第5話

 少女はバケツ一杯に水を入れてどこかへ運んでいくところだったようだ。ダフニが観察する範囲内ではこの世界は上下水道は完備しているものの宅内配管は整備されておらず、水運びは使用人の重要な仕事であるらしい。この少女もそういう理由で水をどこかへ運んでいくところなのだろう。


 ――それにしても、まだ5,6歳の子供には随分な重労働なのですな。


 「私はダフニですな。お主の名前は何ですかな?」

 「え、あ、えっと、クロエです」

 「はじめまして、クロエ、ですな」


 そう言ってダフニは右手を差し出した。それを見たクロエはバケツを持つ両手を見て少し考えてからバケツを下ろし、手が汚れていることに気が付いてエプロンで手を拭ってからおずおずと差し出された手を握った。


 「は、はじめまして」

 「私は5歳。もうすぐ6歳になるのですな。クロエは何歳ですかな?」

 「えっと、分からないです」

 「年が分からないですかな?」

 「うん。分からないです」


 年齢が分からないというのはこの世界ではたまにいる。ダフニの狭い交友関係でも、屋敷の使用人の中で年齢や誕生日の分からないものが何人かはいるのだ。特に、数の理解が怪しくなれば年齢も分からなくなるらしい。ただ、5歳程度の年齢なら親や周りの大人が数えられてもよさそうなものだが。


 「小さいのにお手伝いとは感心なのですな」

 「お手伝いですか?」

 「違うのですかな?」

 「仕事です」

 「お手伝いではないのですかな?」

 「お手伝いは分からないです。これを運ばないとご飯がもらえないです」

 「それは大変なのですな。引き止めて悪かったですな。もう行くですな」


 ご飯が貰えないと聞いて、ダフニは慌ててクロエに道を譲った。クロエが重たいバケツを再び持ちあげて少しふらつきながら立ち去ったのち、ダフニはその後ろを気づかれないようについて行った。


 クロエがバケツを持って建物の中に入った後、中から叱責する声が聞こえた。ダフニはそっと近づいて聞き耳を立てると、クロエが水運びに時間がかかりすぎたことについて怒られているようだった。


 「お取込み中のところ失礼するですな」

 「ダッ、ダフニ様!」

 「ダフニ様?」


 ダフニが中に入っていくとさっきまでクロエを叱責していたらしい使用人の女性が驚愕した様子でダフニを見た。その横でクロエは不思議な様子でダフニとその女性を交互に見ていた。


 「クロエは私が引き止めていたのですな。仕事の邪魔になったとしたら私のせいなのですな」

 「そ、そんな、決して邪魔などということは」

 「おや、そうですかな? だったら、少しお邪魔して話を聞かせてもらっていいですかな」

 「は、はい。何でございますか?」


 女性使用人は予想外の展開に緊張しているのか、表情を強張らせて主人であるダフニの問いかけに頷いた。


 「クロエはお主の子供ですかな?」

 「違います」

 「では、家族はどこにいるのですかな」

 「さあ……」

 「さあ、ですかな?」

 「わ、分かりません。多分、孤児なんじゃないかと」

 「孤児?」


 孤児と聞いてダフニはクロエの方を見た。


 「クロエ、お父さんやお母さんはいるですかな?」

 「いないです。院長さまにはこれからはお屋敷の人が家族ですと言われたです」

 「……なるほどですな。使用人には孤児は多いのですかな?」


 ダフニは再び女性使用人に問いかけた。


 「珍しくはないですが、この年でというのは少ないです。まあ、追い出されたんですね」

 「追い出された、ですかな?」

 「あ、いえ、何でもないです」


 ダフニはもう一度クロエをしげしげと眺めてみた。この子のどこかに追い出される要素があったのだろうか? 少女というより少年に近いその風貌は少し可愛げがないと感じる人もいるかもしれないとは思ったが、そんなことを気にする人がいるだろうか?


 ――何にしても5歳の子供に罪はないですな。


 「今日1日、クロエを借りてもよいですかな? 何か大切な仕事が残っていたりするですかな?」

 「だ、大丈夫です。どうぞご自由にしてください」

 「え、でも、まだ……」

 「クロエ! いいの!」

 「……」

 「いいですかな。では、預かるですな」


 泣きそうな顔になったクロエの手を引いて、ダフニは外に出た。それから部屋に戻ろうとして自分がやりかけていたことを思い出してクロエと花壇に戻った。そしてクロエを待たせたまま花を適当に切って水を張ったバケツに花を立てると、バケツを片手にクロエの手を反対の手に握って部屋へと戻ったのだった。


 部屋に戻るとメイドがちょうど掃除をしていた。


 「おかえりなさいませ。そのものは?」


 メイドはクロエを見ると怪訝な様子で尋ねた。クロエのエプロンドレスは下働き用のもので、ダフニの部屋に入ることができるメイドのものではなかったからだ。しかも、主人のダフニがバケツを持って使用人のクロエが手ぶらであることも疑念を後押ししていた。


 「クロエは客人ですな。今日一日クロエは私の部屋にいるですな」

 「かしこまりました」


 とはいえ、さすがにメイドは心得たものでそれ以上は何も詮索せずにダフニが取ってきた花をバケツごと受け取った後、花壇で汚れた上着の着替えと一緒にクロエのために着替えを持ってきた。


 「こちらへおいで下さい」

 「クロエ、着替えてくるといいですな」

 「……はい」


 メイドと一緒にクロエが退室した後、手を洗って上着を着替えて一休みしているところに着替えたクロエが戻ってきた。エプロンドレスから借り物のワンピースに変わっても、クロエはやはり少年のようだった。


 「あ、あの」


 戻ってきたクロエは意を決したようにダフニに対して口を開いた。


 「何ですかな?」

 「お願いです。私はお屋敷にいたいです」

 「どうしたのですかな?」

 「なんでも仕事をします。お願いです」


 必死な様子のクロエを見て、ダフニは自分が思い違いをしていたことに気づいた。ダフニがクロエの仕事を中断させたことで、クロエはこの屋敷で仕事を失って追い出されてしまうと勘違いしてしまったのだ。


 「私はお主を追い出したりしないですな。ただ、お主と話がしたいだけなのですな」

 「本当?」

 「本当ですな。今日のご飯は一緒に食べるですな」


 仕事をしないとご飯が貰えないというクロエの言葉を思い出したダフニは最後にそのことも付け足した。するとクロエは目に見えてほっとした様子だった。


 その後、ダフニとクロエは夜になるまで話をした。主にダフニが話してクロエが聞くという形だったが、時折ダフニがクロエに質問してクロエが答えることもあった。まだ言葉がしっかりしていないクロエはところどころたどたどしかったが、ダフニの問いに一所懸命答えようとしていた。


 ダフニにとってちょうど同い年くらいで気兼ねなく話せる相手というのはクロエが初めてだった。同い年といえば魔法教室のイリスがいたが、イリスは話しかけても全く答えてくれなかったので友達とは言いがたかった。


 中身は大人とはいえ、外見はまだまだ小さな子供のダフニは周りから賢い子供と思われてはいても対等に話せる相手だとは思われていないため、クロエのようにダフニの話を真剣に聞いてくれる相手というのは他にはいなかった。


 相手から一人前だと思われて尊敬のまなざしを受けるということがどれほど心の健康に重要なことかということについて、知識だけでなく実体験としてこれほど強烈に感じたのはこれが初めての経験だった。その結果、ダフニは誰もが驚く決定をしたのだった。


 「クロエ、これからお主は私の専属になるですな。朝起きてから寝るまで一緒にいて話し相手になるのが仕事なのですな」


 ただ、クロエだけはそれを聞いて驚くよりも明日からの仕事がなくならないことにほっとしたというのはダフニとクロエしか知らないことだった。そしてその日は2人で一緒のお風呂に入り、2人で一緒の布団に入って疲れて寝るまで話し続けたのだった。


 ちゅんちゅん


 と小鳥が鳴いていたかどうかは分からないが、ダフニが目覚めたときクロエはまだ同じベッドで隣で寝ていた。周囲から見れば5,6歳児が話し疲れてそのまま同じベッドで寝るというのは微笑ましい光景だが、ダフニの精神年齢を考えると微妙かもしれなかった。もっともダフニは男に生まれ変わったという自覚が足りないので全く気が付いていなかったが。


 その日から、クロエはダフニ専属メイドという扱いになって、単なる話相手というだけではなく身の回りの簡単な世話も行う立場となった。さらに、そういう立場であるならばそれに合わせた技術や立ち居振る舞いが求められるということになり、1日のうちの半分くらいは勉強のための時間ということでメイド長からの指導を受けることになったのだった。


 突然の大抜擢に他のメイドたちからは嫉妬の視線を浴びることとなったが、それはダフニの意を汲んだメイド長によって抑えられた。また、クロエにかかるプレッシャーはこれまでの比ではなくなったものの、ダフニやメイド長から尊厳を持って接せられるためクロエにはむしろやりがいとなっていた。


 ダフニにとってクロエは年の近い妹のような存在となった。率先してクロエに読み書きや算数を教えたり、本を読み聞かせてやったりした。出かけるときには必ずクロエを連れ、いつも手をつないで先導して歩いて行きあれやこれやと目に入るものを一つ一つ説明するのだった。

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