第17走 お姉ちゃんと《左脚の鬼憑き》

 それが起こったのは、深夜二時を少しまわった頃だった。


「幸クン」


 名を呼ばれ、やまさちは目を覚ました。条件反射で枕の下に隠した拳銃に手を伸ばし――その冷たい感触でようやく脳が覚醒する。壁掛け時計の針は深夜二時を指している。交代時間。という単語が脳裏に浮かんだ。椛と交代で行っている夜間警戒。その自分の番が来たのだ。


 幸は小さく息を吐き、心を落ち着かせてから眼鏡をかけた。


「異常は?」

「ないヨ、いつも通リだネ」


 幸の問いに、椛は肩をすくめて答えた。

 椛は相変わらず《SCT》の指定する振り袖と、専用の《かんなわ》を装着していた。《鉄輪》はともかく振り袖は面倒なら脱いでも良いと幸は言っているのだが、変に真面目な椛は毎日寝るまで振り袖を着用している。動きづらいだろうに、と思うがそれこそが奧山の狙いなのだから仕方がない。そもそもただの巡査である幸が、警視正である奧山に――彼が出世街道から外れているとはいえ――意見できようはずもなかった。


「千隼ちゃん、大丈夫だった?」

「大人しく縛らレてオルよ」

「……飛鳥ちゃんの寝顔見て興奮してない?」

「最初の一時間だけノ。そのアと、すぐに寝タ」


 引き継ぎという名の雑談を交わしながら、幸は衣服を整え拳銃の点検をする。最後に手鏡で簡単に髪を整えて準備完了。


「じゃ、行ってくるわ」

「うム」


 既に控え室のソファに横になっている椛は、ぞんざいに幸へ手を振って寝息を立て始めた。幸は苦笑しながらリビングへと向かう。途端に欠伸あくびが出てしまった。あまり自覚はないが流石に寝不足らしい。


 だが、もうすぐこの寝不足からも解放される。

 そう思うと、少し寂しいような気もした。既に日付は八月二十一日。護衛期間は今日を含めてもあと三日。最初こそ千隼の言動に驚かされたが、今となってはちょっとした娯楽になっている。常識外れではあるが、あれで千隼は本当に危ないことはしない。むしろ妹の飛鳥の方が、直情的に行動してしまう所がある。幸としては飛鳥の在り方を好ましく思うのだが、護衛という役目から考えるとそうも言っていられない。


 そこまで考えて、ふと幸は足を止めた。

 誰かが立ち上がったような音が聞こえたのだ。


 丁度、水無瀬姉妹の寝室の前である。

 元々ここは飛鳥だけに割り振られた部屋だったのだが、紆余曲折を経て千隼もここで睡眠を取っていた。だがやはり飛鳥は姉と同室であることが色々と不安だったらしく、千隼をロープで縛り上げた上でさらにさるぐつわまで噛ませてから布団に転がしている。幸も流石に止めようと思ったのだが、千隼が少し嬉しそうなのを見てやめた。きっとあれが、あの姉妹なりのスキンシップなのだろう。そう幸は納得することにしている。


 耳を澄ませると、何者かがそろりそろりと歩くような気配がした。

 途端、幸は苦笑する。


 どうやら千隼が、また飛鳥のベッドに潜り込もうとしているらしい。椛は大人しく縛られていると言っていたが、もしかしたら椛の気配がなくなるまで待っていたのかもしれない。よく縄抜け出来たものだ。


 さて、どうするべきか。

 幸の中にイタズラ心が芽生える。たしなめるべきか、放っておくべきか。


 止めたところで千隼が諦めるとは思えないが、放っておけば千隼は飛鳥の布団に潜り込み、朝方には飛鳥の怒声が官舎全体に響くことになる。

 だけど、まあ、それはそれで良い目覚まし代わりになるかもしれない。そう幸は考える。それに、実は飛鳥もまんざらでもないのだと思う。なんだかんだで飛鳥はあの千隼という姉を信頼しているし、姉を叱ることを楽しんでいるようでもある。あれだ、きっと『ツンデレ』とかいうやつだろう。


 なら放っておこう。

 幸はそう結論しその場を後にしようと、


 パリン、


 そんな音を幸の耳が拾った。

 幸はジャケットの内側から拳銃を抜いた。同時に携帯電話を取り出して椛の番号を呼び出す。そしてコール状態のまま、ポケットへと戻した。


 さて、どうするべきか。

 幸の心に先ほどのようなイタズラ心は微塵も無い。

 先ほどの音はガラスが窓割れる音だった。部屋の中には千隼と飛鳥しかいない。いくら二人の寝相が悪くてもガラスを割ることはないだろう。

 つまり、それ以外の誰かがやったということ。

 そろりそろりと歩く気配は、千隼ではなかったという事だ。

 幸は数瞬だけ思考を巡らせる。本来なら椛を待つべきだが、事態は急を要するかもしれない。


「――、」


 私なら何があっても大丈夫。

 そう自身に言い聞かせ、幸はドアを蹴破った。

 と同時に部屋の中へ転がり込み、音のした方向――バルコニーへ続くサッシの方へ銃口を向ける。途端、幸は奥歯を噛みしめた。

 ――やっぱり、か。


 窓の外には三日月。

 その弱々しい月明かりを背に受けて、髪の長い女が立っていた。

 いつぞやと同じ下着姿。そして額を割って生える二本のツノと、黒と黄色のまだらようをしたバカでかい左脚。

ひだりあしおにき》だ。


「幸さん、飛鳥があいつにッ!!」


 背後から千隼の声。横目で見れば、猿轡だけを器用に外した千隼が《左脚の鬼憑き》の肩の辺りを睨みつけていた。同じ場所へ視線を向ける。逆光でよく見えないが《左脚の鬼憑き》は右肩に何かを担ぎ上げていた。

 その大きさは丁度、人間ひとりと同じくらい。


「幸ッ!!」


 若くしわがれた声。

 部屋へ飛び込んできた椛は幸と千隼を庇うように前へ飛び出た。そして「――《鉄輪》ヲ解くぞ」とだけ宣言し、その額へ手を伸ばす。

 まずい、と思った。


「ま、待って! 飛鳥ちゃんが肩に、」

「はァ?」


 幸が思わず出した声に、椛が驚いて振り向く。

 それで充分だった。

 椛の視線が離れた途端、《左脚の鬼憑き》が床を蹴った。

 行く先は窓の外。夜の闇の中。


「くソっ!」


 慌てて椛がバルコニーへ駆け出るが、もう遅い。すぐに椛は踵を返し「指揮所へ連絡しろ!」とだけ叫んで、部屋を飛び出していった。


「……了解、」


 聞く者のない応答を返して、幸は小さくため息を吐く。

そのまま呆けてしまいたかったが、そうもいかない。幸は携帯電話を取り出し指揮所へとダイヤルする。報告事項を頭の中で整理し、ついでに千隼の身柄についても相談しなくてはと考え「千隼ちゃん、」と振り返った。


「――あれ?」


 しかし、

 先ほどまで千隼が転がっていた場所には、解かれた縄だけが残されていた。

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