忘れちゃったよ、声なんて


 もしかしたら明日にでも世界は終わってしまうかもしれません、と言われて私はなんだかホッとした。具体的にいつまで続くのか分からない漠然とした未来のために何かと向き合い続ける必要がない、と分かったからなのかもしれない。

 そうなると何もかもが面倒臭くなって、私は専門学校を卒業してから6年間勤めていた会社を辞めた。決して職場環境や給料に大きな不満があったわけではないけれど、どうせいつか終わってしまうのだと思ったら、自ら何かの枠組みに囚われているのがなんだか馬鹿らしくなってしまった。

 幸いにも貯金はそこそこあった。万が一にも世界が終わってしまう前に貯金が底をついたら、その時はその時でどうにかすればいい、と楽観的に考えていた。


 ありがたいことに、ひとり暮らしの私のことを心配して彼氏や家族をはじめとして何人かの友人が時々電話をかけてくれた。以前だったら、何か忙しさを言い訳にすることができたけれど、こうして電話越しで誰か話すというのはなんだか誤魔化しがきかないような気がして、相手と向き合うことを強いられているようで次第に電話が鳴っても無視するようになり、最終的には携帯電話も解約してしまった。今でも端末は音楽プレイヤーとして持ち歩いているものの、インターネットに接続することは決してなかった。

 そして、こんなご時世ということもあって以前では考えられない程に破格で好条件の物件を見つけることができたので、誰にも知らせずに必要最低限の荷物を持ってこっそりと引っ越しをした。

 誰からも期待も心配もされないというのはとても気が楽だった。


 そうやって、必要最低限にまでひとりきりになって、忘れてしまうということを、諦めようという思いが沸いた。意固地になってまで覚えていたいと思うものがなくなった、という方が近いのかもしれない。

 今まで、忘れてしまいたい記憶がいつまでも残り続けることよりも、忘れたくない思い出が次第に薄れて私の都合良く書き換えられてしまうことがすごく嫌だった。

 例えば旅先で誰かと見た綺麗な景色を写真という形で終わらせて満足してしまいたくなかった。だからいつも友人や彼氏がこぞってカメラを構えるのを、私はただ横で見ていた。私にも目の前のものを人並みに綺麗だと感じるほどの感性はあったはずだ。ただ、それを数回のシャッターで終わりにしてしまいたくなかった。記憶すべてを抱えきれるはずもないのに、その時の温度や匂いや誰かの表情までも私の感性で、私の言葉で曖昧なまま覚えておきたかった。

 綺麗に撮ろうと思って撮った写真を見て思い出す記憶はもちろん当たり前に綺麗だ。

 そうやって「綺麗」で汚された記憶を、私はまるで着色料で外見を誤魔化したようなひどく安っぽいものに感じてしまっていた。



 ただ、世界の終わりが告げられたあの日、私がいくら頑張って覚えようとしても私の意思とは関係ないところですべて消えてなくなってしまうのだと思ったら、あらかじめ「綺麗」という額にはめられたものを、愛してしまえばいいや、という気になった。


 いつかの旅行前に勢いで買って以来、部屋の隅で眠っていたワインレッドのコンパクトデジタルカメラを引っ提げて改めてこの世界を見てみようと思った。

 結局最後には全部消えてなくなってしまうものだと思ったら安心してシャッターを切ることができた。私がいくら頑張って覚えておこうとしても、この景色も写真も記憶もどうせ一緒になくなってしまうのだ。

 それから私はまるでお下がりのデジタルカメラを与えられてはしゃぐ幼い子供みたいに、目にうつるものはなんでもカメラに収めた。

 カメラの容量がいっぱいになると、お気に入りの何枚かだけコンビニエンスストアのプリンターで現像し、データを消去してはまた写真を撮り続けた。


 街角の可愛いパン屋さん。

 光の差し込んだ路地裏。

 目の覚めるような鮮やかな夕日。

 どれもこれも手当たり次第に写真に収めた。


 そうしてほとんど物がない私の部屋は次々と綺麗で可愛くてお洒落なだけの写真で溢れていった。夜眠る前には、写真の束から1枚ずつ手に取っては満足げに眺めた。


 そしてなんとなく眠れない夜には、電波の入らない携帯電話にイヤホンを繋いで、留守番電話サービスに録音されている伝言を再生した。

 1分37秒間のメッセージ。

 いつだって私の名を呼ぶ彼の声は優しい。

 メッセージは「また明日掛け直すね、おやすみ」という言葉で締めくくられていた。


 電話を通して聞こえる音声が機械的に合成されたものだと初めて知った時には、それがあまりにも本人の声そっくりで驚いた。

 きっと私が撮った写真に写る景色が「本物」ではないように、イヤホンを通して私に優しく語り掛ける彼の声も「本物」ではない。

 一方的に連絡手段を断った私のわがままではあるけれど、彼には私のことなんて忘れて、彼自身の幸せを享受していていてほしい。

 もともとほとんど写真に残すことのなかった私には今では彼の表情は朧げにしか思い出すことができない。

 声だってもうこの録音データを介してでしか思い出すことができないけれど、その声音がどんなものよりも優しいというだけで十分だった。





 おやすみ。

 いつだって優しい彼の声を胸に抱いて。

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