Ⅵ 追う者・追われる者・終われぬ者

 教会を出ると、黒く陰った家々の屋根が、落日にかじりついていた。雪をかぶった石畳の街路に、ふうと自分の息が吐き散らされるのを眺める。サイゴは後ろを振り返り、教会を一瞥いちべつした。文字のかすれた看板は、かつて、ここが冥福派の礼拝堂だったと示す。歩く死者たちを拒む神の家だ、インゴルヌカには似合わない。

「行こうか、エヴァ」

 忠実なる喪服の淑女は、サイドカー仕様の霊柩バイクにメイファの体を積み終えていた。ウラル・ハース750cc。ギアアップから発展した、銃架標準装備モデル。

 彼女の席はいつもなら棺桶側だが、先客がいるのに、その上には腰掛けられない。サイゴがバイクに跨ると、エヴァ49はその後部座席に腰を下ろした。

 始動したエンジンの唸りが、辺り一帯の雪片を震わせる。走りだしたバイクのわだちに、長く長く影が引き伸ばされていた。その先には、夕闇が迫っている。

 雪を含んだ風は、霜付いたカーテンを思わせるざらついた感触だった。ヘルメットと防寒具越しにそれを感じながら、サイゴはへらりと呟く。

「公務執行妨害しちゃったなあ」

 この程度でマキールは諦めないだろう、気絶から目を覚ませば、何が何でも追ってくるに違いない。だが依頼人が求める以上、自分はメイファを一刻も早く届けるだけだ。捕まるのが先か、届けるのが先かの追いかけっこ、楽しい仕事じゃないか?

――妹を、せめて一度家に連れて帰りたいんです。

 イーシェンは依頼の段で、自らがメイファの父親であると明かした。死体置き場から盗まれた娘の遺体がワイトにされているのを見つけ、買って取り戻した、と。

 だが、それはおそらく嘘だろう。サイゴは足取りを追っている内に、シーロンが息子だと気がついた。この父と兄はあからさまに上手くいってない。

(妹、妹ね。さぞかし良いお兄ちゃんだったんだろうな)

 自分にもかつて妹がいた、前生の妹。血が繋がってるだけじゃない、家を出て行くまでの半年間、ただ一人最後まで家族として接してくれていた妹が。

 それはただ、幼すぎて兄の死も、よみがえって別人になったことも、理解できなかっただけにしても。顔を合わせれば挨拶して、食事の席で皿を渡したり、夜中に怖いからトイレについてきて欲しいと言い出したり、一緒にピアノを練習したり。そんな他愛のないことばかりが、愛しくて。だから、あの子だけが家族だった。


 全てのゾンビに共通する、強い強い、致命的な心的欠陥――〝愛〟への飢餓。

 よちよち歩きの幼児期、言葉も達者になって社会のなんたるかを学ぶ少年期、勉学と青春の若年期。その全ての時期において、どれだけ他者と触れ合い、喜びを分かち合おうとも、それは殆どの場合、だ。

 自分ではない、今はもういない、かつていた別の誰かへの、愛。愛という言葉が悪ければ、注目や関心、興味と理解、そして共感だ。

 それは、肉体や記憶のように、他人のお下がりとして受け取ることなど決して出来やしない。だから、彼らは飢えるしかないのだ。


                 ◆


 人生で数えるほどしかない、寝坊したという確信を覚えた瞬間だった。目を開くと、物が何重にもブレて見え、安定しない。

 それでもここが、自分の寝室ではないことは分かる。繰り返しまぶたを動かしながら、マキールは徐々に何が起きたかを思い出していた。絞め落とされたんだったか、電撃を喰らったんだったか、とにかくサイゴの奴に気絶させられたのだ。

ブラットシニーちくしょう……」

 祖母に知られたら怒鳴りつけられそうな汚い言葉。体の感覚が戻るのを待ってうつ伏せから起き上がると、鈍重な頭痛と吐き気、めまいがまとめて襲いかかってきた。それに、首の後ろのズキズキした痛み、それら不快感の嵐を堪えて立つ。

「覚えてろよ、あの野郎……ブチ込んでやる……」

 廃教会は茜の色がまだ濃く、時間がさほど過ぎてないと知れた。上げた視線の先、いまだに再起動せず硬直したままのE.E.が見える。シーロンの姿はなく、さっきまで彼が転がっていたあたりに、切られた結束バンドが落ちていた。

「あンのガキ!」

 マキールはE.E.の眼窩から警棒を引き抜くと、手早く状態を確認した。電撃を浴びせられ続けていたため、脳と神経系が随分焼かれているようだ。ワイトはフィラメントで動くとはいえ、脳も補助的なメモリーや演算装置としての役目を持つ。

 少し迷ったが、マキールはE.E.の首筋に薬液を打ち込み、教会を後にした。完全にジャンクとはなっていなさそうだから、還死剤を与えておけばやがて再起動するだろう。メイファの体を逃した以上、あの青年だけでも確保したかった。


 もはや、どこへ行こうというあてもなかった。街路に人通りはなく、雪の上に唯一残された轍を、あの司鬼導手テイカーのものと判断して追いかける。三叉路にさしかかり、轍の数が増える。どれが自分が追っていたものか判別がつかず、立ち尽くした。追われているのは自分自身もなのだ、迷っている暇はない。

(早く、あの刑事さんに見つかる前に――)

 シーロンは切り傷だらけの手で鼻をこすって、顔をしかめた。持っていたナイフで拘束を解いたものの、何度か仕損じた結果だ。ぽん、と誰かが肩を叩いた。

「ハンカチ貸してやろうか?」

 反射的に振り返ると、見覚えのある白く端正な顔。逃げようとしたが、それは無駄なあがきにしかならなかった。瞬く間に組み伏せられ、手錠をかけられて、シーロンは観念する。こうなっては、メイファのことは警察に任せるしか無い。

「よし、そのまま大人しくしてろ」

 マキールは軽くボディチェックすると、ノリンコM213と折りたたみナイフを取り上げた。週が変わって、勤務シフトは夜番から昼番に交替、十七時には上がりということになっている。今日の所はこの小僧を引っ立てて、調書を取ったら一段落だろう。腕を引っ張って青年を立たせ、ふとその手に目を留めた。

 シーロンの手のひらは、親指の付け根から手首にかけてざっくりと切り裂かれていた。うっかり刃先を突き入れてしまったのか、少々深そうな穴も開いて、生乾きの血にまみれている。マキールは先の言葉通り、ハンカチを取り出してそれを拭うと、傷口を覆って縛った。シーロンはやや驚いたようだったが、神妙な面持ちで、されるがままになっている。疲労に濁った眼と横顔が、ひどく幼く見えた。

「……お前、歳いくつだ」

 マキールからしてみれば、東洋人はやたらと童顔で年齢が測りにくい。初めて出会った時のサイゴも、十二か三だろうと思っていたら、なんと十七、八だった。

「来月で十八です」

「そうか、やっぱり亜細亜系は分からんな」

「いくつだと思ったんですか?」

「……十四」本当は十二、三だと思っていたが訂正した。

 シーロンは眉をへにゃりと波打たせて沈黙する。実年齢よりずっと幼いと思われていたと知った時、サイゴもこんな顔をしていたものだ。

 あれからもう十年、自分はあの友人のことを、結局まだよく分かっていない。あるいは、自分が分かろうとしていなかったか。サイゴは人当たりは柔らかいが、どこかしら線を引いてるような所もある。自分もあえて踏み込もうとしてはこなかった。

「……えっと、刑事さん?」

「ああ」

 シーロンの怪訝な声で、マキールは物思いを断ち切った。

「一緒に署まで来い。お前とワン・イーシェンの関係、イー・メイファの関係、あの夜の行動、諸々詳しく聞かせてもらう」

 取り繕うように言葉を続ける。この事件に、ぼんやりしている暇はない。

「父親が、自分の娘をワイトに変えて、人を殺させる。何を考えているか知らんが、個人的には下劣な真似だと思うね」

「何を考えているか、ですって?」

 細く息を吐き出すような笑いが、シーロンの口から漏れた。

「そんなの、復讐に決まってるじゃないですか!」

 マキールは「何?」と目を瞬かせて聞き返した。

「彼女の死因は甲殻類アレルギーだろ。しかも殺されたのは、あの店のオーナーでもなんでもない、マフィアの幹部だぞ」

 青年の顔からは、ずっと張り付いていた疲労の色が、煮え滾る情念の火にかき消されていた。ぎり、と目を剥いて、笑いと苛立ちで弾け飛びそうに口を歪めている。

「その殺された幹部ってのは、賭場を経営して、オーナーに借金を背負わせていたんですよ! 本当にそいつが指示して、海老が入った料理を出したかなんて分からない。でも、あいつが、イーシェンが念入りに注文しておいたのに、アレルギーが出るなんておかしかったんだ! あっという間だった、気がついた時には、もう、もう」

 手に巻いたハンカチには血が滲んでいた。同じように、シーロンの目からも、涙が滲む。妹を失って、心に開いた真新しい傷痕が、癒える気配もなく血涙を流す。父も兄も、彼女に生きていて欲しかっただろう。もう一度立って、歩いて、話して欲しかっただろう。だが、それでも彼らのやったことは間違っている。

「確か店の名前は梅雪楼メイシュエロウだったな。詳しい話の続きは後だ、いくぞ」

 来た道を振り返ると、E.E.ががしゃがしゃとふらつきながら、どうにか追いついてきた。頭部パーツは交換になりそうだが、何とか動けるようでほっとする。黄色と黒の死人用制服姿、その後ろに、異様な風体の中国人が立っていた。

 朱の線があしらわれた黒い漢服と、その上から羽織られたコート、灰色の髪。その装い自体は変わったものではない。異様なのは、目鼻口を上書きするように、狼の顔が彫り込まれていることだった。どういうセンスなのか、マキールとしては理解に苦しむが、威嚇の効果は充分ありそうだ。

 狼面の男は肩をそびやかし、千鳥足のE.E.には目もくれずに横をすり抜けた。野卑な笑みを浮かべながら、中国語で話しかけてくる。

「ヨウ、坊っちゃん。お久しぶりです。お迎えにあがりやして」

 シーロンはチウコウ、とその男の名を呟いた。

「嬢ちゃんは司鬼導手の哥哥にいちゃん……じゃ、ねえや。先生が連れて行った? 結構、結構。さ、大人しくついてきてくださいよ、坊っちゃん」

 狼面の話してる内容は、六割ほどマキールにも理解できた。手を懐のガンベルトに伸ばしながら、「なんだこいつは」と、シーロンに説明を求める。

「父が雇ってる用心棒のようなものです。左腕左足が〝筋金フィラメント入り〟UD義肢の、危険なやつです。……逃げたほうがいいですよ」

 フィラメント――死霊回路は、生体には根付かず、激しい拒絶反応をもたらす。そんなものが入った移植臓器や四肢は、寿命を縮め、生涯、抑制剤が手放せなくなる。

 当然違法だが、生身のそれよりも優れた性能を持つことから、それを求める者は後を絶たない。霊安課が取締対象にしている物の一つだ。

「そんな話を聞いて、おめおめと逃げ帰れる訳がないだろう。お前は重要参考人だ」

 とはいえ、どうにか再起動したE.E.がどこまで頼りになるかは、マキールとしても微妙な所だ。生身の相手ならまだしも、違法UD義肢を持つ人間は、半ワイトとでも言うべき戦闘力を備える。

 更に、マキールが持っているのは、支給されたグロック17――対アンデッド戦を想定していない、対人用拳銃だけだ。このままでは、あまりに分が悪い。

「そいつを止めろ、E.E.!」

 意を決してマキールが命令を下すのと、チウコウが回し蹴りを放つのはほぼ同時だった。身を沈め重いタックルを放つ屍体警官にぴたりとカウンターを合わせ、延髄にえぐり込むような一撃を見舞う。マキールはシーロンを連れて駆けだしていた。

「大人しく寝てろよガラクタぁ!」

 行動不能にしなければ、ワイトから逃れるすべはない。時間稼ぎと分かってはいるが、チウコウはE.E.に対応するほか無かった。だが男に焦った様子はなく、狼を模したその顔に、楽しげな獣性の笑みを浮かべる。

 頚椎が折れたE.E.は、首をあらぬ方向に曲げながら距離を取ろうとした。その顔面を、しなやかな腕の伸びからの拳で抉り、もぎ取る! 戦闘型ワイトと遜色ない、フィラメントに強化された上肢じょうしが繰り出す、屍鬼の拳法だ。

「ハッハァ!」

 視聴覚しちょうかくを失ったE.E.は、棒立ちから身動きが取れない。後はチウコウが一方的に拳を突き入れていくばかりだった。

 大地を揺るがす踏み込みの威力を乗せた拳が、流星のように尾を引いて荒れ狂いながら、確実に屍体警官の四肢を削る。蹴り上げ、叩き落とし、骨を砕いて、肉を裂く。溢れる血の代わりにほとばしる真紅は、新鮮な還死剤。冬の空気に触れて、黒く酸化し、揮発して消えていく。その蒸気を突き破ってチウコウははしった。

 雪の街路に色濃く広がるマカル・インセンスは、ワイトが放つ独特の芳香だ。後には、四肢を全て破壊され、無力に転がるだけのE.E.が残されていた。

 後ろ手に手錠をかけられたシーロンは、明らかに走りにくそうにしている。腕を引っ張って逃げながら、マキールはここまで乗ってきた警察車両を目指していた。来た道を戻ればすぐそこなのだが、教会側から来たチウコウを避けるため、大きく迂回してしまっている。振り返ると、あの漢服姿が小さく視界に入った。

「おい、嘘だろ」

 E.E.は戦闘ではなく、盾になる守り役を主眼とした設計だ。一般的な戦闘ワイトでも、行動停止に追い込もうとすればそれなりに手間取る。脳を焼かれたことでかなりパワーダウンしたとはいえ、チウコウの速さは予想を遥かに上回っていた。

「あいつは手足の他にも、自分の体に直接フィラメント入れてるって噂ですよ」

 思い出したようなシーロンの言葉に、マキールは青い目を剥いた。

「なんだその人体改造マニアの変態は! そこまでするバカは、映画でしか見たことがないぞ。そもそもそんな技術が現実にあるのかよ!」

 事実だとしたら、かなり嫌なニュースだ。それこそ、軍隊では生きた人間にフィラメントを導入する研究がされているという噂はまことしやかに囁かれているが、荒唐無稽なSFガジェットの部類と言っていい。

「そこまで知りませんよ!」

「なら適当なことを言うな!」

 怒鳴り合う両者の間を、何かが高速で通り過ぎ、轟音を立てて目の前の石壁に突き刺さる。それは、根っこからもがれたアラビア語の道路標識だった。

 なんで自分は超娯楽アクション大作のようなリアリティの次元に放り込まれているのだろう――心底神に嘆きを届けたい気持ちで、マキールは嫌々振り返った。

「そろそろ終わりにしようや」

 いつの間に距離を詰めていたのか、すぐ目の前に、狼の刺青をした顔があった。

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