Ⅴ 汝の名は正義

 アブラハムの宗教にいわく。〝最後の審判〟の日、全ての死者はよみがえり、天国と地獄に振り分けられる。故に『それを待たずして、人の手で死者を目覚めさせることは、神への反逆に他ならぬ』と言うのが、旧来のキリスト教の主張だ。

 ゾンビたちは、それを〝冥福派レクィエスカト〟と呼んで区別した。

 インゴルヌカで主流を占めるのは、神の手によらない復活・ゾンビやワイトを認めた〝キリスト教ラザリ派〟になる。世界的に見ればそちらの方が異端だが、生まれた時から既存の宗教に否定されるゾンビたちには、他によるべとなる信教もない。

 小さなステンドグラスは所々が割れ砕け、辛うじて簡素な十字架の絵を残していた。午後二時過ぎの夕日がそこから差し込んで、冬の日没まであと一時間もないことを示している。十数人程度で満杯になりそうな礼拝堂、屋根の一箇所には穴が開いて、そこから砂山のように雪が降り積もっていた。

「こんなもので、ごめんよ」

 鉄棺桶から出したメイファの体を長椅子に座らせて、ライダースーツの青年はアンプルを開封した。既に関節が固まりかけており、危険な兆候だ。少し頭をうつむかせ、首の後ろに針を刺し込む。手袋を外した手に、厳しい寒さが堪えた。

 手っ取り早く手に入れた還死安定剤マイナーネクターは、ネオングリーンの汚らしい粘液だった。正規品かどうかも怪しいが、還死剤が一定期間投与されなくなれば、シーグィワイトはもう一度「死」ぬ。その時、死体は二度と還死剤を受け付けなくなり、通常の何倍もの速度で腐敗して、急速に朽ちるのだ。安全な場所へ逃げ切るまで、彼女の動きを止めてはならない。せめて最期にもう一度、母の元へ連れて行ってやりたかった。溜め息が茜色に曇って漂う。

少苺シャオメイ……」

 還死剤を投与し終えて、青年はもう一度、長々と嘆息たんそくした。中途半端に伸びた黒髪が、耳にかかってサラサラと揺れる。メイファと同じ東洋人の顔に、薄墨を塗りたくったような昏い影を背負っていた。でなければ、陽だまりが似合いそうな涼しい目元だったが、今の彼は状況の対処に追われ、憔悴しきっている。

 メイファの体を奪って三日、いつまでも逃げ回る訳にはいかない。今回、事の手引きをしてくれた龍々子ロンロンツ――パン本家筋構成員の元へ行ったが、血の跡を残して消えていた。恐らくもう生きてはいまい。

 彼女の体を奪うという目的こそ達成したが、それ以外の何もかもが予定外なことばかりだ。自分は今、ワン・イーシェンと警察の双方から追われる身だった。

 インゴルヌカにはワンコインから係員付きまで、様々な死体用冷凍庫貸し出しサービスもあり、それを利用する手も一応あった。だが、消えたロンロンツ以外の所では、とても安心して使うことは出来ない。季節柄、長期間死体を活動させても傷むことは無いが、稼働が長引けば長引くほど、必要とする還死剤の量は増えていく。

 医者に寄って間に合わせの義足でもと思ったが、くっついたのは椅子の脚のような棒っ切れ。それだけで大半の手持ちが飛んだ。きちんとワイトのパーツを買えば、膝下から先の足はおよそ七、八百欧元ユーロ。だが、メイファ本来の足ならもっと高くつくだろう。あの男なら、職人に特注で作らせていてもおかしくない。

 メイファに付けられていた装飾品のいくつかを売り払ったが、慣れないことをしたせいか、二束三文で買い叩かれてしまった。

「結局、おれは世間知らずの坊っちゃんなんだな」

 自嘲するように呟いて、青年は少女の頬を撫でた。滑らかな手触りは、生前からのきめ細かさだけではなく、死後硬直でぴんと張った皮膚のそれが作っている。陶磁器じみたその感触と、微動だにしないメイファの反応に、それが改めて物でしかないと思い知らされ、青年は拳を握りしめた。

 目を閉じれば、夏の青い空がよみがえる。ラップランドの短い盛夏、太陽の光をいっぱいに浴びて、ひまわりのような、王冠のような麦わら帽子に黒髪を飾られた少女が、花畑で笑っていた。家族が皆で笑っていた。あの夏はもう戻ってこない。

 物思いにうつむく青年の、その頭の後ろ。

 そこに、天井に張り付いた喪服の女が、夕日に照らされていた。


                 ◆


 アンダーテイカーは厳しい商売だ、なにせ死体密売組織とよくぶつかる。彼らは犯罪者集団で、荒事の得意な連中を揃え、大抵は違法なワイトを戦闘員にしている。丸腰ではすぐこちらが死体にされて、彼らの陳列棚行きだ。ではどうするか?

 対物ライフル、戦車、戦闘用ワイト。このどれかがあれば安心だ!

 冗談じゃない、しがない民間業者に前二つが手に入られるものか、って? だからアンダーテイカーはみんな戦闘用ワイトを連れている。ただし厳格な審査を通って所持と運用の資格を取り、事故が起きた時のための保険をガッチリかけてから。

 ワイトを使用した殺人は重罪だ。うっかり事故を起こした時も、飼い犬が人を噛んだどころの話ではない。軍隊や警察と違って、個人で扱うのは何ともリスクが高い代物だ。しかし安心して、人に向けてワイトを放てる状況というものがある。

 それは、相手が違法ワイトを所持しているか、ワイトをけしかけてきたか、違法なUD四肢を使っている場合だ。この時ばかりは、堂々と人間をワイトで攻撃してもほぼお咎め無し――〝正当防衛〟さえ認められる。

不要动うごくな!」

 天井からエヴァネッセンス49が飛び降りると同時、サイゴは銃を手に礼拝堂へ飛び込んだ。刃物を手に動き出した少女ワイトはエヴァ49に任せ、銃口をライダースーツの青年へ突き付ける。不意を突かれ、呆気にとられた顔に疲労の色が濃い。

「……どうしてここが」

 大人しく両手を挙げながら、青年は訝しんだ。わざわざフィン語で問うてくる。

「足跡がベタベタに残っていたよ。怪しげな還死剤売り、医者、質屋、このへんに住み着いてるホームレス。みんな、君のことを隠す義理は特に無いからね」

 青年は悔しげに唇を噛んだが、実際楽な仕事だった。この子はともかく、問題なのはワイトの方だ。最大限傷つけないよう、しつこく言い含められている。

 少女の青龍刀と貴婦人のトンファーが打ち合い、斜陽の廃墟に火花を散らした。銃も刃物も損傷を引き起こすからダメ、だが素手で刃物に挑んでは、今度はエヴァ49の方が傷つけられる。となると打撃武器がいいだろう、とサイゴが新しく持たせた。

「メイファ、逃げろ!」

 青年の叫びに、少女ワイトは特に反応した様子はない。ただ黙々とエヴァ49との戦闘を続行。どういう行動ルーチンを組んでいるかは知らないが、サイゴは青年の顎を蹴り上げ、足を払い、地面に押し倒して両腕を捻り上げた。苦鳴が上がる。

「モータルは辛いね」

 ゾンビならば痛覚をオフに出来るが、青年はそうではないらしい。

 両目を狙う横薙ぎを体を低くして避け、エヴァ49は少女の義足を掴んだ。トンファーで打ち据えると、応急処置されたそれは根本から外れる。バランスを崩した華奢な体は、刃を喪服の背中に突き立てて転倒を堪えた。内臓の代わりに緩衝材クッションを詰められた腹部から刃先が突き抜けるが、エヴァ49は体ごと捻って剣を奪い、同時に少女を投げ飛ばす。矮躯が宙を舞い、もう一本の青龍刀をエヴァ49に投げつけた。背中から腹まで斜めに貫かれたため、少々ぎこちないが素早い動きで、エヴァはそれをかわしながら突進。追撃を加えようと少女を追う。その後ろで、青龍刀が背もたれを両断しながら長椅子に突き刺さった。メイファは埃を立てながら、説教壇の上に着地。顔を上げると、葡萄のような瞳いっぱいに、喪服の女が映っていた。

 並べられた長椅子の海、背もたれを叩いて側転すると、そのまま両足で少女の首を挟み込み、二本の腕で彼女の足を、もう二本の腕で手を掴み、丸め込むようにして捕まえてしまった。四肢を一纏めにされ、メイファはもがくが、四つの腕と足で作られた檻は固く閉ざされている。青年の腕を拘束したサイゴは、絡み合う二者に悠然と近づいた。不活性剤のアンプルを取り出し、メイファの首筋に打ち込む。

 するりとエヴァ49が拘束を解除し、サイゴは首を傾げた。

「エヴァ? まだ薬が効き切ってない」

 投与した以上、大人しくなるのは時間の問題だが、完全に動きを止めてから手を離すよう伝えたはずだった。こうした勝手な行動を取ることは通常ありえないが、例外があるとすれば、他に敵がいる場合だ。エヴァ49は礼拝堂の裏口を指差した。

「誰だ」

 銃を手に誰何すいかすると、「なんだお前か」と聞き慣れた声が返る。警察のロゴが入った防寒コートの二人組。片方は黄色と黒の、死体用制服を着ていた。その顔面はガスマスクで隠されて、人相をうかがい知ることは出来ない。

「マキール? 君が追ってたのか」

「そりゃこっちの台詞だ」

 面倒臭そうな顔をして、マキールは「こいつは前に会ったな?」と、ポリスワイトのE.E.を指した。「まあね」と頷きながら、さてどうしたものかとサイゴは考え込んだ。霊安課、それも友人が絡むとなると、出来るだけ穏便に事を済ませたい。

「悪く思うなよ、サイゴ。警官として言うが、そこのグール野郎と、死体置き場から盗まれたイー・メイファの遺体はこちらが引き取る。お前が誰から何の依頼を受けたかは聞かんから、今日の所は帰ってくれ」

 友人のよしみで柔らかく言ってはいるが、マキールはあくまで警官の顔をしていた。E.E.はハンドサインで指図されて、動きを止めたメイファの元へ棺桶を引きずっている。逆らうならサイゴもエヴァ49も諸共に引っ立てる気だ。

 にも関わらず、表情を逆光の影に沈めながら、サイゴは断った。

「そうしたいのは山々なんだけど、ここで帰る訳にはいかないんだ」

「その子を変態野郎の所に返すのか?」

 怒りの光が、ナイフを抜くようにマキールの目に宿った。未成年の死体をワイト化し、それを使いたがる連中がほぼろくでもない変態なのは、サイゴにだって分かる。だが、多少それとは毛色の違う奴だっているのだ。

「うちの喪主クライアントは、この子の父親だよ」

 ワン・イーシェンの妻、益花梨イー・ファリーは現在夫と別居中だ。でなくとも、中国では夫婦別姓はごく普通のことである。

「そして君は、兄の益石竜イー・シーロンだね」

 サイゴから急に振られ、思わず青年は頷いた。地面に転がされ、鼻血を垂らしたまま、徐々に身を起こそうとしている。両腕の拘束は固く、自力で外せそうにはない。

「あの刑事さんのことは、すいません。でも、少しだけ待ってください! 妹を、せめて一度家に連れて帰りたいんです」

「市民。それは市警がやるから、お前は安心して逮捕されろ」

 地獄へ落ちろのハンドサインと共に、マキールはすげなく答えた。一歩間違えれば、ジュネイはあのまま斬り殺されていたのだ。

「でも悲しい話だよねえ。実の父親と息子が、家族の亡骸を取り合っていたんだ」

「だからなんだ」

 いつものように、サイゴはのほほんとした微笑を浮かべていた。それはマキールの目に、達観と霊知の不可解な、どこか本心を隠した表情に映る。

「どっちでも同じだ、父だろうが兄だろうが、俺は死体を追う霊安課だ。片方は少女の遺体を盗んでワイトに変え、もう片方はワイトで警官を傷つけた」

 知らず知らずのうちに、マキールは友人の胸ぐらを掴んだ。

「そのどれか一つでも、生前の彼女が望んだのか? 人間は死んだ後でも人間だ!」

 燃え上がるような激情に任せて言葉を吐く。それを見るサイゴの目は冷めていた。

「葬式も、故人を偲ぶのも、死んだ後も続く思い出全部を含めて、亡くなったその人そのものになる。そこにしか死者の居場所はない。それを蔑ろにするのは、生きた人間を蔑ろにするのと同じことだ。違うか!」

「違わない、違わない。君は間違いなく正義だよ、マキール」

 そう語る声は、ひどく不均衡にぐらついていた。何かを決めかねているような、足元を崩されたような、パーツをでたらめに継ぎ接ぎした幽霊のような。

 ただ、サイゴの黒い双眸は、眩しい物を見るように細められている。それは金色の矢になって窓から差し込む、沈みかけた太陽のせいではない。

「だから僕たちはそうやって、前生の人間を喰い尽くしてしまうんだ」

 ゾンビの姿は、故人を知る者たちの心を、傷つけ続ける。死んだはずの体を動かして、もういないはずの人の顔で、かつてのその人が決して言わなかったことを言い、決してしなかったことをする。だから、誰も彼もが疎んじずにはいられない。

 たとえ、インゴルヌカで生まれ育ったモータルであっても、親しい者がゾンビと化した時、それまで通りに接することが出来るケースは、滅多に無いのだ。

「……詭弁だ!」

 胸ぐらを掴んだままだった手を、殆ど突き飛ばす格好で、乱暴に離す。このままだと、得体のしれない冷気で、手が火傷しそうな気分だった。冷たくて熱い怖気おぞけ。礼拝堂を舐め尽くす赤い夕日に、一瞬、灼熱の地獄に放り込まれたかと錯覚させられる。

「ワイトと自分を一緒にするな! お前がゾンビなのは、誰かや何かのせいじゃないだろ。どうしようもないことだ。だから」

 なおも言い募ろうとするマキールを、サイゴは遮った。

「好きに言ってくれ。、仕事しか出来ない」

 ごく自然な動きで、サイゴは友人の手首を握る。

「だから、彼女は連れて行くよ」

 力いっぱい腕を引いてバランスを崩させると、サイゴは肘鉄と膝蹴りでマキールの体躯を挟み込んだ。警官への暴行という点で非常に不味いが、頭を抱えるのは後にしよう。彼のことは好きだし、尊敬もしている。だが、今日は従わないと決めた。

 ワイトは優先的に守る対象を設定されている場合、その危機には自動的に対処する。メイファを収容する作業を中断して、E.E.がこちらへ向かった。その前にエヴァ49が、自分に刺さっていた青龍刀を手に立ちふさがる。

 E.E.は対ワイト電気警棒を抜き払った。フィラメントも電気信号を通す以上、電撃は有効な対抗策だ。だがエヴァ49の喪服ドレスは、メーカー謹製の死に装束アウトフィットで、絶縁処理がなされている。

 青龍刀で警棒と打ち合いながら、エヴァ49は胸元から黒い長手袋を取り出し、四本の腕で持ち替えながら、順番にそれをはめていった。こういったマルチタスクは多腕型の強みだ。

「エヴァ、あまりそいつを壊さず止めてくれ」

 今日は割りと難しいことをさせて申し訳ないと思うが、ワイトはあくまで主人に忠実だった。トンファーがくるくると腰ベルトに収まり、エヴァ49は自由になった四本の腕全てで青龍刀を把持はじする。フルスィングの峰打ちがE.E.の指を粉砕、警棒を手の中から弾き出すと、更に返す刀でかきんと打った。

「ごめんね」

 サイゴは飛んできた警棒をキャッチすると、組み伏せていたマキールに電撃を喰らわせた。ワイト用なので、最低威力にしてもスタンガンとしてはかなり強い。

 マキールが気絶したのを確認すると、サイゴは威力を最大に設定しなおしてエヴァ49に投げ返した。左右の主腕でくるくるとトンファーを揮いながら、左脇下の腕がそれをキャッチする。E.E.は銃を装備していないので、素手で対処していた。

 右足を払い、傾いだ所で腿を踏み台にジャンプ、顔面に膝蹴りを入れながら組み付き、トンファーでガスマスクのレンズを破る。そして警棒を突き入れ、死んだ脳と神経、そしてフィラメントを電流で焼いた。

 そこまでしてようやく止まったポリスワイトを見て、サイゴは「まあ、いいか」と肩をすくめる。一時的な機能停止なので、早くここを立ち去らなくてはならない。

 エヴァ49にメイファを担がせると、後はシーロンが何か言う間もなかった。残されたのは、据えた臭いの煙をかすかに上げるワイトと、気絶した警官。

 自分は一体何をしているのか? シーロンは思わず自問した。多分、一番正しいのはこの刑事だろう。自分がやったことが間違っているのも分かる、だが父が妹にした仕打ちも許せない。しかし、それをどうにかする力は、結局己には無かったのだ。

 。それこそが、悪いのだ。

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