Ⅸ 人は散らぬ花のようには生かず

 随意痛覚不全ずいいつうかくふぜんおよび身体違和しんたいいわを伴う自発じはつ還死性かんしせい自己同一性障害じこどういつせいしょうがい、またはエピソード的不可逆ふかぎゃく健忘けんぼう全生活史ぜんせいかつし違和いわ。ゾンビ(偽生者)の医学的呼び名だ。


 この世に生をけて二十年、いまだに魂と肉が馴染まない。自分のものではない、異国のような身体に閉じ込められ、見知らぬ記憶を貼り付けられ、他人の顔と人生を強いられて、月日はあっという間にこぼれ落ちてしまった。

 益花梨イー・ファリー、それが彼女の前生から変わらず使わされ続けている名だ。夫の王以仙ワン・イーシェンは、ずっと自分を妻と扱い続けた。家族の絆は、死などでは断ち切れないから、と。

 インゴルヌカ市は寄る辺なきゾンビが生きていけるよう、全力で支援をしている。その知識は彼女にも前生からあったが、イーシェンは彼女を離そうとはしなかった。生まれたての彼女は、少しでも知っている相手がいいと、それに身を任せた。それがすべての間違いだった。

 市内で生まれたゾンビは、即座に元の家族や人間関係から引き離される。そうすることが、悲劇を防ぐと身にしみて知っているからだ。

 そしてイーシェンは、妻がゾンビ化したと市に届け出なかった。イー・ファリーは未登録ゾンビだ。彼は彼女が今の体での振る舞い方を覚えるまで、家にこもらせ、つきっきりで世話をした。愛されていると思うには、充分なほどに。

(でも、彼が愛しているのは私の前生? それとも私のこの体?)

 魂などどうでもよい。そう言われているように感じたことは、何度あっただろう。

 食事をする時、運動する時、人と話す時、愛される時。自分の体が動いて、触れて、感じて、味わう、そのことに罪悪感を覚えるゾンビは多い。

〝この私が使っている体は、一体誰のものなんだろう? この体の本当の持ち主はどこにいるんだろう? 私の本当の体はどこにあるんだろう? 持ち主が戻ってきた時、体を汚され使われて、どんなに怒るだろう?〟

 ただ生きてるだけで、罪の重さに押しつぶされそうになる。

 それも、多くは年月によって、あるいはカウンセリングや抗不安剤のたぐいで、ゆっくりと洗い流されていくものだ。

 ファリーがやっとそう思えるようになったのは、息子が生まれた時のことだった。出産後、初めて顔を合わせた時、思ってもいなかった言葉が自分の口から出る。

「あなたはどこから来たの?」

――私はどこから来たの? それは、きっとこの子と、同じ場所から。

 自分の魂は、どこかで死んだ誰かのもので、それがこの世を彷徨ううちに、今の体に囚われてしまったように思っていた。

 けれど、ついこの間までどこにも存在していなかった息子が、こうしてこの世に新しく生まれ、自分の元へやってきた。なら、自分だって、きっと新しくこの体に生まれてきたのだ。少し、他の人よりズレがあるだけ。

 だから今の人生でも、きっと、うまくやっていける。


 その後に、娘さえ生まれなければ、ファリーはずっとそう思えただろう。


 娘は……、彼女自身にそっくりだった。ファリーの体に。

 それは前生の魂が、娘になってこの世に現れたかのようだった。あの葡萄のような黒く美しい瞳は、ふと気が付くとじっと自分を見つめている。

 責めているのだ。体を返せ、命を返せと!

 タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げながら、物憂げに窓の外を見やる。娘の死体が戻ってきた、そんなことはどうでもいい。

 自分はただ、息子に会って、連れ帰りたいだけだ。


                 ◆


「刑事さん、なんでこの悪党と知り合いなんですか」

 霊柩バンに乗り込みながら、シーロンが訊いた。後部座席で、修理されたエヴァネッセンス49と隣り合って座る。

 この青年は、サイゴのマッチポンプ式とも言える売り込みに一時反発したものの、時間もなく、受け容れざるを得なかった。面白くはないだろう。

 助手席に座りながら、マキールは答えた。

「刑事になる前からの付き合いでね。悪党も昔は、うぶだった」

 出会った時はこんなに背が高くもなければ筋肉もない、やせっぽちの子供だったのだ。色々な意味で立派に成長した友人は、運転席でシートベルトを締めて言う。

「ひどいな、勤労意欲に燃えているんですよ。類は友を呼ぶ」

 親指でこちらを指さし、サイゴは笑った。家まで送るから今日は休め、と友人は言ってくれたが、マキールはそれを断ってここに居る。

「これが終わったら休暇を取って、家でタンゴでも踊るさ」

 無線は失くしたので、こちらの状況は同僚に電話で伝えるしかなかった。シーロンの母とイーシェンを確保するため、警官たちが中華街へ向かっているはずだ。

「じゃ、残業を片付けようか」

 雪がちらつく夜の中へ、サイゴが霊柩バンを発進させる。前を向く男たちの後ろ、座席に腰掛けた青年は一人、うつむいて自分の膝を見ていた。


――二十分前。

 ワイト専門医だという少年はかなり胡散臭い上、専門外もいいところだったが、彼は「壊死するほど凍傷は酷くはない」と保証してくれた。

 湯でじっくり温めた手はだいぶマシになったが、電話ボタンを押す動きはもどかしい。医院の廊下、備え付けの公衆電話をシーロンは借りていた。

 電話が繋がる。

「かあさん? 今どこにいる?」

石竜シーロン……あの人と一緒じゃないの?』

 いつもと変わらない、ほろほろと鳴く鳥のように儚い声が返って来た。

「逃げてきたんだ。かあさん、今どこ?」

梅雪楼メイシュエロウに行く途中……、あなた、あの人といないの?』

「いない! かあさん、じゃあ梅雪楼で待ってて、すぐ迎えに行くから」

 思わず怒鳴ってしまった自分に顔をしかめる。焦りと苛立ちで、コツコツとつま先で床を蹴っていた。母は少し驚いたように、訝しんだ声になる。

『ねえ、さっきから何をそんなに焦ってるの』

「とうさんが、かあさんを殺すかもしれないんだ」

 少しの沈黙の後、ファリーは「そう」とつぶやいて続けた。

『あなたはもう知ってるの?』

「何を?」

『私、あの日を、こっそり持っていったの。いつか、使うかもしれないと思って。ずっと使わなくて。でも、なぜかあの日は、瓶の蓋を開けられた』

 言葉の意味を理解出来なくて、シーロンはただその音声を聞いていた。

 梅雪楼は、メイファが死んだ最後の家族団らんの場だ。妹は甲殻類アレルギーの、アナフィラキシーショックで死んだ。結論は明白だったが、彼はそれを拒否した。

『梅雪楼に行くのはやめる、まだ殺されたくはないもの。でも、どこに行けばいい? シーロン、あなたは来てくれる?』

 視界の端に、刑事と鎮伏屋が廊下へ出てくるのが見えた。

「かあさん、おれは」

 何か言いかけて通話が切れる。いや、自分で切っていたのだ。

「どうした、まずい事態か」

 マキールに声をかけられ、シーロンはゆっくりと首を振った。

「あなたが思っているようなことは、なにも」

 この刑事はイーシェンが母を既に捕まえたとか、そんな事態を想定しているのだろうが、実際はもっと酷い。しかも、この場で話すわけにもいかない。

「梅雪楼に行きましょう」

 実の母が人殺しだなどとは。妹は母親に殺されたなどとは。

 言えるわけがなかった。


                 ◆


 梅雪楼の門前に植えられた梅は、不凋ふちょうの花だ。還死剤が発明されるよりも前、中国のとある薬師が育てた、花が落ちもしなければしぼみもしない樹。どうやってかインゴルヌカに持ち込まれ、吹雪の中でも花弁が艶やかに色を放つ。

 以前学者が調査した結果では、「現存唯一の植物ワイト」とのことだったが、不思議なものだ。娘は散らない花の元で、その命を散らした。今は、もう、娘は死なない。この梅と同じ、凋まない花になった。いずれ、妻も息子も、皆そうなる。

「妻が後から来るんだ、個室を頼む」

「かしこまりました」

 梅雪楼のウェイターはイーシェンを覚えていた。そういえば、まだここのオーナーを殺していない。足首から先を失った雪螢シュエインは車に置いてきたが、メイファは伴っている。ファリーの後で殺そうと決めた。

 通路の壁には精緻な梅の絵が彫り込まれ、林の中を歩いてる気にさせられる。冥府の梅花林だ。窓の外には、夜闇に白く光を散らす吹雪、花びらが舞うように。

 一人と一体が案内された個室は、海をテーマにした瑠璃色で統一されていた。椅子を一つ引いて、メイファのワイトを座らせる。

「お連れ様がお見えです」

 自身も席につこうとすると、別のウェイターが現れてそう告げた。通してくれと言いかけて、言葉が止まる。ウェイターの後ろから現れたのは、ファリーではない。

「……シーロン」

 それに、鎮伏屋とそのワイト、チウコウが捕らえた刑事。鎮伏屋は顔に傷痕があり、刑事も息子も凍死しかけて顔色が良くないが、ひとまず生きている。

 イーシェンは手振りでウェイターらを下がらせた。彼らが退出したのを見てから、エヴァ49が着席しているメイファの肩に手をかける。刑事が口を開いた。

「ワン・イーシェン、殺人および殺人未遂、誘拐と監禁、更に死体密売、児童死体還死化利用違反を含む第一級死体損壊等罪、以上の容疑でお前を逮捕する」

 刑事の隣から息子が進み出て、招くように手を広げながら言った。

「もう終わりだ、とうさん。もういいだろ、シャオメイを休ませてくれ」

「お前を傷つけたくなかった。生きているような死体にしたくて」

 心からの本音だ。刃物や銃は使いたくなかった、だから冷凍庫に閉じ込めたのだが、薬を使ったほうが良かっただろうか。今更言っても詮ないことだ。

「マキール、そういえば手錠は」

「ない。手帳と銃以外取られたままだからな」

「じゃ、これ」

 鎮伏屋は刑事に手錠を差し出した。官給品ではなさそうだ。

「なんで持っているんだこんなの。もうすぐ警官隊が来る、それまで、おとなしくしてもらえばいいだろ。メイファのワイトも、手放してもらおう」

 丁重に断って手錠を突っ返した時、ホールで悲鳴が上がる。「来たか」と刑事がつぶやき、イーシェンは苦笑して、観念したように両手を挙げた。

 個室の扉が蹴破られる。二人の女が、片方を羽交い締めにして入ってきた。

 亜麻色の髪に、翡翠色のマンダリン・ガウンを着た女ワイトは、長さの違う足でよたよたした動きだったが、その怪力に華奢な女性が抗えるはずもない。

妈妈かあさん

花梨ファリー

 外の車に置いてこられたシュエインが、梅雪楼にやってきたイー・ファリーを捕らえて、この場に現れたのだ。


 ファリーは怯えて縮こまる小鳥のような女だった。だがその恐怖は飽和して、夜の海のように茫漠とした、正体の掴めない夢心地に変わっている。震えて眠る鳥だ。

「どうしてここに!」

 切実な息子の叫びに、母は他人事のような、ぼんやりとした様で答えた。

「だって、迎えに来てくれるって言わないから。ここに来たらいると思って」

 白々しい拍手がその言葉を打ち切った。

「ああ、シュエイン、よくやった」

 テレビ司会者じみた大げさな身振り。

「あなた方、このまま私をおとなしく行かせてください」息子を指さして。「シーロン、お前は一緒に来るんだ。母さんの命のためだ」

「どうせ殺すつもりだったんだろうが」

 マキールはグロック17を抜いて構えていたが、イーシェンはもはや意に介さない。

「はは、その通り。でも、そう、ここは偉大なる死霊都市、因戈爾恩岡インゴルヌカですよ。死体になっても、家族団らんは出来ます! きっと生きていた時よりも!」

 瑠璃色の部屋に哄笑が響いた。死者が歩き、死体が動く町で、それでも、イーシェンの願いは人形遊びと変わらない。人を慰めるのは人形の仕事の内だが、人間を人形にすることは出来ないのだ。死体人形の腕の中、表情のない顔がぽつりとこぼす。

「ああ、やっぱり、あなた許してくれないのね」

 妻の言葉に、イーシェンは優しく微笑みかけた。

「ファリー、何を言っているんだい。許すよ、君のことはすべて許す」

「でも、私がメイファを殺したのよ」

 ぴたりと。

 時が、止まった。

 数秒の間を置いて、イーシェンは唇を舐めて湿らせ、ようやく口を開く。

「……今なんと?」

 サイゴも、マキールも、夫妻の様子を注視していた。

「私が、あの子の料理に、蟹の出汁を入れたの」

「やめてくれ、かあさん!」

 我が子の絶叫が耳に入らないように、彼女の告白は続いた。

「ずっと殺してやりたかった。だって、私は私なのに、あれは、前の私みたいな顔して。死んでしまえって。私、わたし。とられるの、怖くて」

 堰を切ったように語る唇を、夫がそっと塞いだ。愛撫するように、妻の顔を手で包み、慈愛の眼差しを投げかける。きっと、これまで何度もそうしてきたのだろう。

「愛してるよ」

 そう言って、イーシェンは、女ワイトの耳元に何か囁いた。

 次の瞬間、シュエインは命令通り、ファリーの頚椎をへし折って殺した。

 メイファのワイトは、座ったままそれを見つめていた。

「かあさん!!」

 シーロンはマキールを突き飛ばし、構えていた銃を奪った。凍傷した手は死に物狂いになった青年に勝てず、それを許してしまう。安全装置は解除されていた。

 エヴァ49を振り払って、メイファのワイトが立ち上がる。だが即座に抑えこまれた。シーロンの銃口が父親に狙いをつける。サイゴが足を払い、シーロンは転倒、マキールは銃を取り戻した。泣き崩れる青年に向かって刑事は怒鳴る。

「これ以上、家族で殺し合ってどうする!」

 出入り口は、イーシェンが背を向けた壁の反対方向だ。彼はもはや逃げ場がないことを知っていた、その上で妻を殺し、他の表情を忘れたように微笑んでいる。

 うわごとのように母を呼びながら、シーロンは遺体の傍まで床を這って行った。

「シュエイン、ファリーを離しなさい、優しくな」

 命令通り、女ワイトは抱えたままの死体をそっと床に降ろす。シーロンは半身を起こしながら、亡き母の体を抱き締めた。潤んだ目が何かに気づいて、見開かれる。サイゴもマキールも、それを目ざとく発見して違う方向へ動いた。

 シーロンの手に再び拳銃が現れる、バレルの短いオートマチック拳銃、夫に殺される可能性を考えて、自宅に引き返して持ってきた護身用コルト。

 サイゴが彼の手首を掴んだのは、発砲された直後だった。

 放たれた弾丸は、皮膚を破り、肉を貫き、骨を砕いて痛みを爆ぜさせる。

 イーシェンの前に飛び出したマキールは、脇腹を撃たれて倒れこんだ。

「やめなさい、シュエイン!」

 シーロンの顔を張り飛ばす寸前で、シュエインは手を止めた。エヴァ49に組み敷かれたメイファのワイトは、もがこうとして不活性剤を打ち込まれる。

「ばか! なにしてるんだよ!」

 誰にともなく言って、サイゴはシーロンを放り出し、友人に駆け寄った。サイゴはシーロンに近く、マキールはイーシェンに近かった、だからそれぞれの方へ行った。だが、まさか盾になって撃たれるとは。本人もそのつもりはなかっただろうが。

「そいつは、君を殺そうと」

 壁際でイーシェンが動く気配を感じて、サイゴはそちらに銃を向けた。

「動くな!」

「おい、殺すな……」

 苦しい息の下からマキールが止める。

 脇腹と腰を血に染めながら、手を伸ばしてサイゴの肘に触れた。ワン・イーシェンはあくまで法の裁きを受けさせるぞ、という言外の宣言。

「刑事の前で死体を増やそうなんて……、良い根性だ」

 眉間にしわを寄せ、長く細く、サイゴはため息をついた。ワン・イーシェンは確実に殺してやるつもりだった。どさくさに紛れて、あるいは何十年先でも、必ず。

 だが、今日ばかりは友人のため、それを諦めるしかないようだ。

「それじゃタンゴも踊れないよ」

「寝て過ごす休暇も悪くない」

 言葉を交わす鎮伏屋と刑事の傍ら、うずくまった青年が、声を上げて号泣を始めた。通路からどたどたと、銃声を聞きつけた人々の足音が殺到する。

 瑠璃色の部屋には、動きを止めた死体が三つ、動かない死体が一つ、生きた人間が三人。梅は凋まぬ花のようになっても美しいが、人は同じく時を止められるだろうか。生きている限り、それはあり得ない。

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