第22話 マーロウの懸念
眠りつづける女性たちを祭礼殿に運んでくる間、イワンはエヴァリードに休むように命じた。長旅から帰ってきたばかりの彼女が疲れを少しでも癒し、回復するようにと。
そして、ボリスはエヴァリードに懇願され、自室の寝台に横たわった。しかし、とても眠れそうになかった。
「殿下」
不意に思いがけない相手に呼びかけられ、ボリスは驚きに身を起こす。
「マーロウ? どうした。エルダに何かあったのか」
黒猫は、どうやら笑ったらしかった。
「いいえ。我が主は、お休みのはずです。私はあなたさまに、お話ししたいことが」
「そうか。聞こう」
マーロウは、ふっと眼を細めた。黄金の瞳に鋭い光が瞬く。
「我が主の父君の命を、お取り上げなさるのは、どうか性急になさいませんよう」
ボリスは自分の顔が強ばるのを自覚し、一瞬、息を止めた。
「・・・・・・どういうことだ?」
マーロウは、表情を変えない。
「・・・・・・少なくとも、呪いを解くより先には、お控えください」
「だから、それは何故だ?」
マーロウのひげが揺れる。
彼女は、なにかを言おうとして、やめた。
そしてかわりに答えた。
「我が主には、呪いのほかに、魔法もかけられているのです。それは父君にしか解けない魔法です。そして解いてはならない魔法なのです」
「どういうことだ」
先刻よりも強い語調となった。
ボリスの全身から、王族の威風がはなたれる。マーロウは心の奥で戦慄いた。
「我が主は、何もご存知ではありません。あの方は……魔法で病を封じられた……。けれど、それは、消し去ったのではないのです。魔法を解けば、死の病が戻ります。父君が倒れた場合も、同様に」
ボリスは眉間から力を抜いた。
「……そうか。だが、病ならば、僕が癒せる。心配するな」
しかし、マーロウは首を縦には振らなかった。
彼女は明らかに何かを言おうとして、言えずにいる。口にしたくないのか、それとも出来ないのか、それはボリスには判らなかったが、ただ、彼は出来るなら、邪王を殺さずに救えないものかとも考えていた。
「マーロウ。僕は、できることならエルダの父君を殺したくはない。魔物から解きはなってさしあげられたら、と思っている。エルダには、ああ言ったが……それは……最後の手段だ。それでもいいか?」
黒猫は俯いた。
いまは、まだ、それ以上は言えなかった。
「ありがとうございます、殿下」
それだけを、やっと述べるに留まった。
そうして静かに辞去したマーロウの言葉を反芻しつつ、彼はさしあたっての不安──現在の状況──について、ふたたび考えをめぐらせた。
エヴァリードの魔力が、女神によって眠らされている人々を、本当に目覚めさせられるのかどうか、わからない。リジアは、女神がエヴァリードの生存を望んでいると言ったが、彼は、この占術師の言を微塵も信じていない。
ただ、もし、彼女の歌が女神の力を破ったとしたら、それもまた、懸念の種だ。人々は神の力をも退ける彼女を、よりいっそう危険視するかもしれない。
彼はそれを思いつき、青ざめた。
無意識に起き上がり、寝具のまま部屋を飛び出す。
「エ……エルダ!」
貴賓室に飛びこむと、膝の上に眠りこけているサーシャの頭をのせたエヴァリードが顔を上げた。
最近、ずっと熟睡していなかったサーシャが彼女から離れたがらず、甘えているうちに眠ってしまったらしい。ボリスは一瞬、その光景に苦笑いをもらしたが、すぐにここに来た理由を思い出した。
「エルダ……」
(はい)
彼女は何かを察し、静かに、ゆっくりとサーシャの頭を持ち上げた。そして彼を起こさないように椅子の上に横たわらせる。
「エルダ」
待ちきれず、まだ背を向けている彼女の腕をとり、抱きしめた。
エヴァリードは、心でも無言のまま、ボリスの胸に顔を埋め、おもいきり彼の匂いを吸いこんだ。
柔らかなぬくもりが、彼の動揺を収めていく。
(なにを心配してくださっていますの?)
やがて彼女の心が、そう訊いてきた。
「心配? なぜ?」
思わず彼は、そう言っていた。本当なら、エヴァリードが一番、恐怖を感じているだろう。それを助長させてはならないと気づいたのだ。
(鼓動が速くなっています。それだけでなく、速度が安定していませんわ。何か、気にかかっていることが、おありなのでしょう?)
瞳の奥に、憂慮がある。
ボリスは微笑んだ。
「きみが腕の中にいれば、鼓動が早くても不思議はない」
たちまちエヴァリードの頬に赤みがのぼる。彼女は羞ずかしげに目を伏せ、ボリスの胸に顔を埋めた。
静かな空気の中で、ふたりは緊張を忘れた。
互いのぬくもりのなかにあれば、心は穏やかに晴れ渡る。不安も、恐れも、胸を灼く痛ましい記憶すら、安らぎが拭い去る。
ボリスは、上げられたエヴァリードの顔を見た。そこには、晴れわたる二つの空が、彼を包みこむ無限の宇宙がある。そこに映る自分の顔が、恍惚と彼女を見つめている。
腕の中で溶けそうなまでに儚げでありながら、たしかな力で抱きかえしてくるエヴァリードを、ボリスはふわりと抱きあげた。サーシャと変わらぬくらい軽い。
華奢な身体を、やわらかな寝台の羽毛入れの上に横たわらせる。金色の髪が広がり、あちこちで瞬いた。
細い腕が首筋をくすぐりながらおりていく。指先がボリスの銀の髪を撫で下ろし、結っていた革紐が解けて、輝く天蓋となってエヴァリードを覆った。
「エルダ……」
冷たいシルクのような銀髪に頬を包まれ、エヴァリードが目を閉じる。
絶対的な信頼。
その無防備さに、受容性に、そして何よりも揺るがぬ強固なほどの愛に、彼は圧倒された。
無言の会話は、互いを知りつくそうと熱中する。
銀の流星が金の天河に流れこみ、混じりあう。
エヴァリードの心から迸る、たったひとつの言葉に、彼は胸を打たれた。
それは無意識に放たれ、心の奥底までさらけだす。はじめは訴えかけていた言葉は次第に変化し、願いへと移っていった。
ボリスから発される熱と、優しい囁きが、エヴァリードをあたため、とろかせる。あまりにも強く湧きあがる感情と欲求に、彼女は叫びそうになった。
──どうか放さないで。離れないで。
それは神託よりも厳かで、鮮烈な言葉だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます