第31話 危惧

 いよいよ婚儀の日が迫った、ある美しい夕べ。


 エヴァリードはいつものように、城の庭で歌を口ずさみながら、凛と咲き誇る白い可憐な薔薇を手折っていた。土から離れても、この歌を聞かせれば、永遠も不可能ではない。彼女はそれを、城の聖堂に捧げようと思っていた。城の人々が神に祈る場所に。


「エルダさま! 薔薇を活けるのに、こちらをお使いくださいませ」


 職務を心得、気配りに長けた侍女たちが、上品な光沢をはなつ大きな花器を持ってきた。それを見て、エヴァリードは華やかに微笑む。彼女は呪いによって、言葉を禁じられている。しかし、天空人が生まれつき備える、生きものの心意を感じる能力によって、侍女たちはエヴァリードの感謝の声を聴いた。互いに心を開いていなければ意味のない能力ではあるが、それをエヴァリードに対して使いこなせない天空人は、城内ではもう居なかった。


 それほど、エヴァリードは受け入れられていたのだ。


 立派な花器を運ぶ侍女たちと聖堂に行くと、そこには警備隊長・ソーニャがいた。


「エルダ姫。ご機嫌うるわしゅう」


 軍人らしい隙のない動きで、しかし優美に、彼女は敬礼した。甲冑が涼やかな音をたて、腰の刀剣が煌めく。


 美しく鋭い目が、エヴァリードを見上げた。


「ソーニャさま。いかがなさいましたか。こちらでお目にかかるなんて、珍しいことでございますね」


 侍女のひとりが驚きの声をあげたが、ソーニャは一瞥でそれを黙らせた。鋭く、威厳に満ちた視線であったが、決して冷酷ではない。


「見事な薔薇をお持ちですね、エルダ姫」


 剣を繰る手とは思えないほどに美しい白い手がのびて、指先が花弁に触れた。女性らしい優美さで儚げな薔薇を愛撫し、傷めぬうちに退ける。


 そのあいだも、落ちついた微笑をまったく崩さないエヴァリードに、ソーニャも表情を変えない。


「内々に、お話をいたしたいのですが、姫」


 ソーニャの怜悧な視線をまっすぐに受けとめ、その静かな声の中にふくまれたわずかな緊張を、エヴァリードは感じとった。


 ソーニャに頷くと、後ろに頭を振る。


 エリンに鍛えられている侍女たちはすぐに意を汲んで、花器を聖堂内の祭壇前に運び、敬礼を残して立ち去った。


 エヴァリードは『宝殿指輪』から『声読みの本』を取り出すと、白紙のページを開いた。


 ソーニャが臣下の礼をとったため、エヴァリードは王族用の椅子に腰をおろす。


「私は、これよりしばらく、地候兵の地上での拠点を視察しにまいります。本来ならば、父が赴く予定でしたが……」


 感情を排した声が淡々と告げる。しかし、それにエヴァリードは身を硬くした。


(地上に?)


「はい。地候兵が一人、消息を絶ちました。地候兵全員に陛下が帰還命令を下されたので、それを確実に伝えることと、安否の知れない兵についての調査を任ぜられたのです」


 イワン王が悪夢に囚われた事件の後、地上に派遣されている地候兵を全員、帰還させるという話は当然、議論されていた。イワンも兵たちを帰還させることに肯定的であったのだが、当の兵たちが職務を全うしたいとして帰ってこなかったのだ。しかし、こうなってはもう、その意志を尊重しているような状況ではない。


(……いなくなった兵は、どこで?)


「おそらく、姫、あなたさまの領国かと」


 エヴァリードは、自分の生まれた国の名を伏せている。自分の本当の名前を隠しておく必要があるからだ。本当の名前を声に出して呼ばれたとき、親子の血の絆、命名の絆の力が働き、どのような結界をも破って、彼女の父王を彼女のもとに運んでしまう。だから、彼女はエルダという呼び名を名乗った。そして、調査から真の名を知られてしまうことを防ごうと、生国を告げないことにした。

 しかし、聡明なソーニャは察している。


「エルダ姫。あなたさまは、本当は」


 とっさにエヴァリードはソーニャの口元に手をかざした。

 ソーニャが口をつぐむ。


(ソーニャ。地上に行くのは危険です。兵を帰還させるとき、あなたも戻ってこなければ。ここには、あなたが必要です)


「陛下のご命令です。空の民を、もう一人として、地上で死なせるわけにはいかないのです。万が一、彼が生きていなくとも、身体を地上に残すことこそ危険。


 私は彼を見つけ、その生死にかかわらず、連れ帰らなくてはならないのです」


(けれど……)


「これは極秘の任務です。陛下と私のほかは、将軍(ちち)と、あなたさましか知りません。あなたさまにお話しするのは、ひとつ、教えていただきたいことがあったからです」


(なんです?)


 迷いながらも、エヴァリードは尋ねた。

 ソーニャの瞳に決意が光る。


「地上において、魔族のほかに、あなたさまの父君と通じている何者かがいるという可能性はないのでしょうか」


 エヴァリードの目が見開かれる。そこに、冷静さを保つ女隊長が映っている。


 一瞬が、長く長く流れた。


(私の知るかぎり、そのような者はおりません)


「そうですか」


(なぜ、そのようなことを?)


 思わず、そう訊かずにはいられなかった。


「私たち空の民にとって、地上で安全な場所というのは、人間のいない場所です。けれど、そこばかりを通り、そうでない場所を避けるわけにはまいりません。ですから、特に注意が必要な場所について正確に把握する必要があるのです」


 注意深い言葉だった。


 エヴァリードは俯く。


 神人と天空人が人間に攻撃を受けた時代のことを思うと、彼女は身が縮む。もし、イワン王が別の方向に決断していたのなら、地上の人間は空から報復を受けたのに違いない。空の民には、身を護る手段として、戦争を選ぶ道もあったはずなのだ。しかし、王はそうしなかった。自分たちを隠し、消し去ることで、互いの平和を護ろうとした。


 そうしてまで護られた世界を、彼女の父は破壊しようとしている。


 心の痛みに耐えるエヴァリードを、沈黙したままソーニャは見上げた。だが、やがて、口を開いた。


「エルダ姫。人間がすべて、あなたさまのような方であれば、私たちは隠れずともすむのでしょう。私たちのうち、人間を憎む者が、いないとはいえません。しかし、殺すことを王は望まれない。王の下された結論に従わない者など、このリベルラーシには一人として、おりません」


 ソーニャの声の響きにある温度が少し上がり、排していた感情がこもる。


「私たちには神から賜った使命があります。地上の気候を管理することは人間のためだけではありません。とりやめることはできないのです。けれど、そのために空人の命を危険に晒すわけにはいかない。私は、一人として見捨てない、王の心に叛くような真似は許さない。ですから、地候兵を一人でも見捨てられないのです。


 姫。私はイーヴァ山にもまいります。もちろん、決して見つからないように、行動するつもりです」


 エヴァリードの顔色が変わった。


(いけません! ソーニャ、行ってはいけません。あそこには、生ける屍が)


「危険は承知の上です」


(ソーニャ。相手は眠るときなどないのです。目を閉じて、あなたを見つけないときなど、ありません。そして人間ではなくなった者は空を飛ぶ力も持っています。この大陸にまではこられなくとも、あなたを見つけてしまうでしょう。もし、見つかってしまったら)


「エルダ姫。私には、あなたさまが、まだ、ご存知ない力もあるのですよ」


 ソーニャの美しい唇が笑みを浮かべた、そのとき。一瞬、黒い幕がエヴァリードの眼前を横切った。そして、ソーニャの姿が消えていた。


「……!」


 聖堂の中に風が吹く。


 ソーニャの姿はどこにもない。


 しかし、声だけは響く。


「いかがですか。殿下の『闇のマント』のようでございましょう。これを使えば、魔族にも見つかりはしません。ご安心くださいませ」


 再び黒い一線が横切り、ソーニャが現れた。


 その手には、『闇のマント』のようなものは何もない。目に見えない道具なのか。エヴァリードの心には、逆に不安が渦巻いている。


 それを敏感に察したらしく、警備隊隊長の瞳に、その肩書きに相応しい強さと自信がみなぎった。


「地候兵たちの持つ『風袋』に、『火炎銃』も持たされております。周囲の気候を操るほどの威力をもつ品でございますから、下級魔族の軍がどれほどの大軍であろうとも、最悪でも、逃れることくらいはできましょう。


 エルダ姫。あなたさまが危惧なさるのは当然ではありましょうが、私も、警備隊隊長を任されている器と自負しております。決してやすやすと倒れたりなどいたしません」


 怜悧な顔には、傲慢さなどうかがえない。日ごろからの十分な鍛錬と、妥協なき努力の積み重ねがあるからこその余裕なのだ。しかしエヴァリードは、そんなソーニャの自信に満ちた態度をもってしても安堵できなかった。


 しばらく黙っていたが、やがて首を振る。


 結局、エヴァリードには、これ以上、ソーニャを止めることも諌めることもできない。そんな権限はないのだ。イワン王が決めたのなら、それに従うしかない。彼女にできるのは、ただ、その無事を祈ることのみ。


(どうか、無事で)


「もとより、そのつもりです」


 終始一貫、落ちつきはらったソーニャの返答に、エヴァリードは頷いた。


 辞去する警備隊の女隊長を見送り、エヴァリードは深い息を吐いた。

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