第17走 お姉ちゃんと《左脚の鬼憑き》
それが起こったのは、深夜二時を少しまわった頃だった。
「幸クン」
名を呼ばれ、
幸は小さく息を吐き、心を落ち着かせてから眼鏡をかけた。
「異常は?」
「ないヨ、いつも通リだネ」
幸の問いに、椛は肩をすくめて答えた。
椛は相変わらず《SCT》の指定する振り袖と、専用の《
「千隼ちゃん、大丈夫だった?」
「大人しく縛らレてオルよ」
「……飛鳥ちゃんの寝顔見て興奮してない?」
「最初の一時間だけノ。そのアと、すぐに寝タ」
引き継ぎという名の雑談を交わしながら、幸は衣服を整え拳銃の点検をする。最後に手鏡で簡単に髪を整えて準備完了。
「じゃ、行ってくるわ」
「うム」
既に控え室のソファに横になっている椛は、ぞんざいに幸へ手を振って寝息を立て始めた。幸は苦笑しながらリビングへと向かう。途端に
だが、もうすぐこの寝不足からも解放される。
そう思うと、少し寂しいような気もした。既に日付は八月二十一日。護衛期間は今日を含めてもあと三日。最初こそ千隼の言動に驚かされたが、今となってはちょっとした娯楽になっている。常識外れではあるが、あれで千隼は本当に危ないことはしない。むしろ妹の飛鳥の方が、直情的に行動してしまう所がある。幸としては飛鳥の在り方を好ましく思うのだが、護衛という役目から考えるとそうも言っていられない。
そこまで考えて、ふと幸は足を止めた。
誰かが立ち上がったような音が聞こえたのだ。
丁度、水無瀬姉妹の寝室の前である。
元々ここは飛鳥だけに割り振られた部屋だったのだが、紆余曲折を経て千隼もここで睡眠を取っていた。だがやはり飛鳥は姉と同室であることが色々と不安だったらしく、千隼をロープで縛り上げた上でさらに
耳を澄ませると、何者かがそろりそろりと歩くような気配がした。
途端、幸は苦笑する。
どうやら千隼が、また飛鳥のベッドに潜り込もうとしているらしい。椛は大人しく縛られていると言っていたが、もしかしたら椛の気配がなくなるまで待っていたのかもしれない。よく縄抜け出来たものだ。
さて、どうするべきか。
幸の中にイタズラ心が芽生える。たしなめるべきか、放っておくべきか。
止めたところで千隼が諦めるとは思えないが、放っておけば千隼は飛鳥の布団に潜り込み、朝方には飛鳥の怒声が官舎全体に響くことになる。
だけど、まあ、それはそれで良い目覚まし代わりになるかもしれない。そう幸は考える。それに、実は飛鳥もまんざらでもないのだと思う。なんだかんだで飛鳥はあの千隼という姉を信頼しているし、姉を叱ることを楽しんでいるようでもある。あれだ、きっと『ツンデレ』とかいうやつだろう。
なら放っておこう。
幸はそう結論しその場を後にしようと、
パリン、
そんな音を幸の耳が拾った。
幸はジャケットの内側から拳銃を抜いた。同時に携帯電話を取り出して椛の番号を呼び出す。そしてコール状態のまま、ポケットへと戻した。
さて、どうするべきか。
幸の心に先ほどのようなイタズラ心は微塵も無い。
先ほどの音はガラスが窓割れる音だった。部屋の中には千隼と飛鳥しかいない。いくら二人の寝相が悪くてもガラスを割ることはないだろう。
つまり、それ以外の誰かがやったということ。
そろりそろりと歩く気配は、千隼ではなかったという事だ。
幸は数瞬だけ思考を巡らせる。本来なら椛を待つべきだが、事態は急を要するかもしれない。
「――、」
私なら何があっても大丈夫。
そう自身に言い聞かせ、幸はドアを蹴破った。
と同時に部屋の中へ転がり込み、音のした方向――バルコニーへ続くサッシの方へ銃口を向ける。途端、幸は奥歯を噛みしめた。
――やっぱり、か。
窓の外には三日月。
その弱々しい月明かりを背に受けて、髪の長い女が立っていた。
いつぞやと同じ下着姿。そして額を割って生える二本のツノと、黒と黄色の
《
「幸さん、飛鳥があいつにッ!!」
背後から千隼の声。横目で見れば、猿轡だけを器用に外した千隼が《左脚の鬼憑き》の肩の辺りを睨みつけていた。同じ場所へ視線を向ける。逆光でよく見えないが《左脚の鬼憑き》は右肩に何かを担ぎ上げていた。
その大きさは丁度、人間ひとりと同じくらい。
「幸ッ!!」
若く
部屋へ飛び込んできた椛は幸と千隼を庇うように前へ飛び出た。そして「――《鉄輪》ヲ解くぞ」とだけ宣言し、その額へ手を伸ばす。
まずい、と思った。
「ま、待って! 飛鳥ちゃんが肩に、」
「はァ?」
幸が思わず出した声に、椛が驚いて振り向く。
それで充分だった。
椛の視線が離れた途端、《左脚の鬼憑き》が床を蹴った。
行く先は窓の外。夜の闇の中。
「くソっ!」
慌てて椛がバルコニーへ駆け出るが、もう遅い。すぐに椛は踵を返し「指揮所へ連絡しろ!」とだけ叫んで、部屋を飛び出していった。
「……了解、」
聞く者のない応答を返して、幸は小さくため息を吐く。
そのまま呆けてしまいたかったが、そうもいかない。幸は携帯電話を取り出し指揮所へとダイヤルする。報告事項を頭の中で整理し、ついでに千隼の身柄についても相談しなくてはと考え「千隼ちゃん、」と振り返った。
「――あれ?」
しかし、
先ほどまで千隼が転がっていた場所には、解かれた縄だけが残されていた。
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