女神の望み

第23話 嚮導者

 祭礼殿の床いっぱいに敷きつめられた織物の上に女性たちが寝かされていくのを見守りながら、イワンの心は揺れていた。


 春の女神を疑う気持ちなど、微塵もない。


 しかし、彼は恐れを拭い去れなかった。


 が、彼のもとから永遠に奪い去られた日。彼女が最後に告げた言葉。


“あなたの息子か、わたくしか。どちらかが、ここを去らねばならないの。本来、わたくしも息子も、ここにいるべきではないわ。でも、あなたはふたりとも手放せるほど奔放な心の持主ではない。そして、この子には、ここの空気が必要だわ。

 慈しみだけではない。醜いほどに強固で、悲しいほどに絶対的な、揺るぎない愛を手に入れてほしいの。わたくしのように”


 どうしてふたりとも、ここにいられないのか。イワンは叫ぶように尋ねた。


 彼女の答えは簡潔だった。


“ふたりとも、ここの生き物ではないから”


 その意味を、今は痛いほどに理解している。ただ、それでもボリスは神人だ。天空の子だ。


「女神よ……。あなたは私の妻だけでなく、息子まで連れ去るおつもりか」


 イワンには、この事態が、まるでボリスに新しい真の力を宿らせる儀式のような気がしていた。エルダを用いて。

 眠りつづける女性たちを寝かせている祭礼殿こそ、儀式の間であるようだ。


「陛下。女性たちは、これで全員です」


 神官の一人が告げた。

 重々しく王は頷く。


「では、王子とエルダ姫をここへ」


 不安を断ち切るように、彼は銀髪を振って身を翻し、祭礼殿の中央に向かった。


 円形の台が三つ、三角形に設えられている。その中央には漆黒の台座があり、巨大な火球石が浮いている。それは、『万能者オムネルトン』と対を成す、もうひとつの『天空の至宝』とも呼べるものだ。ただ、オムネルトンのように不思議な力を顕してはいない。しかし、天空の大地、リベルラーシの最下層である浮揚水を凍らせている火球石のなかでは、間違いなく最大級であり、オムネルトンよりも古い時代からリベルラーシを見守っている、聖なる石である。


 人々は、これを『嚮導者ウラベルトン』と呼ぶ。リベルラーシを形成したという、神の子どもたちが蹴り砕いて降り注いだ、燃える星。その一番大きな破片がこの石であると伝えられているからだ……。


 イワンは心を鎮め、ウラベルトンの放っている光にやわらかな注目をおくった。占術師が水晶球をのぞきこむように無垢な視線で、しかし断固として。だが、燃える星のかけらは、光のほかは何も見せてはくれなかった。


 三つの台のうちの一つに佇み、しばらくはウラベルトンの光を眺めていたが、やがて、心を落ちつかせるために目を閉じ、ただ、女性たちの目覚めを祈っていると、規則的な衣擦れの音と二人分の足音が聞こえた。目を開けて振り向いたイワンの前に、精悍な表情をした息子が佇んでいる。


 イワンは微笑に似た表情を浮かべた。


「ボリス」


 その後ろに控える、美しすぎる姫を見やる。彼女は、その整った顔に恐れも驕りも見せず、静かに王の命を待っていた。


 無言のまま、イワンは彼女に台座の一つに立つよう示した。

 寝かされた女性たちと、イワンと、それからエヴァリードの命に反応して、ウラベルトンは高熱を発し、祭礼殿の中は夏のように暑い。ところが、エヴァリードはウラベルトンに近づいても少しも熱がる素振りを見せず、汗ばみもしなかった。


「姫」


 イワンが呼びかけた、そのとき。

 イワンは袖のあたりに別の熱を感じた。


「──! 父上!」


「陛下!」


 神官たちがざわめく。

 蒼い光がイワンの袖口から放たれ、強い風とともに花びらを噴き出した。薔薇の花弁の嵐が起こり、あっという間にイワンとエヴァリードをそれぞれ包みこむ。渦巻く花びらに、二人は閉じこめられた。


「父上! エルダっ!」


 必死でボリスは二人に近づこうとしたが、花びらの竜巻は、周囲の人間を遠ざける。


 蒼く輝く、二本の柱と化した二人の姿に、誰もが息を呑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る