第9話 魂の眠り

(私は……このままのほうが良いのかもしれません)


「エルダ!? このまま闇に葬らないでくれと言ったのは君だぞ。第一、それで僕が諦めると思うのか。こうして魂だけになって、無意識に君と会うことができた。できると知った以上、僕は君を探しに肉体を捨てることを選択する」


 エルダは両目を見開き、ボリスを凝視した。彼の決意が固いのを見てとって、小さく吐息を放つ。


(あなたの身体に私も迎え入れてくださることができたなら、あなたが私を見失うことはないでしょう。けれど、ひとの身体は、本来ならひとつの魂しか持てないのです。ですから、私はきっと、あなたの肉体の中では一個の魂として存在を保てません)


「僕の中に融けて消えてしまうのか」


 戦慄がボリスの中で吹き荒れた。


(……いいえ、それはありません。あなたは私の存在を感じとれるでしょう。ただ、私には意識が保てません。だから、あなたの身体にどんな影響を及ぼそうとも、それを抑制することができなくなるのです。私の魂は父がかけた魔法や呪いに穢されています。神人であるあなたの聖なる肉体に、どんな恐ろしい邪力で攻撃をもたらすものか──)


 ボリスはその説明を最後まで聞こうとはしなかった。


「どうやって君を僕の中に連れて行くのだ」


(それは……これから私は、あなたが手にすることのできる状態に姿を変えます。姿といっても魂が魂に感じとれるものですから、物質ではありませんが、それでも肉体を外している今のあなたなら、手に携えられる状態です。そのまま、あなたが肉体に戻れば)


「君も同時に僕の肉体の中に入れるのか」


 あなたの身体が私を拒絶しなければ、という言葉をエルダはのみこんだ。それは声なき言葉を聞きとれるボリスに届いているはずだったが、彼は耳に入れなかった。


「それで、その後は? どうやって、僕の身体から君の身体に君の魂を戻す?」


 エルダは微笑んだ。


 それは、解決不可能な問題だった。


 天空城に来て間もないころに一度、エルダが語ったことがあったが、彼女は邪王となった父親から、魂や輪廻について、そして肉体と精神の死について多くを学んだ。しかし、魂となった存在ができることを、肉体を供えた存在ができるとは聞いたことがない。魂自体に何らかの変化を与えることはできない。それこそ、魔法でも使わなければ。


 エルダの沈黙に、ボリスは不安が高まっていくのを感じた。それを抑えて、手をのばす。


「エルダ?」


(私は、二度と、あなたから離れることはありません。それは私にとっては、このうえなく幸福なことです。もう、決して誰にも危害をおよぼすこともなく、片時もあなたから離れることがありませんもの。あなたがあなたであるかぎり)


「……!」


(誰も、たとえ父であっても、神々でも、私をあなたから引き離すことができないのですもの。ただ、ボリスさまご自身でも私を追い出せなくなってしまうという難点がありますけれど)


 冗談じゃない、とボリスは心の中で叫んだ。


 決して離れ離れにはならないということは、喜ばしいことだろう。だが、エルダに意識がないということは言葉を交わすこともできない。この抑えきれない気持ちを伝えることすらできなくなる。彼女を抱きしめ、触れることも。


 ボリスの視界が翳った。


「ほかに方法は! ないのか!?」


 エルダは黙って首を横にふる。

 しかし、ボリスには受け入れがたかった。もう、二度とエルダの声を聴けなくなる。彼女がなにを思い、感じているかを確かめることもできなくなる。それでは死んでしまったのと同じではないか。


 ボリスは、その空間の中に倒れ伏した。

 どうあっても、彼女を本当の意味で取りもどすことができないというのか。彼女の魂が自分の中にあるというだけで、会うこともできない悲しみに、一生涯、耐えていかなくてはならないのか。それでは孤独であるのと変わらない。


 焦りの中で、彼は雷光のように閃いた考えに飛びついた。


「そうだ! 君を先に身体に戻せばいい。僕が魂として、君を戻した後に、君が歌で僕を戻してくれればいい。そうだろう。君はどうやって僕を身体に戻すつもりだ? それを教えてくれれば、君を」


(私の身体は生きてはいないのです。ボリスさま。あなたが魂としての力を使って私を救おうとしても、私の肉体は私の魂を弾きかえすだけ。ですから申し上げました。いちばん良いのは、おそらくこのまま私を残して、あなたが本来の世界に戻ってくださること)


「君には解らないのか。それが僕の心を生きながら死なせることだということが!」


 あまりに動揺して、ボリスは言葉を選ぶことを忘れた。


「僕の心を殺せるのは君だけだと、こんな状況になっても、解らないと?」


(おねがいです、ボリスさま。私の魂を肉体に戻すなどということは、誰にもできません。どうか私のことをお忘れください。もともと私は、永遠に父の手から逃れるつもりでした。これは私の望んだ結末です)


「僕は望んでいない!」


 数秒間、二人は黙りこんだ。エルダはボリスの言葉に打たれ、ボリスは現実に打ちのめされていた。


(……それでも……神族が望んでくださることでもなければ、私は魂としてしか存在を保てないのです)


 エルダのかぼそい声が、ボリスの顔をあげさせる。


(あなたさえ生きていてくださるなら、それが私を救ってくださること、そのものです。ここでお別れとなっても、私をあなたの中に連れて行ってくださっても)


「神族が望めば? 君は生きられるのか? もう一度、肉体をもって」


(それは……でも、そんなことはありえないことです)


「でも、可能性はある」


 ボリスは絶望の中に光を見つけていた。


 天空城にある強大な虹水晶、『全能者オムネルトン』。あれは、元来は天上界の神々から与えられたものであるという。そもそも、神人や天空人じたいが神から生まれたとされている。それを現在では伝説と解釈することが、若者たちのあいだでは主流だが、神々との交流が太古にあったとしか思えぬものがあることは、変えがたい事実だ。


 神の存在について、ボリス自身は肯定も否定もしてこなかった。しかし、少なくとも父王は信じている。そして、城下町の人々もだ。


 オムネルトンも、最初の使用目的は神々との交流だったはずだ。

 全能と謳われる虹水晶は、しかし使い手を選ぶ。だから能力を全開にすることは少ない。だとしても、可能性は皆無ではない。それに、もしもオムネルトンがボリスの願いを拒んでも、彼は天上界を探しに旅立つ覚悟を決めていた。


(ボリスさま……?)


 彼は強固な意志のもと、立ち上がった。その心に、迷いは微塵もない。


「エルダ。僕は君を連れて行く。絶対に君を、取りもどしてみせる」


 彼の内奥からまぶしい光があふれだすのを見たエルダは、一瞬、言葉をのんだ。


「一緒に帰ろう」


 黄金の光が二人を覆い、エルダは自分の姿がその光にとけて、ボリスの手のひらにすっぽりおさまるくらいの光の珠に変化したのを感じた。

 渦巻く光の中で、ボリスはエルダの心が静かに眠りにつく瞬間、彼女に囁いた。


「おやすみ、愛しい人エル・ベラ・リーニオ


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る