全能者

第11話 オムネルトンの姿

 王子の暴走は密やかに、しかし迅速に国王に報告された。エリンはボリスのためだけを考え、大臣や将軍には何も告げず、直接イワンに上奏した。彼は愛息の乱心を聞いて眉をひそめたが、それは憂慮や苦悶のあらわれには見えなかった。


 エリンの心臓は不安ではじけそうになっている。


「……それで、そなたは私にどうせよというのだ」


 エリンは耳を疑った。

「へ、陛下! それでは殿下をこのまま放っておかれるおつもりですか」


「ボリスには何か信ずるところがあるのだろう。それを知らずに妨げるわけにはゆかぬのではないか」


 静かで穏やかな声だったが、その響きは、エリンに違和感を持たせた。


「……では……このまま、殿下が望まれるままになさるのですか」

「エリン。みなは私の妃について何も知らぬ。だが、もしも神が彼女を私にお返しくださるという可能性があったなら、みなを不安にさせてでも、神族との交渉に熱を入れたに違いない」


「陛下……」


 エリンは絶句した。

「ただ、このままでは騒ぎになるだろう。これ以上、みなを恐れさせたり混乱させたりすることは避けなければならない。

 エリン、ペトロフとナボコフを呼びなさい。それから、ひきつづき、エルダ姫の部屋にはくれぐれも近寄らぬようにと、みなに伝えなさい。何人たりとも、ボリスの言行に口出しは無用。よいな」


 優しくありながら、決して反駁を許さないイワンの命令に、エリンは戸惑いつつも承諾した。



 ──── † † † ────



「万物の王、セテカローナ。天と地をわけたる者にして、神々の女王。その尊名において我は命じるものなり。目覚めよ、全能者オムネルトン


 床の下で眠る巨大な球体の虹水晶を目覚めさせる呪文。それを知っているのは、今ではイワンとボリスだけである。それは古語だ。オムネルトンは古語にしか反応しない。そして、古語を語学として身につけているのは、国王父子と占術師リジアのみとなってしまっている。


 まばゆい光を放った床をすりぬけるようにしてオムネルトンが現れる。ばら色を帯びた黄金の台座に鎮座する、虹水晶。ほれぼれするような、見事なその光沢の表面に、ボリスの姿が映っている。完璧な球体は美しい輝きを放っていた。


 高鳴る胸をおさえ、ボリスは深く呼吸する。そして、虹水晶に命じた。


「我が願いを叶えよ、オムネルトン。神々のもとに、信号の光を送れ」


 威厳に満ちたその声に、しかし、虹水晶は反応しなかった。

「オムネルトン」

 もう一度、呼びかける。

「オムネルトン?」

 虹水晶は、ゆるやかな律動で点滅をしている。その光は時に大きく、時に小さく明滅した。


「オムネルトン、神々の住む天上界に、信号の光を送れ」


 もう一度、確かな発音で命じた、その瞬間。空気がわずかに振動した。

「……オムネルトン……!」

 ボリスは息をのむ。

 虹水晶の球体の中に、人影が浮かんでいた。


「あなたは……」


 霧をまとっているように朧な影。


 もっとよく見ようと、ボリスが虹水晶の表面に両手を伸ばした途端。静電気のような電流が彼の両手に走った。そして、次の瞬間には弾き飛ばされ、彼は床に背中を叩きつけられていた。

 呼吸が数秒間、止まった。

「……!」


 ──愚かな若者よ。


 深い、陰鬱な声がボリスの耳を叩く。


 ──警告を拒み、禁を破ってまで何をわたしに望む。


「あなたは……神々の一員ですか……」

 痛みをこらえて、かすれ声をしぼりだす。


 ──ちがう。しかし、そうとも言える。


「どういうことです」


 ──わたしは神の肉体を持たない。ゆえに神ではない。しかし、神の名と力は持つ。ゆえに神であるとも言える。


「つまり……神と同質ではあるけれど、神族ではないのですね」


 ──その表現は正解といってよかろう。だが、真理ではない。わたしは神と完全に同質なわけではない。

 ボリスは、そのことで議論する気はなかった。そこで、すぐに本題に入った。

「あなたの名は、なんとおっしゃるのです」


 ──そなたも知っている。わたしはオムネルトン。永きにわたって空の民を護ってきた、天空の守護者。


「私が警告を拒み、禁を破ったと仰せでしたが、何故です」


 ──なぜ? わからぬと申すか。


 影を覆っていた霧のような曇りが薄れた。

 ボリスは驚きに声を失った。

 現れたのは、まっすぐな長い黒髪に虹色の瞳をした美しい女性の姿だった。一本たりとも乱れていない髪の光沢は若々しいが、その本体である虹水晶とまったく同じ色合いをした両眼は、時間を貫きそうなほど深い英知と厳格さで満ちていた。その美しさには隙がなく、親しみも覚えがたい。近寄りがたいほどに巧緻な美貌だった。


 ──わたしは、空の民すべてを護るもの。一個人の利益には力を貸さぬ。一人を救うのならば、その者の存在による公益が明らかでなくてはならぬ。おまえの父は国王。救うための条件は揃っていた。しかし、おまえには父親。そして、わたしが過去を見せるまでもなく、事態を掌握できる者はいた。


「そんなことを説明させようとしたのではない!」


 ──何を言う。わたしにはこの大陸に住まうものすべてを護る義務があるのだ。ゆえに、迫害されうる者がもつ情報や能力をつぶしてまで、なにを護れというのだ。


「それが、今の僕の願いを退けることと、どういう関連があるのです!?」


 ──その娘を救うには、神の力が要る。しかし、娘は望んでいない。この国の民もだ。そして、神々も望まないだろう。娘の生存を願うのは、神の中にひとり。神人の中にひとり。天空人の中にひとり。空人の中にひとり。人間の中にひとり。動物の中にひとり。そして、魔族の中にひとり。だが、当の本人は永遠の死を望んでいる。輪廻すらない、死を。


「うそだ!」


 ──そう、心から欲しているのではない。しかし、そう望まなければ、立ち行かぬのだ。そして、それは理にかなっている。よいか、天空の王子。その娘を無理に生かすことは、生死の理を乱し、破壊しかねない。むろん、生かすことは世界にとって有益だ。しかし、この上なく邪悪なことでもある。聖なるもののために邪悪を利用することはならぬ。


「おっしゃることの意図を理解できません」


 ──混乱したか。無理もない。だが、これ以上は語れぬ。その娘の死によって、われらにも恐るべき打撃はある。それでも譲れぬ。魔王がそれを愉しんでいるとしてもだ。


「魔王? どういうことです。彼女の父上と関わっているのですか」


 ──魔王の狙いは、そなたらが考えておるものとは別のところにある。だからこそ、われらは生死を逆らわせるわけにいかぬのだ。だが、死を受け入れれば生に逆らうこととなる……。しかし、死を除いても、生を取りもどすことは困難だ。


 オムネルトンの美しい顔に、初めて生きものらしいものが浮かんだ。苦悩という名の。


 ──神々は、数年前から協議を重ねている。だが、結論は出ぬ。すべてを解決する良策はない。必ず阻むものがある。おまえの願いも同じことだ。

 よいか、今のわたしの言葉は、今のおまえの願いに対する答えではない。おまえはあちこちを飛びまわりすぎた。悪夢を振り払おうと、無意識にわたしの手の内まで来るとは、さすがにフィオとイワンの息子だ。


「フィオ……? それは僕の」


 ──よい、忘れよ。さあ、そろそろ戻るが良い。おまえの胸の中におる娘が心配している。彼女はおまえを待っておるぞ。今は、おまえの願いを聞くときではない。その悪夢はわたしが引き受けた。いかに人間から生まれた魔物の法術にせよ、侮るべきではないな。おまえが最も恐れるものに囚われたのだ。いや……彼が恐れていたものに……か。


「オムネルトン……?」


 ──念を押しておこう。おまえの願いは、生死の理に背くこと。しかし、このわたしも願っておることでもある。ゆえに今はなにも恐れるな。そして、このことは忘れよ。悪夢は目覚めた後にまで抱えることはない。さあ、その耳を覆っている恐怖を外そう。聞こえるはずだ。現実の声が。


 オムネルトンがさしのべた右の手のひらから、虹色の輝く光の珠がふたつ、ボリスのほうへ飛んできた。そして、彼の両耳に飛びこみ、ぱちんと弾ける。


 衝撃に目を閉じて、再び開くと、巨大な虹水晶の中にあった女性は消えていた。そして代わりに、懐かしく、愛しい歌声が聴こえてきた。

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