第24話 邂逅が思い出させる出会い

 かぐわしい香りを胸いっぱいに吸いこんで、イワンは目を開けた。


 空の中に浮かんでいるかのような、明るい空間が広がっている。雲ひとつなく、それでいて、太陽は見えない。これほど蒼く、明るいのに。そして風もない。馥郁とした薔薇の香りで満たされているというのに。


 澄みきった、静穏のみで充溢している場。


「ここは……」


 戸惑いながらも、彼はあたりを見渡した。

 人影は、ただのひとつもない。

 なんの人気もない。


 祭礼殿の中とは、もう思えなかった。


 ──みな、どこにいったのだろう。


 そう思ったとき、声がした。


「逢わせてやるよ、最後の神人にして天空の王。大神様のお許しもあったしね」


 あどけない、少年の声だった。

 だが、それは、サーシャのものではない。


「イワン……」


 次に背後から聞こえた声に、彼は硬直した。


「フィオ……」


 ゆっくりと、振りかえる。

 懐かしい、最愛のひとの姿があった。



 ──── † † † ────



 蒼い光が眩しすぎて、エヴァリードは目を開けていられなかった。蒼い薔薇は春の女神の象徴であるとボリスから聞いていなければ、恐怖を感じたかもしれない。


 頬を叩いては撫でていく、薔薇の花びらの柔らかさが、夢ではないと告げている。


 しかし、マーロウの気配すらないことに、彼女は気づいていた。つねに傍にいるはずのものがいないのは、心細いものだ。まして、ボリスの気配もないとあれば。


「エヴァリード」


 不意に呼ばれて、彼女は瞠目した。

 その声は女性であったが、彼女は自分の真の名で呼ばれることの意味を、忘れてはいない。

 全身が強張った。


「エヴァリード」


 しかし、目に入ってきたのは、父の姿ではなかった。


「ここでは、あなたの呪いも、魔法も、力を持ってはいませんよ、エヴァリード姫」


 声に香りがあるとすれば、それは朝、開いたばかりの薔薇の花。温度があるとすれば、それは春の昼下がりの日差し。感触があるとすれば、それは最上級のヴェルヴェットだった。心地よく、安らぎと祝福に満ちた。


 真珠のように優しい白で包まれている女性。

 エヴァリードは声の持ち主を、そう感じた。


「怯えなくともよいのです。ここにあるのは、あなたの感覚だけ。身体も魂も、天空城の、祭礼殿にあるのですから。あなたは五感だけを私のもとに運ばれたのです。ですから、声に出して話をしても、呪いは作動しません」


 そう言われても、すぐには躊躇いを消せなかった。とはいえ、彼女の美しい微笑の中の絶対的な平安が、エヴァリードの惧れを打ち消すまで、そう時間はかからなかった。


「あなたは……神の種族……でいらっしゃいますか」


 それは質問ではなく、確認だった。


「あなたは春の女神──」


「そのような大層なものではありません」


 柔らかな、しかし断固とした語調で、彼女はエヴァリードを遮った。


「春の女神は、もう遥か太古より、不在です。私は確かに、春の女神・フィオリスの眷属。ですが、女神自身とは切りはなされています」


「どういう意味なのですか」


「春の女神は、天上界の掟を破ったために、大神から罰を受け、封印されているのです。彼女は神として機能していない。ただ、四季を巡らせる力を残して。

 けれど、今、話すべきは、春の女神のことではありませんよ、エヴァリード」

「それは……」


 女神の眷属と名乗る女性は右手をあげ、エヴァリードの頬を撫でた。そっと、わが子に対するように愛しげに。

 思わず、エヴァリードは息をのむ。


「あなたが生まれるとき、私は女神たちに、あなたの美しさを願いました。その願いにもまして、美しくなりましたね、エヴァリード。アルフィディートから分け与えられた美貌は憎しみも呼んでしまったようだけれど、あなた自身は憎悪に汚されてはいない」


 エヴァリードの困惑を、彼女は敏感に察知し、右手を離した。


「……なぜ、私はここにいるのですか? 今、このときに」


 天空城で、空の民の女性たちを目覚めさせなくてはならない。エヴァリードが持つ魔力をつかって。そうしようとした、まさにそのときに、春の女神がエヴァリードを阻んだかのように思えたのだが。


「蒼い薔薇は、春の女神の象徴と聞きました。けれど、それが私を導き、こうしてお会いした、あなたは、女神自身ではないと仰います。私には、何がどうなっているものか、どういうことなのかが解らないのです」


「あなたをここに導いたのは……」


 彼女の表情が、とたんに翳った。


「女神の思し召しを示すためです。あなたに、女神の力を破らせるわけにはいきません。そんなことをすれば、大神の怒りを招きます。けれど、あなたを神人の王妃にするのには、徴が必要なのです」


「待ってください。何を……何のことなのですか?」


 混乱しきっているエヴァリードの様子に、彼女は微笑をもって返答した。あたたかく、揺るぎない確信に満ちた。しかし、瞳は真剣そのものだ。


 静かな声は躊躇なく響く。


「つまり、天空人の女性たちが目覚めのない眠りについたのは、ある神のなしたことなのです。そして、それは、あなたをボリス王子の妃にするための一手。天空人の間に叛乱や抵抗を起こさず、人間であるあなたが神人の妻になれるよう。

 あなたとボリス王子の婚姻こそ、神の望みであるからです」


「何故──? それは、何故なのですか?」


「リベルラーシの王子妃は、あなたでなければならないからです。

あなたではない者には、ボリス王子の御子を生むための大切な資質が備わっていない」


 そう言って、すぐ、彼女は語りすぎた、という顔をした。

「──いえ、すべては神託です。神の意思を、大地の生きものが、知る必要はありません。神託に逆らおうとも、さだめに反することなどできないのですから。

 エヴァリード。あなたには、ボリス王子の妃となることに否はありませんね」


「はい」


 そう答えながらも、エヴァリードは彼女の言葉で心に影がさすのを感じた。

 神託。その内容が語られないことに、不安がよぎる。


 その思いを、彼女は察知したらしい。両手をのばし、エヴァリードの頬を両側から包んだ。やわらかで、あたたかい、羽毛に包まれたかのような感触。

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