こんな世界が悪いよ

 いきなり世界が終わるなんて言われても、最後の最後を私と一緒に過ごすような人はいない。

 最後に寄り添いたい人は何人か思い浮かぶけれど、その人たちが一緒に過ごしたい人はきっと私ではない。気になるひとつ年上のゼミの先輩には彼女がいるし、昔付き合っていた彼氏の連絡先はとうに消してしまった。友人と呼べる程の仲の同級生も何人かいるものの、きっと私は彼女たちのかけがえのない1番ではない。

 両親や2つ下の弟は紛れもない愛情をもって私と過ごしてくれるだろうけれど、私が欲しいのはそんな生まれる前からそこにあると分かりきっているような愛なんかではなかった。

 表面上はそつなく人付き合いできていたつもりだったけど、きっとそれはただ距離を置いていただけで、こうして見ると私には何も残っていなかった。自分自身でそんな生き方を選んできたくせに、今となってはそんな生き方しかできなかった自分が恨めしかった。

 こんな時になっても、誰か携帯電話を鳴らしてくれないかな、なんてミラクルをただひたすらに布団の中で腐りながら待ち続けている。

 22時過ぎの私の部屋は、いつもこんなに静かだったっけと思うくらいしんとしていて、部屋のあちこちで静寂がぐわりと口を開いて、私が落っこちるのを今か今かと待ちわびていた。

 表示の変わらない携帯電話の画面をぼんやり眺めていたら、次第にこんな手のひらほどの機械に縋るなんてすごくみじめに思えてきて、マンションの4階の部屋の窓を開け放って、思いっきり携帯電話を投げた。

 高校の授業の体力測定以来に思い切り振りかぶって投げられた携帯電話は思いのほか勢いよく夜の闇に溶けて、少ししてアスファルトとぶつかる乾いた音だけが残った。

 前だったら手から滑り落ちただけで、画面に傷がついていないかとひやひやしていたのに、道路の上にぽつんと置き去りにされてきっと画面もひび割れているだろう携帯電話を想像すると、なんだか小さなことに気を使っていた自分が滑稽だった。


 このまま布団の中に閉じこもっていると本格的に気がめいってしまいそうで、衝動的に音楽プレイヤーのイヤホンを耳に突っ込んで、財布ひとつ手に取って部屋を飛び出した。

 どこに向けていいのか分からない嫌いによく似た気持ちを胸に何かに取りつかれたように前だけ向いてざくざくと宵闇の中を突き進んでいく。近所の0時近くまで営業しているスーパーに足を運ぶと、とりあえずなんだかよくわからない名前の1番高いワインと普段なら決して手を出さないような値段の豚バラブロック肉をカゴに放り入れた。中途半端にけち臭いから高い牛肉にしようかな、とも思ったけど、世界の終わりの夜に煮て食べる角煮の方が私にとって魅力的だった。

 それから、数か月前に誤って割ってしまってからグラスがキッチンの棚にひとつもないことを思い出して、デザインもへったくれもない透明なグラスを買った。最後の最後にマグカップでワインなんてダサすぎる。

 それから手当たり次第にお菓子や飲み物を手に取って、手早く清算を済ませた。


 部屋に戻ると、料理酒やら醤油やら必要な調味料をずらずらとシンクの横に並べてから、温めたフライパンで先ほど買った大きい肉に焼き目をつけていく。

 結局誰にも手料理を披露することなく、このフライパンもすっかり黒ずんでしまったな、なんて惨めな思いごと火にかけた。

 イヤホンから流れるロックバンドの、この世の憂いを叫ぶ高らかな歌声をざらざらとした気持ちで聞きながら、目の前の肉が焦げてしまわないように菜箸転がしていく。

 肉の様子を見ながら、ワインの栓を開けて買ったばかりのグラスに注いで一気に呷ると、アルコールと華やかな香りがふわりと身体を包んだ。


 しっかりと焼き色をつけるとネギやショウガやニンニクを入れた鍋に、調味料を適量どばどばと注ぎ、ひと口大に切り分けた肉をどんどん放り込んでいく。

 鍋に火にかけて数分後には、部屋いっぱいに美味しそうな匂いが広がって、さっきまで鬱々とした空気がどんより立ち込めていたのが嘘みたいだ。


 美味しい匂いにきゅーっとお腹が動いて、時間をかけたらその分美味しくなるから待っててね、と言い聞かせる。

 それからは床に直接お尻をついてグラスを傾けつつ、読みかけだった小説を読みながら火加減を見ていた。

 手元にはアルコールとお菓子と、いつだって私を別世界へいざなってくれる小説があって、そんな私にはとびきり美味しい角煮が控えていて思わず口の端が緩んでしまう。

 今の私だったら世界の終末だってなんにだって勝てる気がした。

 それにこうしている分ならいつ世界が終わっちゃってもいいかな、なんて。

 そんなふわふわとした気持ちを抱えたまま、今までの半生を振り返りながら得点をつけていた。

 中学時代は、あんまり冴えなかったな、60点くらい?

 高校で初めてできた彼氏は背もすらっとしていて顔だちも爽やかで、何かとちゃんと話を聞いてくれて言うことなしだったな、なんだかよく分からないうちに別れることになっちゃったけど、まあ、87点くらい!

 時々鍋の蓋を開けては、水を注ぎ足しながら、映画のエンドロールみたいに悦に入りながら私の人生の登場人物について思いを巡らせた。

 苦い思い出が思わず飛び出してきた時には急いでワインを流し込んで栓をした。



 そんな風に取り留めないことをもくもくと考えながらトイレに行こうと、グラスを手に立ち上がった時だった。

 あっ、と思わず小さく声が漏れる。

 まずいと思った時にはすでに遅く、するりと手からグラスが滑り落ちて、まるでお手本みたいに綺麗にパリンと音を立ててグラスは割れた。

 あっけなく砕け散ったグラスを前に、ぱちん、と魔法がはじけたように、すーっと高揚感が消えてゆく。

 急にぐつぐつと鍋の中のものが煮える音と換気扇の低くうなる音がいやに大きく聞こえて、砕け散ったグラスからゆっくりとワインが床に広がっていく。

 酔いのせいかぐらりと視界が揺らいだ。

 こんな夜中にひとりで何をしてるんだろう。

 あれ、と思った時には遅かった。

 ふいに涙が頬を伝い、涙の理由を考える間もなくじわじわと溢れては、流れていく。


 こんなはずじゃなかったのに。

 最後の最後にこの小さな部屋の中で私だけが少し物の良いワインと完全無欠の角煮を享受して、なんだかんだ言ってこんな人生も悪くなかったな、なんて見切りをつけるつもりでいたのに。

 必死に涙を押し込めようとするけれど止まることはなく、床に置いた文庫本のカバーにぽたぽたと落ちてゆく。

 なんで最後の最後まで冴えないんだろう、なんて一度気持ちを緩めてしまったら、もうどうしようもなくてこんな自分はすごく嫌なのに、こんな夜はどうしたらいいのか分からなくて。

 思わずぺたんとそのまま床に座り込んでしまう。

 何もかもが急にメッキが剥がれて、こんな夜に手のかかる料理を始めてしまったことも、間に合わせで適当なグラスを買ってしまったことも、悦に入りながら自分の人生に点数をつけていたことも、そんなものしか縋るものがなかった私自身の哀れさを思うと小さく嗚咽が漏れた。

 

 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。

 あの人にもあの子にも最後を一緒に過ごすような大切な人がいるのに、どうして私は誰の1番にもなれずにこうもひとりなのだろう。


 お願いだよ。

 誰か一言でいいから私の憂鬱吹き飛ばしてよ。

 こんな状況で悲しくて涙を流してしまうくらいに弱い私が悪いんじゃなくて、こんな世界がすべて悪いよって。

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終わりかけた夜に 秋ノ @aube_blanc

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