第6話

 そんな生活がさらに数年続いたある春の日、ダフニとクロエ、それに乳母のマヤと一緒にお花見に出かけた。もちろん、3人以外に馬車の御者や護衛の衛士も2人ほど付いてきたが、それ以外には誰もいない完全にプライベートなお花見だった。


 桜は屋敷の庭にも植わっているが、今回はピクニックもかねてということで街から少し離れた丘へと行くことにしたのだった。そこは街を見下ろすことができる高台になっていて軍事上の理由から許可なく立ち入りが禁じられているため、ダフニたち以外に誰かがいるという心配はなかった。


 「きれいなのですな」

 「本当にきれいですね」

 「……はい、ダフニ様」


 クロエはメイド教育の結果、ダフニのことを「ダフニ様」と様付けで呼ぶようになっていた。最初はダフニは嫌がっていたのだが、クロエの立場上そうするほうが問題が起きにくいとメイド長から説得されてその呼び方を受け入れた。


 「では、この辺りにピクニックシートを敷いてその上にお弁当を置くのですな」


 ダフニが本当にやりたいのは生前の日本で一般的だった桜の下で宴会をするタイプのお花見だった。本来ならお酒を飲むところだが、さすがに子供の身でそれは無理なので代わりにお弁当を持ってピクニックということにしたのだった。


 御者は馬車のところで馬の世話をしながら休憩をし、衛士たちは邪魔にならないように離れたところで周囲を警戒していたので、ダフニたちはリラックスした気分でお花見を楽しむことができた。


 「このサンドイッチはクロエが作ったのですな。おいしいですな」

 「ありがとうございます」


 ダフニがクロエの料理を誉めるとクロエは少し恥ずかしそうに喜んだ。その時、離れたところで控えていた衛士たちがダフニたちの前へと出てきた。


 「何かあったですかな?」

 「野犬のようです」


 衛士の指す方を見ると確かに犬が群れを成してこちらをうかがっている様子が見てとれた。


 「ふむ。あの程度であれば私一人で十分ですかな」


 そう言ってダフニは衛士たちの前に出た。野犬たちは数を頼みにしているのかダフニたちに獲物として狙いを定めたようだ。


 ――野犬は狼と違って狩りの経験値が不足しているせいで相手の力量を測るのがへたくそなのですな。相手を間違えたことを後悔するですな。


 ダフニはニヤッと笑って、野犬たちが射程に入ったことを確認してから魔法を発動した。魔法が使えるようになってから数年間工夫を重ね続けたダフニは、脳裏に呪文を文字で思い浮かべることで口頭での詠唱を省略する技法を編み出していた。そのため、今使った魔法も当然無詠唱での発動だった。


 ZAG ZAG ZAG ZAG


 ダフニたちの出方を警戒しながらゆっくりと近づいていた野犬たちは、突然地面から生えた土の槍にことごとく胸や腹を貫かれ、体の自由を奪われて絶命した。


 「ふむ。こんなものなのですな」


 ダフニにとってこれは初めての実戦だったのだが、全くぎこちなさを感じさせない迅速な戦いぶりに衛士たちは感嘆のまなざしをダフニへと向けていた。


 この後は野犬たちの死亡を確認して土槍を折り、どこか1か所に集めて後で死体を燃やしてしまえばいいだけだ。それらの始末は衛士たちに任せておけばうまくやってくれるだろうからこれ以上ダフニがやることはない。そう思って後ろを振り返りお花見を再開しようとピクニックシートへ足を進めようとした。


 誰もがもう全て片が付いたと安心していたその瞬間、岩陰から野犬が1匹ダフニに向かって飛び出してきた。


 野犬というのは狼と違って狩りの経験値が少ない。その割にプライドの高いものが多く、群れの仲間が殺された後も逃げ出そうとせずに向かってくるものがいる。そういうこの世界に生きるなら当然知っている常識をもちろんダフニも持ってはいたが、初実戦だったダフニはそれが具体的にどういう意味なのか、まだ本当の意味で知ってはいなかったのだ。


 「ダフニ様っ!!」


 突然の危機に反応できたのはまだ幼いメイドただ1人だった。ダフニのことだけを常に見守るように教えられてきたクロエは、今回もその教えを忠実に守りダフニとその周囲だけに注意を払っていた。そして岩陰から飛び出したものが何者かを考えるより前に、ダフニを守るようにその前へと体を滑り込ませたのだ。


 「ぎゃうっ」


 間合いの途中に割り込まれた狼とクロエはお互いに中途半端な態勢で衝突し、クロエはダフニの足元に倒れこみ、狼は衛士の側へと飛ばされて即座に衛士によって止めを刺された。


 「クロエ、大丈夫ですかな!」

 「ダフニ様はご無事ですか?」

 「私は無事だけど、クロエは血が出ているですな。どこが痛いですかな?」

 「手が、左手が変です」


 左手を手に取ってみると、手の甲が狼の爪でざっくりとえぐれて骨が見えていた。かなりの痛みなのか額には脂汗も浮いている。


 「これはひどいですな。すぐに治療が必要ですな」

 「……申し訳ありません。せっかくのお花見だったのに」

 「何を言っているですかな。これは私が悪いですな。クロエには感謝してもしきれないのですな」


 そう言ってダフニは自分の着る服の一部を破って包帯にしてクロエの手を止血し、水魔法で傷口を洗ってさらに別の包帯を作って傷口を縛った。


 「残念だけど、治癒魔法は専門家でないと難しいですな。応急処置だけ済ませたのですぐに街に戻るですな」


 そう言うと、ダフニはクロエを自ら背負って馬車に乗り込みすぐに街へと引き返した。そしてそのまま治療院に直行して治療を受けさせた。


 野犬の爪につけられた傷は化膿してその日の夜は発熱しうなされたが、ダフニがつきっきりで看病して魔法で症状を抑え体力を支えたことで特に後遺症もなく回復することができた。


 しかしダフニは、治療院で帰宅を許可されてからもなかなか引かないクロエの手の腫れと化膿をずっと気にかけていた。そして、ようやくそれが治まり左手の包帯がとれた日に、ダフニは思いつめたようにクロエの前に跪いて謝った。


 「クロエ、本当にごめんですな。申し訳ないですな」

 「ダ、ダフニ様、やめてください。顔を上げてください」

 「いや、これは私の気が済まないですな。女の子を傷ものにしてしまったのですから責任を取るのは当然ですな」


 ダフニが言っているのは左手の傷のことだった。傷そのものは完治して生活や仕事に影響はないものの、大きく目立つ傷痕が残ってしまったのだ。元女であるダフニとしては目立つ傷が体に残ってしまったことについて責任を感じずにはいられなかった。


 「クロエのことは私が一生責任を持つですな。きっと素晴らしい旦那様を見つけてあげるですな」

 「いえ、あの、ダフニ様」

 「もしどうしようもない男しかいなかったら仕方がないですな。私が最後まで面倒を見るのですな。絶対ですな」

 「ふぇ、ダ、ダフニ様っ」


 突然の宣言にクロエは真っ赤になった。ダフニの言葉は取りようによってはプロポーズの言葉にも聞こえるからだ。まだ子供とは言えクロエも女であるのでそういう言葉には敏感だった。いや、むしろこの場合ダフニが鈍感だともいえる。ダフニはいまだに自分が男であるという自覚がやや欠けているところがあった。


 ともあれ、クロエの怪我は左手の傷痕を残して完治しダフニたちは元の生活へと戻った。


 体力の回復を待って、クロエは自主的に護身術を学び始めた。ダフニではなくメイド長にお願いして先生を付けてもらったようだった。むやみに詮索するのもよくないと思ったので、ダフニはクロエがどういう護身術を学んでいるのか知らなかった。


 メイド長からの英才教育によって、クロエのメイドとしての立ち居振る舞いは洗練されたものへとなっていった。さらにメイド長の配慮によって上流階級の子女としての立ち居振る舞いも教えられていた。これは、ダフニとクロエの仲を見たメイド長のおせっかいだったが、クロエはそれにも応えて一所懸命に身につけて行った。むしろダフニの方がそういうことには無頓着であった。その結果、


 「ダフニ様、お袖が汚れております」

 「ダフニ様、靴の左右が逆です」

 「ダフニ様、そろそろ起きないとお昼になってしまいます」


 ダフニは完全にクロエなしでは生きていけないダメ人間になってしまっていたのだった。


 ――むむむ。これはクロエに見捨てられたら野垂れ死んでしまうかもしれないのですな。やばいのですな。


 ダフ二の危機感はすでにもはや手遅れで、もともと生前もプログラマらしくいろいろなことに無頓着で夜型のだらしない生活を送っていたので、一度崩れると元に戻すのは至難の業だった。結果ダフニはクロエに対する依存度を高めていき、クロエはダフニに必要とされていることに生きがいを感じてさらにダフニを甘やかすのだった。

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