第12話 やさしい目覚め

 ──どうか目覚めて。私たちの愛しい方よ。

 私たちの呼び声が、あなたに届きますよう。


 悪夢よ、去りなさい。

 いますぐ去りなさい。


 そして優しい夢が、あなたを起こしてくださいますよう。

 私たちの呼び声が、あなたに届きますよう。


 そして目覚めて。

 どうか目覚めて。

 あなたの目が、声が、微笑が、

 私たちに、無上の喜びをもたらす。

 どうか目覚めて、愛しい方よ。


「……エルダ?」


 ボリスは少しだけ戸惑った。自分の胸の中にいるはずの、彼女の声。それは頭上から、降り注いでくるように聴こえた。


 エルダの魂が眠っているはずの、胸の奥。そこは確かに熱く、彼女のぬくもりを感じる。しかし、もう、その熱を彼女そのものだとは思えなかった。


「……殿下」


 はっと振り向くと、そこにはしなやかな黒猫が座っていた。きらきらと輝く黄金の瞳。


「マーロウ!」


「あなたさまの夢は、陛下の夢よりもずっと現実味があり、恐ろしかった。でも、もう大丈夫ですよ。あの方の声だけを聴いて、目を閉じてください。あなたさまには、いつ目を開ければ良いか、きっとわかります」


「ありがとう。君、ずっと傍にいてくれたのだね」


「お傍におりましたのは、わたしというよりも、あの方ですよ」


 ボリスは心の底から全身くまなく安堵感に包まれて、両目を閉じた。やわらかい、綺麗な歌声だけに耳を傾ける。すると、渦を巻く風に包まれた。


 ばたばたと耳元で音がしたが、ボリスは微塵も疑いを持たなかった。決して目を開けず、そのときが来るのを待った。

 自分で空を飛ぶのとは明らかに違う高揚感が彼の胸に湧きあがった。満開の花の香り。春の空を舞うときの、あのすがすがしい空気が全身をくすぐる。


 エルダの歌声が、彼の全身を蕩かせた。


 身震いするほどの恍惚。

 やがて、風の音が止むと、歌声も静かに、低くなっていった。そして、いつのまにか、彼の左手が、なにかにしっかりと包まれていた。ひんやりとして、やわらかい、なめらかな感触。


 彼は目を開けた。


 そのとたん、頬に暖かい露が落ちてきて、彼はまばたきをして首を横に動かした。視界が揺らめいていたのが収まると、すぐそばに愛しい顔が浮いていた。


「……エルダ」


 右手を上げ、濡れた頬をつつむ。頬は氷のように冷たいのに、その涙は熱かった。


 エルダの唇が、ボリスさま、と動く。


「今度は僕が、悪夢に捕まっていたのか」

 かすれて弱々しい声に、ボリス自身が驚いた。


「……でも、君は常に僕の悪夢を、“優しい幸せな夢”にしようとしてくれていたのだね。それなのに僕は耳を閉ざしていた。君の本当の声と、自分自身の恐怖の声を聞き分けられなかった。そんな僕のために、ずっと歌っていてくれて、ありがとう」


 エルダの両目から、大粒の涙がしたたる。

 ボリスは左手をエルダの両手からそっとぬき、彼女の首筋から背中に伸ばして、抱き寄せた。つややかで柔らかい、淡い金髪の中に顔を埋める。夢の最後に感じた、満開の花の香りが鼻腔をくすぐった。


 そのときボリスは凡ての恐れも疑問も忘れ、ただエルダの髪と肌のなめらかさだけを感じていた。



 ──── † † † ────



 ウルピノンのところからサーシャを連れてきたエリンが、ボリスのベッドが空になっているのを見て慌てて貴賓室に行くと、彼女の主人はエルダの寝台の脇に倒れていた。


 ひどい顔色で、うわごとのようにエルダの名を繰り返している彼を急いで寝室まで運ばせ、フョードルを呼んだが、彼の処方した気付け薬にも効果はなかった。


 充分に快復をしていなかったにもかかわらず、無茶をして倒れた彼の暴走ぶりを憂いたエリンは、彼を諫めることを難なくできる国王に嘆願しようと部屋を出た。そこに、サーシャが来た。


「エリンさま……」


 彼は、少し青ざめた不安げな表情でエリンを見上げる。

「エルダさまが、とても苦しそうなんです。お顔の色も、真っ青で。でも、揺すっても、起きてくださらなくて……」

 すがりつくような目をしている。

 しかし、エリンの心もサーシャと大差ない状態だった。


「殿下も同じです。サーシャ。私が戻るまで、殿下のおそばにいらっしゃい。わかりましたね」


 早口でそう言いつけると、エリンは慌てふためきながら廊下に駆け出していった。


 残されたサーシャは、寝台の上でうなされているボリスのそばに近寄った。フョードルが置いていった気付け薬の空き瓶が枕元に立ててある。役に立たなかった侍医の頭が更に強力な気付け効果のある香木を薬品庫に探しに行ってしまってから、エリンがそれを片づけなかったことは、驚きだった。彼女ほど、行き届いた女官でも、今はまったく冷静さを欠いている。


 サーシャは寝台の脇にひざまずき、若い主人の顔を見つめる。


 秀でた額に汗の粒が浮き、眉間に深いしわが刻まれている。顔色は青ざめ、息は浅くて荒い。エルダと同じだ。


「ボリスさま……」


 そっと、小さな声で呼びかけた。

 しかし、それが聞こえたような気配はない。苦しげな呻きが唇からもれた。


「ボリスさま」


「エルダ……!」


 呼びかけたサーシャの声は、ボリスの必死の叫びにかき消された。

 絶望、苦痛、悲歎の声。

 驚いて、サーシャは一歩、下がる。

 彼の激しい苦しみように、部屋全体が震えて揺れるかのように思えた。


「うそだ……! エルダ!」


 ボリスが身をよじる。


「ボリスさま!」


 激しい苦悶の姿に恐怖心をこらえながら、サーシャは王子に飛びついた。その広い肩をおさえて、身をそらせる彼が寝台から転がり落ちるのを止める。

 サーシャは心の中で助けを求めた。


 ──姉さん、エリンさま、陛下、たすけて。ボリスさまが死んじゃう。


 苦しみにもがくボリスにしがみつき、少年は歯を食いしばって恐怖に耐えた。


 ──たすけて。エルダさま!


 強く、サーシャが心でエルダを呼んだ瞬間、ボリスが突然、力を抜いた。ぐったりとして、呼吸は乱れたままだが、力尽きたように横たわっている。

 サーシャは身を起こすと、そっとボリスの額に手をあてた。熱があるかと思うほど熱い。


 ──どうしよう。


 サーシャはうろたえた。

 まだ、エリンもフョードルも、戻ってこない。そして、侍女や侍従たちも、誰も来ない。こんなことは初めてだった。ボリスの様子がおかしいのに、そばにはサーシャしかいないとは。


 熱くなっているボリスの額を冷やす水とタオルが要る。それを取りに行くべきか、それとも留まるべきか、サーシャは迷った。


 大声で呼べば、誰かが来るだろう。しかし、熱に浮かされている者の横でそれはできない。


 彼はもう一度、主人の顔を見た。

 額から汗が流れ落ち、苦しげに眉が歪んでいる。苦しげな息の下で、唇はひとりの名を呼んでいる。

 ふと、サーシャは思った。


 ──エルダさまは?


 そう思った瞬間、背後から衣擦れの音がした。

 ぱっと振り向いたその先に、痛みをこらえるように胸にこぶしをあてたエルダがたたずんでいる。


「エルダさま!」


 喜びの声をあげたサーシャに、弱々しげな微笑が応えた。

 エルダの後ろから、しなやかな黒猫が現れる。


「マーロウ……。よかった、もう、大丈夫なの?」


 黒猫は、小さく鳴き声をあげた。

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