第10話 混乱の王子

 ウルピノンの竜としての力は王族にも匹敵している。


 危険を察知し、邪悪を感知する能力は群を抜いていて、ときには目を向けていない場所に潜んでいるそれらを暴き、祓うこともできる。けれども、竜であるがゆえに、それらを密かに解決することができない。


 彼らの持つ破魔の力は、その強靭な肉体や、火炎に宿っている。戦うことで邪悪を祓うために、その行為には常に破壊がともなう。そして悲運なことに、彼らがもつ癒しの力は強いものではない。生命力が強い代わり、治癒力は弱いのだ。傷つくことが少ないために、逆に傷を治す能力に劣るのである。そして、それの対象は自らの肉体だけではない。


 ウルピノンは、やむをえず、サーシャを呼んだ。この少年は、稀に見る『癒し』の能力をもつ。それは傷を治すとか病魔を祓うといった種類のものではないが、周囲を和ませ、雰囲気をやわらげるといった力は不世出なほどに思えた。


「ウルピノン? ぼくを呼んでるってきいたけど」


 あどけない声を聴いたとき、彼の胸は、少し痛んだ。

 良い知らせではない。だが、たとえ幼くとも、竜である自分が感じたものを伝えなくてはならない。それには、この少年でなくてはならないのだ。ほかのものは、彼ほど純粋ではない。


「ウルピノン?」


 人間の姫は、生きてはいない。完全な死ではないにしろ、彼女をいとおしんでいる者にとっては、つらいことだろう。

 それから、ボリスの命も危険だ。彼は相当な無茶をしていて、肉体が弱まっている。精神的な打撃をうけただけで、魂が肉体から離れかねないほど、心身が痛んでいるだろう。だからこそ、彼の身近にいる者であるサーシャに忠告をしておくべきだった。


 しかし、ウルピノンがエルダのことをきりだそうとしている最中に、侍医とエリンが前後して飛びこんできた。そして、侍医によってエルダとボリスの現在の状態が知らされ、エリンによってサーシャが連れ出されてしまった。


 ウルピノンは仕方なく、竜の持つ感覚を最大限に働かせた。


 ボリスは死なないだろう、エルダの死が真の死ではないことを知れば。そして、エルダは、おそらく戻ってくる。


 子どもでなければ、ウルピノンには、もっと正確に事態を把握できただろう。希望的観測にならずにすんだに違いない。けれども、彼は、まだ幼かった。そして、ここにいる人々を愛していた。人間であるエルダを含めて。



 ──── † † † ────



 ボリスは、エルダの寝台の横で目を覚ました。胸の中が熱く、かすかに脈動を感じる。目を閉じると感覚が強くなり、なんともいえない安心感があふれた。


 ──エルダは、ここにいる。


 ボリスには解っていた。エルダが残した言葉のとおり、彼女の存在を感じることはできた。ただ、彼女の心が放つはずの声が聞こえない。ただ、それも彼は覚悟をしていた。


 エルダの身体が横たわる寝台を見下ろして、ボリスは彼女の手に触れた。


「……エルダ……」


 その手の先にある、かたくまぶたを閉じた顔と、胸の中に感じる彼女の魂に呼びかける。すると、不思議に彼女の脈動を強く感じた。


 体から、あの倦怠感と無力感、そして不快感が消えている。それに気づいたのと同時に扉を叩く音が聞こえた。


「だれだ」


 扉が細く開いて現れたのは、エリンだった。

「殿下。陛下がお呼びでございます。その……姫君の葬礼に関して……」


「その必要はない」


 ボリスが微笑んだのを見て、エリンの顔から血の気が引いた。

 王子が正気を失ったものと思い、彼女は動転したが、彼はそれに気づかぬふりをした。


「エルダは死んでいない。いや、死んでいると思えるが、まだ魂が黄泉に行っていないのだ。だから、まだ間に合う」


「殿下……!」


 エリンが駆け寄ってきて、ひしとボリスの両手にすがった。

「どうか、お気をたしかに」

「エリン。僕は正気だ」


 さすがにボリスは彼女に気圧された。


「ああ……それほどまでにエルダさまを愛しておいででしたのね……。ですが、しっかりなさいませ。残酷なようですが、殿下は、ただおひとりの王位継承者。わが国の次期国王であらせられます。国民たちの生命と生活を背負っておいでなのですから、悲しみに心を囚われてはならないのです」


「エリン」


 ボリスは優しく遮ったが、彼女は震え上がった。


まあ、おやめください。そのように赤子をなだめるような。姫君は、わたくしどもで丁重にお見送りいたします」

「だから、エリン。その必要はないのだ。彼女なら、ここで生きている」


 ボリスは自らの胸に右手をあてがい、力強く断言した。ところが、その様子を見てエリンはますます憂愁を濃くした。


「ここに、僕の身体の中に、エルダの魂が眠っている。ここからエルダの身体に魂を戻せばいいだけだ。僕らではそれは力の及ばないことだが、神族に頼むことさえできれば、聞きいれていただければ、それも叶う!」


 ボリスが語れば語るほど、賢明な女官の表情は悲愴さを増していった。彼女は青ざめ、たわごとをまくしたてる息子でも見ているような目つきで彼を見上げている。やがて彼女は穏やかに、しかし断固として言った。


「殿下。殿下がいま、どれほどの悲しみに苦しんでおいでかは、わたくしも胸が痛むほど、わかりました。ですから、いまはどうか、おやすみなさいませ。すぐにキュルクをお持ちいたします」


「おまえは僕を信じないのか」


 ボリスは腹を立てた。

 エリンがボリスを見る目には、狂人だという評価がこめられている。

「そうではありませんが、しかし」


「わかった。では、理解してくれとは言うまい。ただ、僕の邪魔だけはしないでくれ」


 これはいけない、という表情が、エリンの両眼にひらめく。しかし、ボリスの動きは早かった。すっと横に移動してからエリンの腕をつかみ、彼女を部屋からひきずりだした。狼狽の声をあげる彼女を追い出すと、彼は扉に『雷光剣』をかざした。それからドアのいたるところで剣に熱を帯びさせ、金属部分を溶かして完全に接着した。誰も中に入ることがないように。


 イワンかペトロフなら、この扉を破るだろう。しかし、二人はそれをしないとボリスは信じた。問題は同じく扉を破る力量を備えたソーニャだが、彼女も賢明な女性だ。もし王子が狂っていると判じた場合でも、この扉を開けて彼を不用意に刺激するような、愚かな真似はするまい。


 ボリスは窓に燭台の脚を押しつけ、同じように剣で金属を溶かして、燭台をはりつけるようにして封印した。ガラスを割ったとしても、燭台の溶けた脚が格子のようになっていて、たとえサーシャでも入れないだろう。


 必死に扉を叩くエリンの声は、すでに彼の耳には届かない。


 ボリスは、ふわりと室内に浮いた。

 この部屋には、秘密の通路への入口が天井に隠されている。そして、うまい具合に、その入口は室内からしか開けられない。通路側からは誰も入ることができないのだ。

 通路の道順をくまなく知っていて、ボリスの邪魔をしようとする者はいないはずだ。


 彼は安心しきって、通路の中に身を潜めた。


 目指す場所は、『全能者オムネルトン』の間だ。

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