第13話

 ――どうして私の手が見えているですかな?


 ダフニの体は物質界の存在だから、これが見えるということは物質界も見えてしかるべきだ。そもそも物質界がエーテル界の投影なら、エーテル界を直接知覚できるようになった今、物質界を見ることも当然可能なはずだ。


 そのことに気づくや否や、ダフニの視界はガラガラと何かが崩れるような勢いで大きく変化していった。白一色だった背景が波打ちはじけ、代わりにそこに現れたのは奇妙な彩色の現代アートのような景色。さらにそれすらゆらゆらと形や色を変えて行き、気が付くといつの間にか見慣れたいつもの寝室の天井がそこにあった。


 「あ……」

 「ダフニ様?」


 聞きなれたいつもの声が隣から聞こえてくる。ダフニはゆっくりと体を起こしてその声の方向を見た。


 「おお、クロエですな」


 それはわき腹を切り裂かれて意識を失う直前に朦朧とした頭で見上げて以来、本当に久しぶりのクロエの姿だった。


 「よかったですな。今度は傷はなかったですな」

 「……ダフニ様、目が……!?」


 クロエは手に持っていた洗濯して畳んだばかりの服を床に落としてダフニに駆け寄ってきた。


 「見えるようになったですな」

 「よかった。……よかったです」


 クロエに向かって伸ばされた手を抱えるように抱きしめて、よかったよかったと繰り返すクロエを見て、ダフニはその頭を優しく撫でた。


 「心配をかけたですな」


 こうして視力が回復したダフニだったが、そのありようは以前とは随分変わったものとなっていた。


 まず、物理的な目は視覚とは無関係なものとなったようだった。目を閉じていても周りは見えるし、目を開けていても眼球の方向と視界が連動することもなかった。さらに、視野は全方位に360度開けていて首を動かさずに真後ろまで見ることができた。


 それだけでなく、数十メートル程度離れたものならば位置関係に関わらず上下左右360度周囲からの俯瞰視座を得ることができた。これは障害物があっても関係なく例えば壁の向こう側の状況をドアを開けることなく透視することが可能だった。


 他にも、1km先の人の顔が識別できたり、真っ暗でも日中と同じくらいはっきりとものが見えたり、紫外線や赤外線を知覚できたり、視覚だけでなく他の5感の感度も上がって数十メートル先で針が落ちる音が聞こえたり超音波が聞こえたり香りだけで花壇に生えている雑草の種類が分かったりと様々な変化が起きた。


 ただ、これほど感覚が敏感になってしまうと処理すべき情報量が増えすぎてすぐに頭が疲れてしまうという問題が起きてしまった。何せ、目をつむっても布団をかぶっても視野が塞がらないので感覚を休めることができないのだ。


 「根性さ、根性」


 リピカに相談してもそんな答えしか帰って来ず、しばらくは知恵熱のような状態になっていたが、これまたラジオのチューナーやボリュームを調整するような感じで入ってくる情報量を調整することができるようになって、なんとか制御できるようになった。


 「ようやく普通に歩けるようになったのですな」

 「はい。本当によかったです」


 何気なく言った言葉にまた俯いてしまったクロエの頭をダフニはまた優しく撫でた。


 「もしどうしても目が治らなかったら私は自分の目を取り出してダフニ様に差し上げようかと思っていました」

 「怖いことは言わないですな。そもそも眼球の移植術は世界中のどこにも存在しないですな」

 「……分かっています」


 今2人は屋敷の庭の奥にある池のほとりを歩いていた。ここから流れ出した水が屋敷内をせせらぎとなって流れているのだ。屋敷の建物からは少し距離があって目が見えなくなってからは歩いてくることもできなかった。


 「それにしても、いまだに不思議な光景ですな」

 「やっぱりいるのですか?」

 「あちこちにいるですな」


 エーテル知覚を手に入れたダフニはリピカを始めとした精霊たちを見ることができるようになったわけだが、その精霊たちの思いがけない数の多さに驚きを隠せなかった。精霊たちの奇妙な外見がその驚きを上乗せする。


 「あの池の上にも変なのが浮かんでるですな。手のひらサイズのアヒルの足漕ぎボートの上に一回り大きな藍色のサンショウウオが跨っているですな」

 「……」

 「あっちの木の枝にはこうもり傘を差したコウモリが逆さまにぶら下がっているですな」

 「……」

 「そこの地面からは時々タケノコが勢いよく地面から飛び出してきてしばらく地面をはねた後また土の中に潜るですな」

 「精霊って一体……」


 とはいえ、そのような奇妙な、というかふざけた格好をしている精霊たちであったが、魔法を使ってみると確かに精霊としての仕事をしているということが分かった。


 ――豊原に集いし水の精霊に請い願い奉る。


 呪文を詠唱し始めると近くに精霊が一斉に反応する。さらに見えている精霊だけでなく今まで見えていなかったものも大量に出現して驚く。


 ただし全ての種類が反応するというわけではなく、呪文によって反応する精霊の種類は違うようだ。反応した精霊を見ても外見上の共通点は感じられず、呪文で指定された「水の精霊」という枠に入るかどうかが分かれ目になるということなのだと思われる。


 精霊たちは一斉にダフニの方に駆け寄ってきて我先に体にタッチしようとする。そして一番最初にタッチしたものだけが勝ち残ってそれ以外は散り散りになりそのうちの精霊の多くはそのままどこかに消えてしまうのだ。


 ――我、汝に一つの求めあり。眼前の小岩に向かい水球の回廊を作りたまへ。


 呪文が進んでも勝ち残った精霊が何かを始めることはない。ただ、じっと近くで待機しているだけだ。ここで詠唱を止めるとその精霊はすぐに離れて行ってしまう。その仕草が面白いからと言って何度もそれで遊んでいると学習するのか呪文冒頭のかけっこに掛ける精霊の熱気が薄らいでくるのが興味深い。


 ――さすれば我、汝に魔力1を与えるものなり。コール


 「コール」という掛け声と共に待機していた精霊が動き出す。まず、精霊はダフニの体から魔力を取り出す。魔力というのは色とりどりのサプリのようなもので、どういう原理かは分からないが呪文の後に体からころりと転がり出てくるのだ。また、試してみたら自分の意志で取り出すこともできた。


 精霊が魔力のサプリを手に入れると、今度は不思議な踊りが始まる。これはそれぞれの精霊によって異なる儀式のようなもので必ずしも「踊り」とは言えないものもあるが、とにかく決まって妙なジェスチャーなのだ。


 そして、その踊りとともに不思議な意匠をこらした銃が出現し、詠唱で指定した目標の方に向けられ発射される。すると、全く魔法のように魔法が発現するのだ。


 このプロセスはダフニがやってもクロエがやっても全く同じだった。違いは契約した精霊を使った精霊魔法を使った時だった。この時はクロエが呪文を唱えても精霊は反応せず、ダフニが唱えたときはリピカが反応を示した。


 それから、精霊魔法の時はリピカはダフニの体にタッチすることはなく、離れていても魔法の銃が構成された。さらにリピカは魔法の行使のたびに魔力を受け取ることもなかった。というのも精霊魔法の場合、呪文の中で魔力についての言及がない。リピカの場合精霊魔法の呪文はこのようになる。


 『誓約にて共にする精霊に請い願い奉る。我、汝に一つの求めあり。我が眼前に今朝の朝食のメニューを呼び起こす記憶の回廊を作りたまへ。コール』


 ただ、だからと言って精霊魔法がコストなしで行使できるということではない。契約した精霊は魔法の行使とは無関係に契約者の体から好きな時に勝手に魔力を引き出すのだ。文献には精霊契約すると魔力の総量が半分になると書かれているがその原因はこれらしい。


 「僕ら上級精霊は個体を維持するために魔力をたくさん使うからね。固定給じゃないとやってられないのさ。でも精霊ひと使いが荒かったら残業代を請求するから覚悟してね」


 とはリピカの弁だ。


 こんなわけで、ダフニがエーテル知覚を得、リピカと会話できるようになったことで魔法における様々な謎が次々と解明されていった。


 会話の意味をくみ取るのは難しいもののリピカの話は重要な情報が含まれていた。ただ、最初の日はたくさん話したが、基本的にリピカは気が向いた時だけしか会話に付き合ってくれなかった。最初の日は久しぶりに話し相手が見つかって気分が乗っていたということのようだ。


 「ダフニ様は精霊と話ができるのですよね」

 「そうですな」

 「精霊はどんな話をするのですか?」

 「ほとんどの精霊は何もしゃべらないですな」

 「しゃべらないんですか?」

 「変な声で鳴いていることはあるけれど、会話が成り立つのはリピカだけですな」

 「そういうものなのですか」


 会話というか、そもそもその辺にいる精霊は犬猫程度の知性すら備えているのかどうか怪しいものばかりで声をかけても振り向きもしない。独立した意思を持って完全な会話が成立するリピカと比べて、同じ精霊とは思えないほどの違いだ。


 ただ、不思議なことに魔法の呪文に対してだけはそういう精霊でもちゃんと反応を示すのだ。言葉の意味は理解できなくても呪文の意味は理解できるらしい。


 それからしばらくして、ダフニとクロエは学校に戻ることになった。視力が戻った理由を説明するのに苦労したのだが、結局リピカの隠された能力を利用して魔法で疑似的な視野を再現しているということにしておいた。エーテル界の話をしても誰も真面目に話を聞こうとしないのだ。


 「あら、ダフニ。もう帰ってきたの?」


 久しぶりの登校で最初に会ったのはイリスだった。イリスは教室に向かう途中の道で待ち構えるように立っていた。


 「お久しぶりですな。また道に迷ったですかな?」

 「迷ってないわよ! たまたま近くを歩いてたらダフニが見えたから待っててあげただけでしょ」

 「イリス様、いつもありがとうございます」

 「どうしたのですかな?」

 「いつも図書館で本を探すのを手伝っていただいてましたので」


 クロエがそう言うとイリスは急に顔色が真っ赤になった。


 「あ、あれはたまたま図書館でよく会っただけで別に毎日図書館で待ってたりしてたわけじゃ……」

 「ふむ。……大丈夫ですな。友達がいないなら私が友達になってあげるですな」

 「結構よ!」


 せっかくダフニがイリスに親切にしたのにイリスはなぜか怒ってしまった。


 「それにしても辻斬りなんて災難だったわね。傷はもういいの?」

 「少し痕は残ったけれど、もう大丈夫ですな。医者も太鼓判を押してるですな」

 「太鼓判ね。……ところで、えっと、その目はどうなってるの? ずっと閉じてるみたいだけど」

 「これは見えてないですな」

 「ええっ!」


 イリスはびっくりして足を止めてダフニの顔を覗き込んできた。


 「いきなり止まるとびっくりするですな」

 「見えてないの?」

 「見えてるですな」

 「え?」

 「何というかですな、目は見えないのですが代わりに精霊の力を借りて周りを見ているですな」

 「? ダフニの精霊ってそんな力があったっけ?」

 「あったのですな」


 ダフニの説明にイリスは首をかしげていたが、ダフニの目の前で手を振ってみて反応を確かめたりして、とりあえずそれで納得したようだった。


 「まあ、見えてるのならそれでいいわ。そういえば、最近街に人さらいが出るらしいわ」

 「人さらいですかな?」

 「辻斬りといい人さらいといいなんか物騒になってきたわね」


 イリスの言葉にダフニとクロエが顔を見合わせたところでちょうど教室に着いた。

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