第16走 お姉ちゃんと一家の団欒
線香の束に火を点ける。
風が運ぶ土の匂いに、線香の香りが混じった。
腕時計の針は午前七時を指している。丘の上にある霊園には、まだ
千隼は片膝をついて、穏やかに煙をたち昇らせる線香を香炉に据えた。
その横では、既に飛鳥がしゃがみ込んで両手を合わせている。
千隼もそれに
「久しぶり、母さん。――
千隼は《先祖代々之墓》と彫られた墓石に語りかける。
「今年は少し早めに来たんだ。命日には来れないかもしれなくてさ」
「――いつ、亡くなられたの?」
背後から、
「まさか……《
「恐らく」
少なくとも、千隼と飛鳥はそう聞かされていた。
《822事件》当時は《鬼憑き》という超常の存在によって混乱を極めており、二人はそのゴタゴタの中で死亡認定されたに過ぎない。わかっているのは、母の
千隼がそこまで話すと、幸は「そう」とだけ呟いた。
下手な気遣いや感想は必要ないと考えたのだろう。千隼としてもそれはありがたい。幸の隣に立つ椛も同じ考えなのか、市女笠の下で沈黙を守っている。
唐突に、千隼の隣でしゃがんでいた飛鳥が立ち上がった。
「暗い話は終わりにしよ。さ、早く。ご飯ご飯。あたしお腹減っちゃった」
「ああ」
千隼も同意する。
そう、今日はこんな話をしに来たのではないのだ。
千隼と飛鳥は協力して持ってきたレジャーシートを墓の前に広げ始める。四隅に重しを置いて、座布団を用意。それを見て、幸もショルダーバッグから弁当箱をいくつか取り出した――が、その表情は戸惑っていた。
「ねえ、本当にいいの?」
「ええ」
座布団に腰をおろしながら千隼は答える。
千隼と飛鳥は毎年、二人の命日には墓の前で食事をする事にしていた。
だが結局、一家団欒は永遠に訪れることはなかった。
だからせめて、墓の前でだけでも一家団欒をしてあげたかった。
もちろん意味のない感傷だ。千隼も飛鳥も信心深い方ではない。だが理屈では判っていても、それをせずにはいられないという事もある。ゆえに霊園側から「朝早くなら」と許可を貰い、千隼と飛鳥は年に一度の
と、玉砂利を踏みしめる音がした。
「
「あ、
「いらヌ」
そう言って、椛はぼっくり下駄をガラコロンと鳴らしながら去って行く。誰もそれを止めようとはしない。椛の事情を知っている千隼と幸は当然だが、飛鳥も「またか」という顔だけして椛を見送った。既に生活を共にして一週間以上経っている。飛鳥なりに椛が抱える事情を汲み取っているのかもしれない。
「あ、そういえばっ」
気まずい雰囲気を変えようと思ったのか、幸が両手を打ち鳴らした。
そのままことさら明るい声を出して、
「二人に朗報です。――護衛期間の終了日が決まりました」
「え、ホント? いつ、いつですか?」
途端、飛鳥が身を乗り出す。苦笑する幸が「三日後の八月二十三日よ」と答えると、飛鳥は感極まったように瞳を閉じて拳を握りしめた。
「やったあ、ようやく合宿に戻れるっ!!」
「……まあ、予定通りなんだけどね。延長はしないって室長から
「ありがとうございます幸さん! 愛してます!!」
飛鳥に抱きつかれ、幸は戸惑いながら「ど、どういたしまして」と答える。それから千隼の方をうかがいながら、身振り手振りで『私は無実です』とアピールし始めた。どうやら千隼が怒るのではないかと心配らしい。だが千隼もそこまで心は狭くない。単に「私も抱きしめられたい」と決意を固めるだけだ。――固めるだけだ。
それに、今の千隼は少し機嫌が良かった。
なにしろ護衛生活があと三日で終わる。これほどホッとすることはない。
もちろん、いまだ《鬼憑き》の治し方が判っていないという不安はある。だが、まずは当面の危機を脱することが重要だ。《SCT》の目から――ひいては室長の
となると問題はひとつ。
飛鳥があと三日の間に、《鬼憑き》になるかどうかだ。
今日は八月二十日。――飛鳥が人を喰ってから十二日が過ぎようとしている。
この十二日間、幸い飛鳥は《鬼憑き》に成ってはいない。最長で二週間に一度という《鬼憑き》の食人ペースから考えれば奇跡的だ。飛鳥の《鬼憑き》としての状態は普通ではないようだし、何らかの理由で食人のペースが遅いのかもしれない。それなら、あと三日くらいは何とかなるのではないか。そう千隼は淡い期待を抱く。
無論、準備を怠るわけにはいかないが。
「それじゃ、そろそろご飯食べましょうか」
ようやく飛鳥から解放された幸が、眼鏡の位置を直しながら言う。
それから弁当箱を開いて、ふと思いついたように提案した。
「最終日にはまた、みんなで食事しましょ。約束ね」
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