第13話 懸念

「エルダさま、ボリスさまが」


 駆け寄って肩をかしながら、サーシャはエルダに訴えた。彼女は小さく頷く。


 ──エルダさまは、わかっていらっしゃるんだ。


 サーシャは直感的に、そう思った。彼女には、なにが起こっているのかも、どうすればよいのかも、わかっているのだ、と。

 たちまち深い安堵が彼を包む。

 いち早く寝台のところに着いたマーロウが、シーツの上に飛び乗った。


 よろけながらもサーシャに支えられてエルダがボリスのそばに行きついたとき、入口に数人が現れた。


「エルダ姫……!」


 フョードル、エリン、ナボコフ、ペトロフ、それにイワン。

 全員が、驚きの目でエルダを見ていた。

 それも無理はない。彼女は、死んでいてもおかしくないほどの傷を負っていたのだ。いかにボリスの『光と闇の癒し』でも、完全には死を祓うことができそうにないくらい。


「お目覚めになられましたのね」


 エリンの歓喜の声が空気を明るく、軽くしたが、エルダの両目にある深い影は暗い。

 サーシャは、そっとエルダの手を抜け出て、壁際から椅子をとって寝台の傍らに置いた。


 黙ったまま、エルダが『宝殿指環』から『声読みの本』を取りだす。


(ありがとう、サーシャ)


 黄金の文字を読んだ少年は、嬉しげな笑みを浮かべた。


「姫、何をなさるおつもりです」


 強張った大臣の声がエルダを叩く。

 しかし、エルダがそれに答える前に、国王の威厳に満ちた声が響いた。


「エルダ姫、気づかいは無用だ。そなたの選択を私は信頼している。凡て任せよう」


「陛下……」


 ナボコフは絶句した。

「しかし、陛下。私が陛下に殿下の寝室においでいただくよう進言いたしましたのは、この姫に殿下の治療を行わせるためではございません。ことの状況から、この香木が効き目をもたなかった場合に備えて、一刻も早く、祈祷を命じていただけるようにと」


「フョードル。姫は私を呪いから救ったのだ。ボリスをも、救うことができるはず。祈祷は後で良い」


 静かな声に、侍医の頭はうなだれた。それを鋭い眼でペトロフが見ている。


「姫、なにをしようとも、我々は口出しをせぬゆえ、安心されよ」


 深々と、エルダは敬礼した。


「エルダさま……」


 まだ快復しきっていない彼女は、ふらつきながら敬礼をしたが、サーシャがすぐに手をのばして支えたので、転倒せずに済んだ。

 エルダは椅子に腰を下ろすと、サーシャに本を預けた。そして、両手でボリスの左手をつつむ。


 マーロウが、ふたたびボリスの胸の上で身を丸めた。イワンの悪夢に入るときと、まったく同じだった。


「エルダさま、ボリスさまの夢に?」


 サーシャが問いかけたが、エルダは答えなかった。彼女は両目を閉じ、意識を集中させている。

 まだ血色の薄い唇が開き、なめらかで美しい歌声が流れ出た。



 ──── † † † ────



 ……つまり、ボリスはエリンにサーシャを呼びに行かせた直後から、悪夢にのみこまれていたのだ。エリンがターニャの部屋にサーシャがいないと知り、ウルピノンのところまで行っているあいだ、彼が現実だと思っていたことは、すべて夢だった。だからこそ、あんな状態にもかかわらず、侍医たちを下がらせるために健康を装うこともできたのかもしれない。


 となると、エルダと交わした初めての口づけも、夢だったことになる。


 ボリスは、軽い落胆を隠すのに苦労をした。


(けれど、ボリスさまも、私を助けてくださいました)


 エルダがふわりと微笑んで、言った。


「え?」


(私も、悪夢に囚われていたのです、少しのあいだ。でも、ボリスさまのお声がして、私の胸の奥から光が現れて……悪夢から解放されました)


「だが、僕は何もしていない」


「でも、お心が強く、姫君をお呼びになったのでしょう。それが通じたのかもしれませんわ」


 エリンの言葉に、ふたりとも、頬を紅潮させた。


「ねえ、じゃあ、ふたりとも、陛下の悪夢を操っていた魔法に近づきすぎて、その残りのカケラみたいなものにつかまってたんだね」


 ボリスの寝台の端に頬杖をついているサーシャが、あどけない目で主人とエルダを見る。


「ああ……魔力の残滓とでもいえばいいのかな……。健康を奪い、体力が落ちたところで夢を操る魔法。ただ、気になるのは操っていた当人と、夢の中では会っていないことだ。なのに、どうして悪夢の中からなかなか抜け出せなかったのだろう」


「それは、殿下が魔物の恐怖心と同調していたからでしょう。それも、かなりの精密さで、深く。我が主の死という、恐怖に」


「マ、マーロウ?」


「そっか。ボリスさま、ものすごいうなされてたもんね。よっぽど怖かったんだね。ぼくも、そんな夢を見ちゃったら、きっと、すっごく泣いちゃうと思う」


 真っ赤になったエルダに、サーシャがしっかり抱きついた。ボリスは絶句して、やはり頬を染めている。


「……それは、また、どうしてですの? 魔物にとって、姫君は生きていてくださらなくては恐ろしいなんて、まるで……」


 エリンは、はっと口をつぐんだ。

 エルダが俯き、ボリスは険しい顔をする。


「まさか……このたびの陛下を襲った魔物というのは……」


「エルダの父上の手のものだろう。だとしても、エルダに責は無い。彼女はむしろ、今回の一番の被害者だ」


「それは……わかっておりますわ。けれど、このままでは……」


「ああ。考えなくてはならないな、色々と」


 エルダが顔をあげ、ボリスを見つめる。

 ボリスは手をのばし、その手をそっと握った。


「近々、父上と皆と、話をしよう。エルダは何も心配するな。誰にも口出しはさせない」


 しかし、エリンの顔はもちろん、エルダの顔も晴れなかった。



 ──── † † † ────



 ボリスはまず、父王とペトロフだけを相手に詳しく話をした。


 今回、イワンを襲ったのはエルダの父親に仕えている魔物であり、その目的はおそらくエルダの奪回と、天空城の覇権を握ること。そのために国王に呪いをかけ、エルダをおびき出すとともに国王の身体を思うがままに操ろうとしたと思われる。


 推測も多く、断言はできないが、エルダが天空城にいるかもしれないと彼らが考えていることだけは確かだ。


 ボリスの言葉に、イワンは動じることなく頷いた。


「あの魔物は、私が姫の存在を知らぬかどうかを尋ねてきた。間違いなく、姫の父君の、使い魔であろう」


「……そうでしたか」


「なんということでしょう。ということは、ますますもって、わが国は狙われるというものです」


「すまぬ。私が姿を見られた上に、呪いをかけられたせいで、あちらにこちらの存在を知られてしまった。もう、伝説上の生きものとして地上で通用しないだろう」


 ペトロフは眉間にしわを寄せた。


「なにを仰せです、それならば、あの魔物に出会っていたのは私でしたかもしれませぬ。陛下がご無事に戻ってきてくだされば、用心することはあれども、皆、恐れはしません」


「父上。僕にも、エルダを護りきれなかった責任があります」


「……いや、私が迂闊だったのだ。あのような形で城を出てはならなかった。私は冷静さを欠いていたのだ。しかし……今となっては悔やんでも遅い」


「そうです。もう、お気になさいますな。それよりも、どう奴らを迎え撃つかです。いかに神の結界があるとはいえ、魔鳥の例もございます。万一に備え、策を練っておかねば。更なる防御も施すべきです」


 ボリスは、将軍が父王はもちろん、エルダについても問責するような態度や言葉を出さないのに感激した。正直なところ、彼はペトロフがエルダを非難することも想定していたのだった。

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