(ボリス、私を刺して)


 静かな声が、彼の耳元に炸裂した。


「なに!?」


「わが君……」


 思わず目を向けると、エヴァリードの春の空のような瞳に、残酷な平安があった。


(いまなら可能なの。いまだけ、私と父は、血の絆によって一心同体の状態。親子の身体が呼び合っているの。だから、はやく)


「ばかな! 君を殺せと!?」


(そうしなければ、父がリベルラーシの──いいえ──この世界の覇王となってしまう。あなたの強さは知っているわ。でも、呪いがかかったままの私では、あなたの敵となる。私たちには、まだ血の絆が結ばれていないのだもの。陛下の夢の中であなたが戦った父は、本来の力をまったく出していなかった。神人の力を完全に備えた陛下ですら、勝算は)


「エヴァリード!」


 たまらず、彼は叫んだ。


(お願いよ、ボリス。私を刺して。いましかないの)


 聖堂から、神の威光が消えていた。


 冷たい暴風が邪悪な笑いとともに強まる。そして、禍々しい空気が濃くなっていく。


 不吉な振動が、激しさを増した。


 黒い光が満ち、柱のように聖堂の屋根をつらぬく。その衝撃が、波のように押しよせ、引いてをくりかえす。


(さあ、早く)


 かすれた声が、エヴァリードの耳に届いた。


「いやだ」


(王太子さま!)


「だめだ、エヴァリード!」


 彼女の名前を強い語調で呼びながら、ボリスは思った。なぜ、これでもまだ、呪いがとけないのだ、と。こんなにも愛しているのに。こんなにも彼女を求め、真の名で呼びつづけているというのに。


 最後のあがきをボリスは試みた。


 強く抱きしめ、蕾のようなその唇を自らのそれでふさぐ。そして、心の中で烈しいほどに彼女の名を呼んだ。呪いが今こそとけるよう、念じながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る