月の蛍 他

月の蛍

 蛍は どこにいるの?


 僕らが通うパリ市内の学校の掲示板の片隅に、それはひっそりと書かれていた。そんな日本語のらくがきを最初に見つけたのは、僕ではなく、ジャンのほうだった。

「なあまこと、これ何て字だ?」

 ジャンはおばあさんが日本人なので、ひらがなくらいはわかるのだ。でもさすがに、蛍という漢字までは読めなかったらしい。

「ほたる、だよ。夏になると水辺で光る虫なんだって、何かの本で読んだよ。僕も、実際に見たことはないんだけど。

 ……ふうん、『蛍はどこにいるの?』、か。でも、フランスに蛍なんているのかなあ」

 考えこむ僕に、呆れ顔でジャンは言った。

「ていうか、それ以前に。

 ここ、月だぜ」


 そう、ここはルナ・フロンティア。

 二十三世紀、月面上に作られたドーム都市。

 それを築いた人々は、新しい世界に自分達の暮らしていた故郷の名をつけた。ルナ・フランス、そしてここはその中のルナ・パリ市。

 僕は最近、父の仕事の関係でルナ・トーキョーからここに移ってきたのだけれど、一番最初に仲よくなったのがこのジャンで、それ以来いつでも一緒に行動していた。

「虫、ねえ。ドームの中の生態系なんて完全にコントロールされてて、計画外の生き物なんて一匹もいないのにな。誰だろうな、こんならくがき書いたの」

「日本人、ってのは確かだと思うけどね。じゃなきゃ、ジャンみたいに身内に日本人がいる子だよ。それも多分、女の子」

「何で女の子なんだよ」

 これは説明しにくかった。『蛍はどこにいるの?』という言葉自体が、どことなく女の子の雰囲気を感じさせるのだ。それに書いてあるその文字も、丸っこくて男子の書く字じゃない気がするのだけれど、その辺フランス人のジャンに納得させるのはむずかしい。

「とにかく女の子だよ。賭けてもいいって」

「……ふーん、じゃあ、確かめてみるか」

 ジャンがにやっと笑った。

「え? 確かめるって」

「この学校に、日本人、あるいは日本人の血を引いてるヤツなんて、俺とお前以外にいったい何人いると思う?

 片っ端から当たっていけば、書いた人間探し出すの、多分可能だぜ」

「探す? わざわざ」

「賭けてもいいって言ったのは誠だろ」

 問答無用という感じで言い切ると、ジャンは教室まで一気に駆け出す。

「俺が勝ったら食堂のアイスクリーム誠のおごりな!」

「ちょっと、勝手に決めるなよジャン!」

 慌てて僕もジャンの後を追った。


 全世界の人々が宇宙に進出するこの時代、どこのルナ・シティに行ってもいろんな国の人が街を歩いているけれど、ルナ・パリのひとつの学校の中にいる日本人、あるいは日系人といったら、さすがに数は限られてくる。

 ジャンの言ったとおり、僕らはその翌々日には、あのらくがきを書いたらしい人物の目星をつけていた。僕らより一学年上で、お父さんが日本人の絵梨えりという子。もちろん女の子だ。

「賭けは僕の勝ちだね。何おごってもらおうかな」

「そんなの、本人に確かめてみるまでわかんないだろ」

 ジャンは負け惜しみを言って、それなら本人に会おうじゃないかと彼女の教室を訪ねたのだけれど。

「絵梨なら、ずっと学校に来てないわよ」

 彼女のクラスメイトは、僕らにそう教えてくれた。

「来てない?」

「入院しちゃったのよ。もう、一月は経つかな」

「一月かぁ。じゃ、いつごろ退院してくるとか……」

 ジャンの言葉に、その子は急に暗い顔になって、声をひそめた。

「あのね。これはあくまで噂なんだけどね。実は、絵梨……」


「あのらくがきを見て、病院まで訪ねてきてくれる人がいるとは思わなかった」

 そう言って、真っ白いベッドの上にいる女の子は楽しそうに笑った。

「言われるまで、自分でも忘れてたわ。あんなとこにらくがきしたこと。入院する前の話だし」

 けらけらと笑う、その絵梨という子を見ていると、いったいどこが悪くて入院しているんだろうと思う。しかし。

「で? じゃあ結局その賭けは、誠くんの勝ちなんだ。あたしのおかげなんだから誠くん、ジャンくんにおごってもらったらおすそわけしてよね」

「……でも、なんであんならくがきを? 『蛍はどこにいるの?』なんてさ」

 僕がたずねると、絵梨はあっけらかんと答えた。

「だってあたし、蛍見たことないんだもの」

「そんなの僕だってないよ」

「何かの本で読んだのよ、あたし。それとも映画だったかしら?」

 絵梨は首をかしげる。そしてやはり、あっけらかんとして言う。

「あのね、死んだ人は蛍になって帰ってくるんだって。でも、蛍を見たことがなかったら、どうやって帰ってきたらいいかわかんないでしょ? だから」

 その言葉で、僕らは悟った。

 彼女が、自分の病名を知っている、ということを。


 全世界の人々が宇宙に進出する時代になっても、病気は存在する。

 中には、全く手の施しようがなく、死を待つしかない病いも。

 絵梨がかかっているのは、そういう病気のひとつだった。ほんの二、三ヶ月前まで何ともなかったのに、検査で異常が見つかって、一月前に緊急入院して。

 そして、多分残された時間は、一年もない、と。

 学校で話を聞いた女の子は、僕らに話してくれたのだ。

〝蛍を見たことがなかったら、どうやって帰ってきたらいいかわかんないでしょ?〟

「……あのさ、ジャン」

 二人とも妙にだまりこくった帰り道、僕はジャンに声をかけた。

「……ああ、いい。言わなくても、だいたい見当つく」

 素っ気ない言い方だけど、僕にはジャンが同じことを考えていたことがわかった。

 この日、僕らは、この月の上で真剣に蛍を探す気になっていた。


「なあ誠、ルナ・トーキョーにはいなかったのかよ、蛍」

「見たことないって言ったろ。それに、ドームには計画外の虫なんていないって言ったのはジャンじゃないか」

「計画に入ってるところだってあるかもしれないだろ!」

 それ以来僕らは、授業が終わるが早いか学校を飛び出して、ルナ・パリ中を駆け回った。

「ホタル? 何だいそりゃ」

「知らないなあ。そんなのいたっていなくたって関係ないし」

「虫? よけいな虫なんて、この月にいるわけないじゃない。資源の無駄だわ」

「そんなおかしなことばかり言ってないで、もっと勉強しなさい」

 まわりの大人たちの反応は、だいたいこんな感じだった。僕とジャンだって、以前だったらきっと似たようなことを思ってたろう。でも……今は、違う。

「また来たの? あなたたちもヒマねえ」

 僕らが顔を出すたびに、まるで病気なんて他人事みたいにけらけらと笑う絵梨。彼女に、何としても蛍を見せてやりたかった。無理解な大人たちになんか、何を言われたって構わない。僕らの力で、蛍を探し出すのだ。

「蛍? ああ、知ってるよ」

 初めてそう言ってくれたのは、ラファイエットさんというおじいさんだった。ラファイエットさんは、昔、大学で生物の先生をしていたのだという。

「しかし、珍しいものを調べてるんだね、君たち」

 僕とジャンがわけを説明すると、ラファイエットさんは僕らの話を真剣に聞いてくれて、いろいろなことを教えてくれた。

 そして僕らは、ある重大なことを、知ったのだ。


「言われたとおり、病院の外出許可はとったわよ。で、どこに連れて行ってくれるの?」

 入院着でない、私服姿の絵梨を見るのは初めてだ。いつもより大人びた絵梨に、僕とジャンはちょっとどきどきしながら、

「ルナ・セーヌ。ちょっと遠くなるけど、どうしても見せたいものがあるんだ」

 地球上のフランスにあるセーヌ川の名を取ったその川は、川といってももちろん人工的に作られたものだ。けれどもその両脇は、できる限り地上の自然に近づくように整備されている。

 僕とジャンは、そのルナ・セーヌの河原に、彼女を連れて行った。外はもうすっかり夜で、あたりには誰もいない。

 だがそこに僕らはじっと立ち、何かを待つように暗い川面を見つめていた。そして。

 不意に、それは訪れた。

「う……わぁっ」

 僕らをとりまく草むらのいたるところから、青白くほのかな光が無数に立ち昇り、宙を舞い始めたのだ。ふわふわ、ふわふわと僕らを歓迎するかのように、周囲で踊る。

「綺麗……」

 絵梨がその光をつかもうと手を伸ばし、けれども光は指の先をすり抜けていく。何度も何度もくりかえすその様子は子供っぽくもあったけれど、青い光に照らされた彼女はものすごく綺麗だった。

「……蛍ね。そうでしょう? 誠くん、ジャンくん」

「……うん、そうだよ」

 ためらいがちにそう答える僕らに、絵梨は満面の笑顔を見せた。

「一度、見てみたかったの……本当にうれしい。ありがとう、二人とも。

 ……あたし、帰ってくるときはここにするわ。きっとよ。きっと、ここに帰ってくる。こんなふうに」


 本当に、彼女は知らなかったのだろうか。

 蛍は、一世紀も前に地球上でも絶滅してしまっていて、もうどこを探してもいないのだということを。

 ルナ・セーヌで見たあの蛍の群れは、実はラファイエットさんがこっそり仕掛けてくれていたホログラフィ映像だったということに、最後まで気づかなかったのだろうか?


 その答えを聞くことは、もう、ない。

 今年の夏、僕とジャンはラファイエットさんを誘って、ルナ・セーヌのあの河原に行こうと約束している。

 蛍になって帰ってくるはずの、彼女に会うために。

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