第三章 廃屋の呪詛

 





ミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネ ミナワタシトオナジ――


            1


 凄まじい音をたててタダオの操縦するユンボが廃屋の壁をぶち破る。他に民家がないので、解体する音や埃に気兼ねすることがいらなかった。

 再びアームを振り上げた時、離れてみていた坂東が、「そこでちょっとストップ」と声をかけた。

 タダオは手を止め、首にかけたタオルで汗を拭く。白いタオルが土埃の汗を吸い込んだ。


 解体業『あーす』を営む坂東社長が、知り合いの仲介で一軒家の解体を頼まれたのは数週間前だった。

 その家は山深い山中にあり、重機の搬入やコストを考えて社長は受けるのをかなり渋っていた。割に合わない仕事はしない主義だった。だが、依頼主の示した金額がかなり高額だったのと、とりあえず行った下調べで利になることを思いつき、結局この仕事を引き受けた。

「やっぱり思った通りだ。この梁は使える。こっちの欄間もすごい値が付くぞ。見ろよ、この床柱。いい材使ってるな。

 おいタダオ、こっからは慎重にやるぞ」

 汗で濡れた白髪を額に張り付かせ、坂東はにんまりと笑った。


 熱い湯に浸かり、タダオは大きく深呼吸した。疲れに疲れた体がほぐれていく。油断するとこのまま眠ってしまいそうだ。

 社長と二人だけの山奥の仕事はさっさと終わるものとばかり思っていた。だが結局、密集した住宅地内でやるような気を遣う仕事と変わらない日数が掛かった。

 きょうそれが終わってタダオはほっとした。

 まず往復に時間がかかるのが嫌だった。そのせいで普段より朝早く出なければならなかったからだ。それに重機で思いきりぶっ潰せるとばかり思っていたのに、結局半ば手作業になった。少しでも粗雑に扱うと怒鳴られ、梁や柱を傷つけないよう慎重に解体したのでひどく疲れた。

 なにより嫌だったのはあの場所が薄気味悪かったことだ。

 それもきょうで終わりだ。

 タダオは大きく伸びをした。

 社長は帰ってきたあと風呂にも入らないでどこかに出かけた。終始ご機嫌で、明日は休んでいいぞと笑っていた。

 休みにしてもらってもどこへ行く当てもなく、タダオは一日中布団の中でごろごろしていようと決めた。

 でも社長の奥さんは起床時間が来たらきっちり起こしに来るだろう。そこが住み込みの辛いところだと、顔半分まで湯に浸かりながら苦笑いした。


 タダオは夢を見ていた。いつもの夢だ。

 夢の中ではタダオはまだ子供だった。周囲の色は常に灰色で必ず家族が出てくる。白い顔の父がタダオをきつく叱っており、そのぐるりを弟と妹が無邪気にはしゃぎまわっている。父は怒っているはずなのに白い顔は無表情だ。母は赤い顔をしていてタダオたちを遠巻きに眺めている。父の説教が終わると、母はタダオ以外の子供たちを呼び、優しい表情でおやつを分け与える。弟たちは幼いから優先されているのだと、タダオは自分の順番が来るのを待つ。でもいつまでたっても母は呼んでくれない。待ちくたびれて近付こうとすると、母が鬼のような赤い顔を上げるというところで必ず目が覚めた。

 実際には父にも母にもひどく叱られた記憶はない。おやつも弟たちと同じようにもらっていたし、ネグレクトはされてはいない。

 だが、褒められたり、かわいがられたりした覚えもなかった。長男だから厳しい躾をされているのだとずっと思っていたが違和感を拭えず、居場所がない気がして、タダオは高校を卒業したあと住み込みのこの仕事を見つけ家を出た。


「休みだからっていつまで寝てるの。ほら起きた起きた」

 澄子がノックもせずドアを開け、顔を覗かす。

「あー、いま起きます」

 タダオは素早く上半身を起こした。早くしないと社長夫人は布団を剥がしに来る。

「早く朝ご飯食べに来なさいね」

 澄子はそう言うとドアを閉めた。

 タダオはため息をついて、まだぼんやりとする頭で夢のことを考えた。

 きょうはあの人は出てこなかったな。

 時々家族以外の女性が夢に登場した。黒い顔をしたその人は母よりもさらに遠くで自分たち家族を見つめている。塗りつぶされたように真っ黒だが、タダオはそれが誰だかわかっていた。

 父の従姉の女性だ。

 父は二つ年上の彼女のことを「姉ちゃん」と呼んでいた。

 その姉ちゃんは年に一回、我が家に来た。あまり笑わない人で常に重く暗い沈んだ表情をしていたが、タダオを含め子供たちにたくさんのお菓子とおもちゃをおみやげに持ってきた。父は歓迎し、弟や妹は大喜びしていたが、タダオだけは気が付いていた。姉ちゃんが来ると母の機嫌が悪くなることを。

 自分だけしか気付いていないと思っていたが、大きくなるにつれ妹も気付き始めた。

「姉ちゃんってお父さんのことが好きなんじゃない? だからお母さん機嫌悪いのよ」

 ある日そう弟に言っていたのを聞いたことがある。

 姉ちゃんがなぜ我が家にやってくるのか疑問に思っていたが、やっぱり女の子は勘が鋭いなと感心した。

 だが、誰がどうあろうとタダオだけいつも蚊帳の外だった。

 もう長い間家には帰っていない。手紙も電話もしていない。向こうから来ることもない。あの家はきっと自分がいないほうがいいのだ。家族の愛情も一家だんらんもあきらめている。ただなぜなのかわからないことだけが辛い。

 両手で顔をぱんと叩き、タダオは布団から立ち上がった。


            2


「全部焼却するっていう約束だったんでしょ? そんなことしてばれたら大変じゃないの?」

 澄子が坂東のグラスにビールを注いだ。

 坂東はかなりの額の万札を数え終え、咥えていた煙草を灰皿でもみ消した。

「大丈夫だよ。だいたい全部燃してしまうなんてもったいないだろ。使えるもんは使わなきゃな。エコだよエコ。使える廃材リサイクルしたんだ。立派な心掛けだろ。なっ、タダオ」

 味噌汁をすするタダオに話を振ると、坂東はいっきにビールを飲み干した。

「ほれお前も飲め」

「朝っぱらからいらないッす」

「何言ってんだ。だから美味いんじゃないか。休みの日は朝からビール。他のやつらは仕事してるから余計美味いっ」

 坂東は大笑いして、空のグラスを澄子に向けビールを催促した。

 澄子は再びビールを注ぎ、心配そうに夫を見る。

「でもねえ――」

「ちょうど古材探してるやつがいたんだ。ほらお前も知ってる山さん」

「ああ、山口工務店の」

「こないだ鳴り物入りで売りに出てたろ、でっかい分譲地。そのわりに便が悪いわ値段が高いわで売れねえとこ。

 あそこ、やっと一区画売れて家を建てるんだってよ。その施主が古民家風にしたいって古い梁や柱を探してたらしいんだ。ちょうどよかったって、山さん喜んでた。

 人助け。人助け。俺も潤ってお互いよかったってことさ」

 坂東は札束から数枚抜きとり澄子に渡した。

「えっ、もらっていいの?」

 澄子の表情が一変した。

「ああ。

 ほれ、タダオも」

 坂東は何枚かの札を差し出した。

「いいッすよ。オレ。給料もらってるから」

「いいから受け取れ。特別ボーナスだよ。その代わりわかってるな」

「口止め料ってことよ」

 澄子が笑う。

「人聞き悪ぃな。でもまあそういうこった」

「じゃ。いただきます」

 タダオは軽く頭を下げて金を受け取った。


            3


「人の運命というのはわからんもんだな」

 寄り合いから帰ってきた坂東がリビングのソファにもたれて煙草に火を点けた。

「なに? どうしたの?」

 澄子が冷蔵庫を開け、ビールを出す。

 黙々と夕食を食べていたタダオは顔を上げ、「お先ッす」と坂東に会釈した。

「おう」

 そう言って坂東は深く煙を吐くと、澄子の持ってきたビールを一気に飲み、妻の顔を見つめた。

「山さんが建てるって言ってた家、覚えてるか?」

「ああ、半年ぐらい前に言ってたやつ?」

「そうそう。その施主がきのう殺されたんだとよ。山さんが言ってた」

「ええっ」

「それも新築祝いのパーティーで。客もろともだと」

 タダオは箸を止めた。

「でもニュースでやってないわよ。そんなひどい事件なら絶対ニュースになってるでしょ。あなた、山さんに騙されてるんじゃないの」

 澄子が笑って坂東の隣に座る。

「そうなんだ。そこがおかしいんだ。でも確かなんだ。山さんが見たんだから――」

 と、詳しく話し始めた。


 山さんは新築祝いのパーティーに呼ばれていたという。ただのパーティーではなく、怪談の会も兼ねていたからだ。

 首を傾げる澄子に自分の体験した怖い話を語る会だと坂東は説明した。

「施主はその会の代表だったそうだ。新築を古民家ふうにしたのもそのためだった。ほら、山さんそういう話好きだし、心霊体験も多いだろう。それを知った施主にぜひ参加してくれって頼まれたらしい」

 だがその日、山さんは用事があって遅くなったという。祝いの酒を持って玄関のベルを押したが誰も出てこない。みな夢中で語り合ってるんだなと思い、戸が開いているのをいいことに勝手に上がり込んだ。

「そしたら、囲炉裏を設えた大きな居間で全員が血まみれで倒れていたんだと。山さん、慌てて外へ逃げたそうだ。犯人がまだ中にいるかもしれねえからな。それから警察に通報したって。

 警察が来るまで生きた心地がしなかったってさ。なんせあそこはまだその一軒しかないだだっ広い分譲地だろ。隠れるとこはねえ、パトカー来るまで離れるわけにもいかねえ、けど犯人が出てきたらどうしようって、暗い中びくびくしてたって。あのごっつい山さんがそんなだったんだからよほどの惨状だったんだろうな。話している最中も震えてたよ。

 で、俺は何がどうなってたんだって聞いたんだよ。

 山さんは顔をしかめて思い出すんもいやだって。

 それでもまあなんとか話してくれたんだけどさ、みな手を首に当ててすげえ苦しげな顔で宙を睨んでたって。とっさのことだから詳しく見てねえけど、あれは首を掻っ切られたんじゃないかって言ってたよ。

 約束の時間に間に合ってたらって考えると怖くて今でも夢に見るってさ」

 坂東は自分のことのように大きく身震いした。

「なんか俺まで寒気がするよ。

 でな、やっとこさパトカーが到着したんだけども、山さんが外で事情を話そうとした矢先、中に入った警官たちが突然顔色変えて飛び出してきたんだと。

 そっからさらに大騒ぎで、山さんはパトカーに乗せられ警察署に行くはめになったって。いや、疑われてるわけじゃなかったらしいよ。家の中がまだ危ないって雰囲気? やっぱりまだ犯人が潜んでたんじゃないかって思ったって。

 パトカーで走ってる時、分譲地の入口をえらい厳重に規制線張ってんのが見えてさ、やじ馬が来ねえはずだって。

 とにかく警官たちの動揺は尋常じゃなかったらしいよ。

 世間に隠してる失態があって、すげえ凶悪犯が逃げてるんじゃないかって、山さん震えあがってたよ」

 坂東はほとんど灰になった煙草をもみ消し、また新しく火を点けた。

 警察署に連れて行かれた山さんは施主との関係や発見した経緯を訊かれその日は帰されたという。犯人はその場にいたのか、施主たちはどうなっていたのか警官に訊いてみたが教えてもらえなかったらしい。

「ほんとに人の運命というのはわからんもんだ」

 と、坂東は煙とともに深くため息をついた。


            4


 山さんが死んだ。

 死因はわからないが、病気ではないらしいと坂東社長が青い顔をして寄り合いから帰ってきた。

 その日も先に夕飯を食べていたタダオは、あの日から何となく元気のない社長のほうを見た。

 坂東はソファに持たれてうな垂れている。青い顔をしている理由をタダオは知っていた。

 山さんは事件のあと再び警察署に呼ばれ、あの家の建築についてあれこれ訊かれたと坂東に愚痴っていたという。

「お前のことは言ってないから」と山さんは笑っていたらしいが、警察に何を訊かれたのか、なぜ自分は庇われなければならないのか。

 思い当たることはただ一つ、あの廃屋から持ってきた古材だ。だが、なぜあんなものを警察が気にするのだろう。

 山さんの死にも関係しているのか、坂東は思い悩んでいた。

 タダオは茶碗に茶を注ぎ、残りの飯をかき込んだ。


 解体を仲介した坂東の知人から電話がきたのはそれから数日後だった。

 暗い面もちで晩酌をしていた坂東はその電話に出るとさらに暗い顔になった。

「ええ、はい。言う通りにしましたよ。全部焼却ました――はい」

「なに? どうしたの?」

 電話を切った坂東の顔を澄子が覗き込む。

「う、ん。廃屋の処理、言う通りにしたかって。なんでこんなこと聞きに来るんだろうな。やっぱり山さんと関係あるんかな」

「もう、だから言ったじゃない。大丈夫なのかって」

「大丈夫だよ。燃やしたって言い張ればいいんだから。山さんも俺のこたぁ言ってねえって言ってたし。だれもわからねえよ。なあ、タダオ」

 坂東が目の前に座るタダオを酔った赤い目で見つめる。

 タダオはうなずくしかなかった。

「ただなあ、何がどうなってんのかわかんねえのが気色悪ぃっていうか――」

 坂東は腕組みをして深いため息をついた。

 澄子がタダオを振り返る。心配そうな表情で訴えかけられても目を逸らすしかなかった。


            5


 分譲地の入口にはまだ黄色いテープが張り巡らされていたが、警官はいなかった。

 タダオはあたりをさっと見回すと規制線をくぐった。

 夕暮れの中のだだっ広い土地にぽつんと一軒、遠く家が見える。猫の子一匹いない道をタダオはまっすぐ向かった。

 大きな事件があった家だというのに、ここにも警官はいない。タダオは門に張られたテープをくぐり玄関に入った。血の臭いが漂っている。

 靴を履いたまま上がり込み奥に進む。囲炉裏端には生々しい血の跡がこびり付いていた。

 鑑識の仕事などドラマでしか見たことがなく、なにをどうするのか知るよしもないが、ここを調査したという痕跡がないような気がした。

 タダオは首を傾げた。

 この家に関係することはすべて変だ。

 そう思いながら板の間をぐるりと見まわす。

 山さんの仕事は立派だった。

 廃屋から取り出してきたと思えないぐらい磨き上げられた床柱と欄間が床の間を飾っている。

 こちらをじっと睨む龍にたじろいでいると、人の声が聞こえてきた。タダオの額に汗が浮かぶ。見つかるとやばい。だが、ぼそぼそとつぶやく声はどう訊いても警官の声ではなかった。

 逃げるつもりで玄関のほうに向かったタダオは床の間に気配を感じて振り返った。今までそこにいなかった女がうつむいて立っている。

 どこに隠れていたのだろうか。タダオは呆然と見つめた。

 さっきからする声は女から聞こえてくる。

「シネミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネミナワタシトオナジ――」

 背中がぞくりとした。

 頭の中で逃げろと警告しているのに体が動かない。

 うつむいた女の頭が少しずつ持ち上がる。

 やばい。やばい。やばい。

 とうとう女の顔が見えた。黒く変色した肌はどう見ても生きている人間ではなかった。こっちを見つめる目も白く濁り乾いてへこんでいる。それでも正確にタダオの姿を捉えていた。

「ミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネオマエハユルサナイ――」

 低いつぶやきが直接頭の中に響いてくる。

「オマエハユルサナイ」

 紐で絞められているかのように急に苦しくなり、タダオは首に手をやった。

「オマエハユルサナイオマエハユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ――」

 誰かに絞められていると思ったが、背後には誰もいないし、女は床の間に佇んだままだ。

 タダオはもがいた。手は紐に触れないが、ぐいぐいと食い込んでくる。苦しくて掻きむしらずにはいられない。爪が皮膚を引っ掻いた。

「おいっ、君なにやってるんだ」

 突然、入口から野太い声がして呼吸が楽になった。

 タダオはむせながら膝から崩れた。

「大丈夫か」

 目を開けると警官がタダオの顔を覗き込んでいる。

「は、い――」

「とにかく早く外に出よう」

 警官は返事を待たず強い力でタダオを抱え起こすと玄関に急いだ。

 警官はタダオを好奇心で事件現場に来たただの若者だと思ったのだろう。外に出るとこってりしぼられた。だが怒っている警官の視線はタダオの首の傷に置かれ、その顔には安堵の表情が見え隠れしていた。

「ここにはもう来ないように」

 有無を言わさない警官の声に頭を下げて、タダオはその場を後にした。

 歩きながら首に手をやった。引っ掻いた傷がひりひりと痛い。

 あれは一体何だったのだろう。

 女の顔と憎悪に満ちた声が耳について離れない。

 分譲地から離れた場所に置いてあった軽トラックに乗り込み、タダオはエンジンをかけた。


 家に戻った頃には、あたりはすっかり暮れていた。

ガレージに車を入れ、玄関前に来るとタダオは家の中が真っ暗なのに気が付いた。この時間は澄子が夕食の支度をしているため誰もいないはずはない。

 不安を覚えながら、タダオは扉を開けた。

 玄関灯と廊下の照明をオンにする。リビングに向かうと閉めきったガラス扉の奥も真っ暗だった。

 ドアを開け、壁のスイッチを入れた。

 明るくなった照明の下、坂東がソファで血にまみれてあおむけに倒れていた。両手の指はえぐった喉の奥深くに突っ込まれている。

 剥きだした目は宙を睨んでいた。

「な、なんなんだよっ。いったい何がどうなってんだよっ。社長っ。社長っ」

 もう生きていないとわかっていても、タダオは坂東に駆け寄った。

「…………」

 ぼそぼそとつぶやく声が聞こえ、タダオは顔を上げリビングを見回した。さっきの女が思い浮かんだ。

 暗いキッチンの隅に誰かがうつむいて立っている。心臓がぎゅっと縮んだ。

「…………シネミナシネミナシネミナシネ」

 澄子だった。

「奥さんっ――」

 顔を上げた澄子の左右の瞳が目尻に隠れるほど外側に寄っている。

「ミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネ――ハハハハハハハハハハハハハ」

「奥さんっ、しっかりして、奥さんっ」

 タダオが駆け寄り揺さぶっても、澄子は大きな口を開けて笑い続けた。

「ハハハッ――」

 突然笑うのをやめた澄子の瞳に焦点が戻り、タダオを睨んだ。

「オマエハユルサナイ」

 澄子の口から長いよだれが垂れる。

「オマエハユルサナイオマエハユルサナイオマエハユルサナイ――ハハハハハハハハハハハ」

 タダオは耳を塞いでリビングから飛び出した。

 外に出ると扉を閉め、息をつく。警察に通報しようと思ったが、中の笑い声がだんだん玄関に近づいてきた。

 タダオはガレージに突っ走り軽トラに飛び乗った。猛スピードで社長の家を後にする。

 行き先はただ一つ。

 なじめなかった家族でも今は無性に会いたかった。


            6


 久しぶりに見る我が家の窓からは暖かい光があふれていた。

 門の前にゆっくりと車を止める。

 少しだけ躊躇したあと、インターホンを押した。

「はい」

 懐かしい母の声がした。

「タダオです。ただいま」

 数秒、沈黙してから、「――何しに来たの」と冷たい声音が返ってきた。

 どういえばいいのか迷っていると、

「お父さんは今出張でいないわ。だから帰って。もしお父さんがいたとしてももう家には上げないけどね」

「えっ?」

「あなたはね、うちの子じゃないの。気付いてなかったの?」

 母は嘲笑っているような声で、

「気付いたから出てったんだと思ってたけど。

ま あくわしいことが知りたいならあの人のところへ行くといいわ」

「あの人?」

 答えもせず、母は音をたててインターホンを切った。

 わけがわからず佇んでいると、きいっとドアの開く音が聞こえた。タダオは微笑んだ。今のは母の冗談なのだ。

 無沙汰な息子を懲らしめるためのドッキリだと胸をなでおろす。

 だが、ドアはほんの少ししか開かず、その隙間から出た母の白い手がひらりと紙切れを落としたあと、再び固く閉じた。

 タダオは玄関前に落ちた紙切れを拾った。女性の名前と住所が書いてある。名前に記憶があった。姉ちゃんの名前だ。

 あの人とは姉ちゃんのことなのか。

 くわしく訊こうと何度もインターホンを鳴らしたが、母はもう二度と出てこなかった。

 タダオはあきらめて軽トラに乗り込み、紙に書かれた住所を目指し発進させた。


            7


 初めて訪れる姉ちゃんの家は夜目に見ても荒んでいるのがわかった。塀からあふれかえる庭木も長い間手入れされていないのがわかる。

 姉ちゃんはここにいるのだろうか。もう誰も住んでいないのかもしれない。

 軋む門扉を開けて中に入り、恐る恐るチャイムを押す。

 数秒して薄暗い玄関灯が灯り、中から気配がした。

 ドアが開くと相変わらず暗い顔をした姉ちゃんが出てきた。当たり前だが、子供の頃会った時より老けて見えた。

 タダオの姿を見ても意外な表情を浮かべもせず、「いつか来ると思ったよ」と口元を歪めた。

 中に通され、うす暗い廊下を進む。

 リビングの前を通るとソファに座る老夫婦が見えた。小さな音量でテレビを付け、暗く沈んだ表情でそれを観ていたがタダオに気付くと、ふたりとも眉間にしわを寄せ上目づかいで睨んだ。

 たじろぐタダオを姉ちゃんが呼ぶ。

「ここに入って」

 染みの浮いたドアの向こうは姉ちゃんの部屋だった。

 タダオはベッドの横にある小さな座卓の前に座り、部屋を見渡した。

 古くさいものだが女性らしい家具が置かれている。

 どう見積もっても若く見えない姉ちゃんの年齢が本当はいくつなのかまったく知らなかったが、棚に並べられている本や雑誌は若い女性向けだった。ただその背表紙はどれも日に焼け埃が積もっている。

「ここを教えたのはお父さん? お母さん?」

 姉ちゃんはタダオの向かいに座った。

「母です――さっき帰ったらうちの子じゃないから家には上げれないと言われて――あの――冗談ッすよね、母の」

 タダオは同意を求めるように微かに笑った。

 だが、姉ちゃんは笑顔を返すことなくタダオの顔を見つめ、唐突に話し始めた。

「――昔ね、ある女性が三人の男たちに拉致され乱暴されたの」


 彼女は身も心もひどく傷つけられたけど命は助かった。でも、しばらくして妊娠してしまったことに気が付いたの。その可能性を考えてもっと注意しておけばよかったのにね。親に心配かけまいとひとり悩んでいるうちに堕胎の機会を逃してしまい、結局、心配も迷惑もかけてしまった――

 彼女は子供を産んだわ。でも産みたくて産んだんじゃない。あの男たちの子なんて憎くんでも愛することなんてできないでしょ。どんな子供でも愛せる母性を持った女性はいるかもしれないけど、彼女は自分のことだけでいっぱいでそこまで人間ができてなかった――

 そんな彼女を助けるために結婚したばかりの従弟がその子を自分の子として引き取ってくれたの。

 ふたりは兄妹のように仲良しだった。きっと憔悴した彼女を見かねて決断したんだと思う。

 きっと彼の奥さんはすごく反対したでしょうね。だって犯罪者の血を引いた子供なんだから。

 それでも従弟は彼女を助けた。

 彼女は年に一回、従弟の家を訪ねた。でもそれは子供に会いたくて行ったんじゃない。彼の重荷を少しでも減らしたくて養育費を持って行ってたの。

 従弟は来なくていいって言ったけど、たくさんの人に迷惑をかけていることを忘れないために、自分だけが幸せにならないために、彼女は必ず行ったわ。

 でも奥さんはいつもいい顔しなかった。当たり前よね。

 結局、彼女とその子供はみんなを不幸にして生きているの。

 こんなことならふたりで死んでおけばよかったと彼女は今でも思ってる――


「そ――その女性って――」

「彼女の名前は菜実。わたしよ。そしてあんたがその子供」

 菜実はタダオを見つめたが、けっして子を見る親の目ではなかった。そのことに胸が締め付けられた。

 家族の間での疑問がほどけると同時に、タダオは自分が憎まれこそすれ愛されるべき人間ではないのだと知った。

 うな垂れた頭から汗がしたたり落ち、体の震えが止まらない。

「あんたなぜ家に戻ったの? あのまま家を出ていればよかったのに」

 冷ややかな菜実の質問にタダオは自分の身に起きていることを話した。

「怖くて、怖くて、父や母に会いたくなったんです」

 黙って話を聞いていた菜実は深いため息をついた。

「皮肉なものね」

「えっ?」

「ふつうならその廃屋に関わるはずがなかったのに。関わったとしても社長さんが言われた通りのことをすればそれで終わったのに。皮肉な巡りあわせとしか言いようがないわ。

 あのね、わたしが巻き込まれた事件の現場はその廃屋なの。そこには秘密があるのよ――」

 菜実は自分が父母から聞いた話を語った。警察から聞いた極秘の話だという。

 聞いているうちにタダオの顔色が変わってきた。

「じゃ、社長のしたことは――」

「廃屋の呪いをあの山から持ち出してしまったのよ」

 タダオは自分たちがとんでもないことをしてしまったのだと、出生の秘密を聞かされた以上にショックを受けた。

「母たちに聞いた話はあの廃屋は警察の手に負えないということだけ。でもわたしは気が付いたの。あの呪いの意味に。元凶はわたしを襲った男たちにあるって。

 思い出したのよ。男たちが話してたこと。

 廃屋の女があいつに、『オマエハユルサナイ』って言ってたこともね」

「オマエハユルサナイ――」

 澄子であって澄子でないものが発した言葉がよみがえる。

 自分は罪の子なのだ。

「あんたはきっと呪いから逃げられないわ。あんたを生んだわたしもね」

 菜実はタダオから視線を外し、投げやりな笑みを浮かべた。

 タダオはふらふらと立ち上がり、黙ってお辞儀をすると部屋を出た。リビングでこちらを睨み続ける老夫婦にも深々と頭を下げる。

 見送りのない玄関を出てから顔を上げた。濡れた頬を手で拭う。

 軽トラに乗り込むと大きく一つ呼吸をし、菜実の家から静かに離れた。


            8


 早朝、タダオは準備を整え荷台に積み、あの忌まわしい家に向かった。

 分譲地の入口は昨日と同じで誰もおらず、そのまま黄色いテープを破って進入した。

 家の前にも誰ひとりいない。

 エンジンを止め、音をたてないように車から出る。ガソリン缶を降ろすと、タダオはすばやく家に侵入した。

 床の間のある部屋に入る。

 女はまだ出てこない。

 どのタイミングで出てくるのだろうか。呪詛にやられる前に早くしなければ。

 タダオは床の間にガソリンを撒き、床柱や欄間にも振りかけた。

 山さん、ごめん――

 涙がぼろぼろとこぼれたが感傷に浸っている暇はない。

 ガソリンを撒き終えると、ズボンのポケットから出したライターと紙切れに火を点け濡れた床の間に放った。

 音を立て炎が燃え上がっても、タダオはその場から動こうとしなかった。

 呪いと一緒に罪も消すのだ。そして姉ちゃんを助ける。

 目の前で火の粉が舞う。熱風が顔をあぶる。

 一瞬すべての音が消え、あの声が聞こえてきた。

「ミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネオマエモシネ――」

 燃えさかる炎の中で女が笑っている。

「オマエモシネオマエモシネオマエモシネオマエモシネオマエモシネオマエモ――」

 炎の舌が目の前に迫り、タダオは目を閉じた。

 その時、首根っこをつかまれ強い力で後ろに引っ張られた。

「早く逃げろっ」

 昨日の警官がタダオを炎から遠ざけようとしている。

 その手を振り払い炎の中に飛び込もうとした。

「ばかなことをするな」

 警官に羽交い絞めにされ、出口に向かって引きずられる。

 大きな音を立て、梁が女の上に焼け落ちるのが見えた。

 外に引きずり出されたタダオは地面に跪いた。無線で連絡する警官の声が遠く聞こえる。

 山さんが建てた家は赤い炎を上げ勢いよく燃えていた。

 これですべて消えるだろう。いやすべてじゃない。罪は残ってしまった。

 タダオは声を上げて泣いた。


            9


 刑務官に促されタダオが面会室に入ると、ガラス窓の向こうですでに菜実が待っていた。

 久しぶりに見る菜実は以前よりひどく痩せていた。

 罪の子がさらに罪を犯し迷惑をかけているのだ。きっと自分に関わる人々全員憔悴しているに違いない。父も母も妹弟たちも。

 憎んでも憎み足りないだろうと、タダオはうな垂れるほかなかった。

 菜実の顔を見ることもできず、軽く頭を下げ席に着く。

「元気してる?」

「うん」

 菜実の問いにうつむいたまま返事をする。

 鼻をすする音が聞こえ、

「――ごめんね」

 震える声にタダオは顔を上げた。

「なんで謝るんすか。悪いのはすべておれなのに――」

 菜実が嗚咽を漏らした。

 タダオはガラスに顔を近づける。

「姉ちゃん、安心して。呪いは消したから」

「でも、あんたはこんなところに――」

「ああするほかなかったから。ほんとはあの女と一緒に消えるつもりだったけど」

 菜実があふれる涙を手で拭った。

「わたしは間違ってた。あんたに罪はなかったのに」

 タダオは首を横に振った。

「生まれてきたことが罪だから」

 オマエハユルサナイという声が今も耳に残っている。自分は存在してはいけない人間なのだ。生きている限りあの声を忘れることはないだろう。

 タダオは姿勢を正し、深々と頭を下げた。

「迷惑かけてすみませんでした。もう来なくていいですから。

 父さんたちにも謝っておいてください。もうおれのことなんて話したくも聞きたくもないかしれないけど」

 と、顔を上げ嗤った。

 菜実がガラスに手を当てた。冷たいガラスが熱を吸って白く曇る。

「あんたが――呪い殺されなくてよかった――正生が生きていてくれてよかった。ほんとよかった」

 タダオは目を見張った。涙があふれ、こぼれ落ちる。

「お、かあさん――」

 とめどなく流れる涙を拭うことなく、ふたりはお互いを見つめ続けた。


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