第11話 「結婚の提案」 妖怪「横文字」登場

    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



「ヘイパスパス!」

 シンイチは今日も放課後の校庭で、青いメガネマン・ススムたちとサッカーをしていた。最近ススムはドリブルのフェイントに凝っている。公次がボールを奪いに来たので、ススムはフェイントからもう一度フェイントをかけ、翻弄して抜き去った。

「やるじゃんススム!」

「ダブルフェイント大成功!」とススムは満面の笑みだ。

「『ダブル』ってカッケーよな!」

 と、サッカー後の少年たちは盛り上がる。

「二倍とか二回って言うよりカッケーぜ! ダブルモンスターとか、ダブル攻撃とかさ!」

 とススムが無邪気に言う。

「じゃあ三倍は?」とシンイチが聞く。

「トリプル!」と大吉は得意がる。

「じゃあ四倍は? ダブルダブル?」

「カルテットだろ」とススムが言う。

「それは四人組。クァドラプルだ」と、かっこつけの公次が言う。

「クァドラって略したりもするぜ」

「なんかパッと分かりにくいな! 日本語でいいよ!」

 シンイチは身も蓋もないツッコミを入れた。

「たしかに俺ら、日本人だし」

「三倍とか四倍でいいわ! 無理して英語にするのは恥ずかしいし!」

 少年たちは笑い合う。

 そこへ内村先生から、「依頼」が舞い込んできた。


 職員室で話を聞くと、内村先生の知り合いに、カタカナ英語ばかり言うことに支配され、まともな日本語が喋れなくなってしまった男がいるのだという。

「そんな状態にしてしまう妖怪に、心当たりあるか?」

「実際に見てみないと分からないけど……おそらく妖怪『横文字』のせいでは」


 内村先生は人脈が広く、様々な知り合いがいる。先生の知り合い、蓑笠みのがさ紀子のりこは、今年二十七の美しい会社員だ(絶賛交際中の真知子まちこ先生よりは若干劣るが、と内村先生は前置きをした)。二歳上の会社の先輩、江島えじま憲史のりふみと五年つきあい、そろそろ結婚を考えている婚約者のつもりだったのだが、ここ二、三ヶ月で突然「おかしく」なりはじめたのだという。


「おかしく、というのは?」

 内村先生はコーヒーを飲む口を止めて、向かいの席の紀子に尋ねた。

「急に変な横文字ばかりが、会話に増えてきたんです」と紀子は答えた。

「……横文字」と、シンイチもメロンソーダを飲むのを止める。

 駅前の喫茶店で話を詳しく聞こうと、内村先生とシンイチは紀子と落ち合った。彼女の前では、シンイチは「心理学に詳しく、人の心の変調や精神病に詳しい天才」という設定にしておいた。精神科の先生にかかるのは怖いだろうからまずは少し相談を、と内村は話しやすい環境をつくったのだ。

 紀子は続けた。

「会社の会議とか特におかしいんです。口じゃ説明しにくくて、ケータイで動画を盗み撮りしてきたので見てください」

 会議室で司会をする江島は、このようなことを喋っている。


「本日のアジェンダを、レジュメのタグラインに纏めときました。ローンチとオーソライズは暫くペンディングですので、ビジョンについてはまだスケルトンしか示せるものがないです。マイルストーンを見ておきましょう。中村さんのフィジビリティスタディによれば、ファクトの収集がプライオリティ高めかと。で、先程質問のあったバジェットの件ですが、マージンセーフを考えると正直クエスチョンですが、そこはレバレッジ効かせて、オルタナティブに考えて行きたいと」


「?????」

「……一事が万事、こんな感じなんです」と紀子は嘆いた。

 シンイチは素直に聞いた。

「今の、日本語?」

「日本語じゃないね」と内村先生は答える。

「じゃ何? 英語?」

「うーん。元々は英語なんだろうけど……ビジネス用語というか、ビジネス用語にもなっていないカタカナ英語というか……」

「その人のアナログ写真を見せてくれない?」とシンイチは尋ねた。

「フィルムで撮った写真は、観光地で買った『写ルンです』ぐらいですけど」

 そこには、温泉宿でくつろぐ紀子と江島が仲良さそうに写っていた。妖怪はデジタルに写らず、アナログ写真に写ることがある。フィルム写真があれば持ってくるように、内村はあらかじめ彼女に頼んでおいたのだ。

「どうだい?」と内村はシンイチに見せる。

「ビンゴ」と、クリームソーダの上のアイスを舐め、シンイチは言った。

 浴衣の江島の右肩に、妖怪「横文字」が心霊写真のように写っていた。青い目をした深い橙色の顔で、彫りの深い、外人のような顔立ちである。

「どれ?」と内村先生はのぞきこむ。彼には鍋料理の湯気のようにしか見えていない。シンイチは「ここが目で、鼻で、口」と湯気の模様を指でなぞったが、「うーむ、たしかに顔に見えるが」と、内村先生にはその程度らしい。

「心霊写真鑑定みたいなもの?」と紀子は尋ねた。

「だいぶ違うど、まあそんな感じさ。その変になる前は、彼はどんな人だった?」

「ごく普通の人よ。やさしくて、おっちょこちょいで、ちょっと恥ずかしがりの、なんてことのない人」

「そんな男のどこに惚れる要素が」と内村先生が横槍を入れる。

「温泉みたいに、素直に暖かい人だったの。そこが良かったのよ」

 シンイチは最後まで取っておいたサクランボを口に入れ、微笑んだ。

「はっきり言うね。精神科に行く必要もないし、霊媒師に頼む必要もない。これは新型妖怪『心の闇』の仕業なんだ。でも安心して。そんな普通の日々に、絶対戻れると思うよ」

 人懐こい笑顔に、紀子はなんだか安心した。


    2


 シンイチは早速、天狗のかくれみのを被り、ネムカケと共に、江島の会社に忍び込んだ。

 ネムカケを連れてきたのは、彼の「カタカナ英語」が分かるのではないかと考えたからだ。

「なんか難しいことを喋ってたから、翻訳してよネムカケ」

「わしは何でも知っている訳ではないぞ。遠野の生き字引とて、専門用語出されたら無理じゃよ?」

「分かる範囲でいいよ。何言ってるか分かんないと、そもそも話が通じないじゃん」

 これから会議がはじまる。シンイチとネムカケは、かくれみのを被って姿を消し、大会議室へと潜入した。


 三十名ほどの大人たちに、江島が紙資料を配っていた。

「まずはペーパーをご覧ください」

 かくれみのの中での会話は、外には聞こえない。ネムカケは江島の言葉を翻訳し、シンイチに伝えた。

「まずは紙、この場合は資料じゃな、をご覧ください」

「まあ、それぐらいは察しがつくよね」

 江島のエンジンが、次第にかかってきた。

「今月のコンプライアンス問題をエクセルにしました。前回のコンテクストに照らすと、ビジネスチャンス、つまりオポチュニティが大幅ダウンしていると言えます。次のペーパーはそのポートフォリオのナレッジを共有する為のものです」

 ネムカケはとりあえず逐語訳をしてから、ちゃんとした日本語に直した。

「まずは逐語訳をするぞ。『今月の法令遵守問題を表計算状にしました。前回の文脈に照らすと、仕事の機会、つまり機会が大幅減じていると言えます。次の資料は、その目録の知識を共有する為のものです』。これじゃさっぱり分からんので、まともな日本語にするからの。ええっと、『今月分の、法律違反していないかどうかをまとめました。前回の分から考えて、仕事発生のチャンスが大幅に減っています。次のページは、それを箇条書きにしました』」

「? ……それ、すごい普通のこと言ってない?」

 シンイチが気づいた。

「シンイチ、賢いな。どうやらその通りっぽいぞ」

「ふうむ。続きを訳して」

「よしきた」

 江島は続きを喋る。

「バリューのある、ウィンウィンの関係は大事ですね。ブランディングストラテジーを高める為に、ステークホルダーのリテラシーを利用しましょう」

 ネムカケが訳す。

「まずは逐語訳な。『価値のある、互いに勝つ関係が大事ですね。商品価値を高める戦略を高める為に、利害関係者の情報応用力を利用しましょう』。さて、ちゃんと訳すぞ。『お互いに嬉しい関係を築けることに価値ありです。ウチの商品のブランド力を上げる計画の為に、お客さんや周りの人々の理解力、発信力を利用しましょう』」

「んんん? ……なんか、やっぱり当たり前のこと言ってない?」

「うむ。シンイチは賢いな」

「つまり、この人はさっきから、一般的なことばかり言ってて、ひとつも自分の意見を言ってないよね?」

「イグザクトリィ。その通りじゃ」

「なんだろ。要するに、横文字で盛ってるんだよね?」



 会社のトイレでひと息ついた江島は、洗面所で手を洗い、会議の緊張で疲れていたのか顔も洗った。顔をぬぐい鏡を見ると、そこに天狗の面が映っていた。

「な、なんだ?」

 思わず江島は振り向いた。天狗の面を被ったシンイチだ。

「なんだよお前、ここは会社だぞ。子供が来る所じゃない」

「あなた、『心の闇』に取り憑かれてますよ」

「……はあ?」

 江島は無視してトイレから出ようとしたが、廊下へ続くはずのドアは開かなかった。

「アレ?」

「不動金縛りをこのトイレ全体にかけたので。……話はすぐ済みます。あなたの肩に、妖怪『横文字』が取り憑いているんです」

「妖怪『横文字』?」

「心当たりあるでしょ? なんでもかんでも横文字で喋ってるでしょ? それはあなたの本心から起こしてることじゃない。妖怪のせいなんだ。妖怪『横文字』のせいで、あなたは普通に喋ればいいのに、横文字でわざと難しくして、盛ってるんだ」

「……」

 江島は黙った。本心を射抜かれたのだ。

「取り憑かれた宿主が自分の心の闇を自覚すれば、妖怪『心の闇』は見えるんだ。それは鏡にうつる」

 シンイチは江島の肩を指さした。江島はドアから引き返し、洗面所の鏡を見つめた。橙色で青い目の妖怪「横文字」がうつっていた。

「オーマイガー!」



「ここハーフイヤーぐらいかなあ」

 誰も来ない屋上で、江島はシンイチとネムカケに白状をはじめた。

「ウチの国際部が出来て、異動させられて、アラウンドがオール帰国子女で、なんかフィーリングデファレントでプレッシャーがアローンで」

「?」

「いかんいかんまた横文字だわ。なんか帰国子女ってさ、英語をこれ見よがしにちょいちょい入れ込んでくるんだよ。自慢するつもりなのかなって思ってたけど、なんかナチュラルみたいで」

「でも今はフツーに日本語喋ってるよね」

「あー、アイシー」

「?」

「オゥソーリーシット。ちゃんと意識をコンセントレーションしないと、やっぱ日本語にリルビット横文字が混じっちゃうわメーン」

「大体そんな調子で紀子さんと話すの?」

「紀子ユーノウ?」

 シンイチは視線を屋上の扉に向けた。呼び出された紀子が、この会話を聞いていた。

「紀子」

「私が詳しい人に依頼したの」

「やっぱり、妖怪のせいだったよ」

 江島は手鏡で自分の肩の妖怪をあらためて眺めた。

「ワズアーップメーン? HAHAHAHA」とこっちを見て笑ってやがる。

「でもさ。江島さんは完全にこいつに支配されている訳じゃないと僕は思うんだ」

「なんで?」

「普通に日本語も話してたからさ。たとえばプレッシャーがかかった時だけ英語まじりになるのかも知れない」

「……」

「つまりさ、江島さんの中身は日本人なんだと思う」

「……というと?」と紀子は質問した。

 シンイチは、ひとつ思いついた。

「そうだ! 日本のスバラシイ所を巡ることにしよう!」


    3


 シンイチは腰のひょうたんから一本高下駄を出して履いた。跳梁ちょうりょうの力で、色んな「日本」の良い所へ連れて行こうと思ったのだ。

「とりあえず、浅草?」

 シンイチは思いつきで浅草を選んだ。天狗の面を被り、天狗の力を蓄えた。

「二人とも目瞑ってて。天狗の術で、飛ぶから」

 シンイチは両脇に江島と紀子を抱え、頭の上にネムカケを乗せた。二人が目を瞑ると、「とう!」と一気に大跳躍、たちまち浅草は浅草寺せんそうじ雷門かみなりもんの前についた。

「目をあけていいよ!」

「うわっなんだ?」「浅草?」と、江島も紀子もびっくりした。

 赤い巨大提灯が下がった、おなじみの雷門の前に三人と一匹は来ていた。外国人観光客や修学旅行生やおじいさんおばあさんが溢れかえる。シンイチは天狗の面を脱ぎ、二人と一匹を連れて、たたたと土産物屋の並ぶ仲見世なかみせ通りを駆けてゆく。

「おまつりみたいだね!」

 シンイチのテンションは上がってくるが、江島はそうではない。

「こんなんの、どこがいいんだよ。見飽きた観光地じゃねえか」

 シンイチは本堂まで走って行き、浅草寺の縁起書を読み出した。

「創建は六二八年だって! すげー古い!」

 大化の改新よりさらに十七年前、推古天皇三十六年のとある日、隅田川で漁をしていた檜前ひのくまの浜成はまなり竹成たけなり兄弟の網にしょう観音かんのん像がひっかかり、これを祀ったのが浅草寺であるという。この観音が本尊だが、決して人には公開されたことのない秘仏である。

「へえ。それほど大事にしてるんだ!」とシンイチは感心していた。

 以後建物は焼失をくり返し、最後の焼失は太平洋戦争の東京空襲。現在の雷門は昭和三十五年のつくりという。

「意外と新しいんだね!」

 シンイチは境内を見渡した。

「ここに、聖観音がいるのかあ」

「何観音だって?」と、江島はさっぱり話がつかめない。

「六観音の中でもさ、聖観音だけが人間の形をしているんだよね。顔ひとつで手二本のフツーの人間!」

「??」

「十一面観音は顔が十一個だし、千手観音は手が千本だし、如意にょいりん観音は手四本だし、馬頭ばとう観音は手六本の顔三つだし、准胝じゅんてい観音は八本腕バージョンが多いけど、正式な十八本を省略してるし!」

「……何でお前そんな詳しいの?」

「天狗の術はね、仏教の知識が必要なんだ!」

「?」

「密教の呪文を天狗は使うからね!」

「そうなの?」

「大体さ、二大メジャーお経ってさ、般若心経はんにゃしんぎょう観音経かんのんきょう妙法みょうほう蓮華れんげきょう)だけどさ、これどっちも聖観音のお経なんだよね! 知らないの?」

「シンイチくん、えらく詳しいのね」

 紀子が呆気に取られた江島に代わって感想を述べた。

「ゴメン! オレ一人だけテンション上がってた! 浅草寺って聖観音の寺だってはじめて分かってさ!」

 江島は一人置いてかれた気分になった。どうせ良く分からない線香の煙を頭にかけて「病気が治る」なんて迷信の儀式をしておしまいとか思ってたからだ。

「何だよイマイチって顔してるね! よし、鎌倉へ行こう! また飛ぶよ!」


 青い空と白い雲。上空の風を切り裂いて、鎌倉大仏の前に、シンイチとネムカケと江島と紀子が降り立った。

「デケー! 阿弥陀あみだ如来にょらいデケー!」とシンイチは大はしゃぎ。

「阿弥陀如来? これって鎌倉の大仏だろ?」と江島は尋ねた。

「デッカイ仏の意味が大仏だろ? この定印じょういんを見れば、その仏の中でも阿弥陀如来ってわかんじゃん! まあ阿弥陀って普通はこういう来迎印らいごういんが多いんだけどね」

 シンイチは右手を上に左手を下に向ける来迎印を示して見せた。たしかにこのポーズは見たことがある。

「あ、南無なむ阿弥陀仏あみだぶつってこの仏のこと?」

「そうだよ! 仏教の中でも阿弥陀如来を拝むのって比較的最近なんだよね。最近っても鎌倉時代だけど!」

 江島は巨大な仏像を見上げた。

「普通そんなこと知らないだろ。いい国つくろう鎌倉幕府、ぐらいしか知らねえだろ」

「おそば食べようよ! 日本のウマイもの食べようぜ! あんみつとかもいいな!」

 シンイチは近くの蕎麦屋へみんなを引っ張っていく。

「うめー! ワサビきつー!」

「なんだかんだ言ってオマエ子供じゃん。ちょっとのワサビしか食べれねえんじゃん」

 と江島は笑う。

「……!」

 シンイチは息を止め涙目になった。大きい塊のワサビを吸い込んだらしい。訳が分かった江島と紀子は大爆笑した。シンイチは逆襲しようと次の提案をした。

「これでも日本の素晴らしさが分からないなら、やっぱ京都だね! 抹茶ソフトクリーム食べて、何見よっか!」

人形にんぎょう浄瑠璃じょうるり!」

 突然、今まで人前だからと遠慮して黙っていたネムカケが声を上げた。

「ね、猫が喋った!」

 江島と紀子は驚いた。ネムカケは体をよじって我儘を言いはじめた。

「大阪の竹本座の連中が、京で公演中なのじゃ! 見たい! 見たい! 見たい! 見たい!」

 三千歳の化猫ネムカケは、人形浄瑠璃に目がないほどの文楽好きである。人形浄瑠璃発祥の地、大阪の竹本たけもと義太夫ぎだゆうが起こした竹本座の初回公演(一六八四)をその目で見て以来、四百年来の浄瑠璃ファンなのだ。

「シンイチ! 今何やってる? 演目はなんじゃ!」

「ネムカケ、落ち着いてよ。江島さんと紀子さん、喋る猫見てびっくりしてるよ」

「ハッ! わしとしたことが取り乱した。すまぬ。わしは喋る猫のネムカケと申す。人形浄瑠璃の素晴らしさを見たら、日本の文化の神髄が分かるぞ!」

 紀子はスマホで演目を調べた。

「なんて読むのかしら。鬼……一……」

「『鬼一きいち法眼ほうげん三略巻さんりゃくのまき』かっっ!!!」

 ネムカケは飛び上がって喜んだ。

「シンイチ! 天狗に関する話じゃぞ! 見たほうがよい!」

「はい?」

「鬼一法眼とは伝説上の人物で、京の堀川ほりかわ一条いちじょうに住む陰陽師おんみょうじじゃ。あからさまに安倍あべの晴明せいめいの設定をパクッておる。こやつが武術の秘伝書『三略の巻』を持っていて、夜な夜な弟子に剣を教えたのじゃ。その弟子が、遮那しゃな王こと牛若丸」

「えっ? それって変じゃん。牛若丸に剣を教えたのは鞍馬山の鞍馬くらま天狗てんぐでしょ?」

「そうじゃよ。日本で最も有名な天狗じゃな。実はこの鬼一法眼という男、鞍馬天狗と安倍晴明を足して二で割ったような、創作キャラなんじゃ」

「へえ」

「安倍晴明なら私も知ってるわ。映画にもなったわよね」

 と紀子が首を突っ込んできた。

「天狗というのは、様々な知識が必要じゃ。密教の知識も。薬草の知識も、武術の知識も。シンイチは武術は下手くそだがな」

「てへへ」

「中国の武術書に、『六韜りくとう』というのがあってな。文韜、武韜、龍韜、虎韜、豹韜、犬韜の六冊を言うのじゃ。鬼一法眼はそれを天狗のように持っていて、牛若丸が盗み出す話なのじゃ。六韜は中国の武術書『三略』とごっちゃにされることがあって、劇中では三略も六韜も一緒のもの扱いしておる」

「グズグズな設定じゃん」

「今のB級映画と同じで、そのごちゃ混ぜ感すら、リアルとフィクションの境目で面白いのじゃよ。それが神髄と言ってもよい。ちなみにラストで、六韜を盗んだ牛若は『虎韜』以外の五冊を焼いて、独り占めしてしまう。最後に残った一冊を虎のかん、またの名を虎のまき

「えっ、それってよくなんとか虎の巻っていうときのアレ?」

「そう。奥義書の代名詞虎の巻は、この芝居が起源なのじゃ。虎の巻は、天狗の知識の暗示なのじゃよ!」

「この猫さん、物知りなのね」と紀子は感心する。

「ちょっと見たくなってきた」とシンイチのテンションが上がる。

「……まあ、そんなに言うなら見てやるけどよ」と、江島はあまり乗り気ではない。

「とりあえず、『辻利つじり』の抹茶ソフト食べようぜ!」

 シンイチは二人と一匹を、京都まで飛ばした。


 雲の上を飛行中、京都の山々が見えてきて、シンイチは恐る恐るネムカケに聞いてみた。鞍馬山と貴船きふね山が、雲をたなびかせていたからだ。

「そういえばオレ、鞍馬天狗のお膝元にいくのに、挨拶とかしなくていいのかな?」

「鞍馬天狗、正式な名を鞍馬山くらまやま僧正坊そうじょうぼうなる大天狗は、シンイチのことは勿論ご存知じゃ。天狗の遠見の力は無限じゃからな。今回は京都観光という事でお咎めなしじゃよ」

「そっか! じゃ一応手振っとくか!」

 シンイチは鞍馬山に手を振り、鞍馬天狗はひそかにのけぞっていた。


 ネムカケは京都八坂やさかの辻利の行列に真っ先に並び、三人と一匹は抹茶ソフトと抹茶パフェを堪能し、竹本一派の「鬼一法眼三略巻」を観終えた。(ネムカケは感激のあまりオシッコを漏らしそうになった)


 一行は三条河原で、現代の河原者、流しのギターを聞きながら歩いていた。

「さてどう? 江島さん。日本文化の素晴らしさ、改めて実感できたでしょ?」

「うーん、よく分からん」

「ええええ」

「だってさ、日本の文化には毎回解説がつくじゃん。一々『理解』してからしか楽しめないのってどうよ? 敷居が高すぎなんだよ」

「え、でも、浄瑠璃面白かったじゃない」と紀子が反論する。

「そうじゃろう。そうじゃとも」と、ネムカケは髭をしごいて満面の笑みをたたえる。

「それはこの猫が解説してくれたからであって、パッと見で分からないのを素晴らしいとはいえないだろ」

「うーん、そうか、オレは十分楽しんだけどなあ」とシンイチはこぼした。

 江島の肩の「横文字」は、大きくも小さくもなっていない。日本文化の良さで横文字を駆逐する作戦は失敗だったのか。

 そんな時、江島のケータイが鳴った。父の入院の報らせだった。


    4


 二ヶ月ほど前、江島のご両親に挨拶に行った紀子は、江島の父の入院を心配した。症状はあまり良くない。手術は長引くため、体力的に耐えられるかどうか分からず、検査入院と称して薬などの耐性を見ていくことにするという。

 京都土産を見舞い品に買い込み、一行はその足で江島の実家、山梨へお見舞いへ向かうことにした。


 ベッドに寝かされた江島の父、こう三郎ざぶろうは、薬が効いているのか少し朦朧としていたが、江島と紀子の姿を認めると瞳の輝きを取り戻した。

「おう。よく来たな」

「電話で聞いたより元気そうじゃん。紀子も連れてきた」

「紀子さんか。相変わらずウチの息子の相手は大変じゃろ」

「そんなことないです。これ、京都土産。京都旅行の途中で駆けつけたので」

 江島の母が土産袋を受け取って、「お茶を淹れましょう」と席を立った。

「旅行の途中か。それは済まなかったな」

「いいえ。人形浄瑠璃を、はじめて生で見ました」と紀子は微笑んだ。


 病院の廊下で、シンイチはネムカケと大人しく待っていた。ネムカケは腰のひょうたんから出した猫キャリアに入れられている。普段なら文句タラタラだが、今は「鬼一法眼」の余韻に浸っているのでどうでもいいらしい。


 京都土産の阿闍梨あじゃり餅(これはネムカケのオススメである)を口にしながら、康三郎は息子に尋ねた。

「最近仕事はどうだ?」

「……順調だよ」

「そうか。いつも何をやってるのか、説明されても分からんがな」

「そんなことないよ。簡単だよ。パーティのコンセンサスを取るのが俺の仕事なんだ。リソースマターとステークホルダーマターのベネフィットをそれぞれ考えて、シナジー効果を生むんだ。勿論バッファも見なくちゃいけないし、システムが出来てないからアーキテクチャも組まなきゃいけない。異なるイシューをアジャストする必要もある。ルーティーンに陥らず、ダブルスタンダードにもならず、それぞれのポテンシャルをクラウドにして、ファンダメンタル的に……」

「俺のような田舎者には、東京者の言うことはやっぱり分からん」

「……」

 江島は、しわしわになった父の横顔にはじめて気づいた。田舎が嫌で、大学時代NYに無理矢理一時留学した。東京の大学で東京の会社に勤めた。いつも父に自分の仕事を説明しようとしても上手くいかない。昔の父は恐かった。病床の父は、自分の知っている父より縮んだようになっていた。

 母はお茶を淹れに再び席を立った。さっきの電話では動揺していた。「お父さん死ぬかもしれない」と弱気の母の声を、はじめて聞いた。

 江島は決心して、話し始めた。

「俺さ。本当のこと言わなきゃ」

「本当のこと?」

「俺、……ほんとは、会社で落ちこぼれてるんだ」

「……」

「順調だなんて嘘だ。国際部で生き残ろうと必死で、俺は出来る奴を取り繕ってるだけなんだ。俺は偽者だ。実は俺、英語さえしゃべれりゃ役に立つかもって留学したんだ。でもさ、英語がしゃべれたって、仕事が出来るかどうかと関係ないのさ」

 紀子は江島の告白を黙って聞いていた。江島は両目から涙が出てきた。

「俺が騙せるのはさ、難しい言葉をちょいちょい入れ込んでも質問もしない奴らさ。だってアイツらもバカなんだ。言葉の意味なんか何も分かっちゃいない。言葉の意味を聞くようなバカだって思われたくない連中なんだ。だから俺は粉飾に粉飾を重ねる。横文字ばっかり使って、俺自身の敷居を上げることで。……それってさ、俺がつい三十分前に言ったことと同じなんだ。日本の文化は敷居が高いってさ。敷居を上げて、一体何を守ってるんだ、ってことだよな」

「……」

 康三郎は黙って江島の目を見ていた。

「俺、日本のこと、何も知らない。今日色々あって、そのことを痛感したんだ。でも英語のことも何も知らない。どっちのことも知らない、ただの無知なんだよ。今日、すごい子と知り合ったんだ。自分の言葉で仏像のことや浄瑠璃のことを分かろうとするんだ。俺は自分と関係して世界をそう見ようと思ったことなんて、全然なかった。あんなもんただの観光地としか思ってなかったんだ。日本すげえよ。解説すればするほど出てくるよ。俺を解説してみろよ。中身なんにもねえよ。解説されたら終わりだ。俺は、横文字で中身のない自分を守ってるだけだ。俺は、……ただの無知だ」

「ははは」

 と、康三郎は笑った。

「それが分かってるだけ、バカよりましだって昔の哲学者が言ったわ」

「……この気持ちを、なんて表現すればいいんだ。……なんて言うんだろ。英語にない……」

「……」

「あ。分かった。……簡単だよ。小学生でも知ってる。日本人なら誰でも」

「?」

「恥ずかしい、だ」

「ははは」

 もう一度康三郎は笑った。

「ははは……俺、恥ずかしい奴だったわ」

 江島も照れ笑いをした。

 こうして、妖怪「横文字」は、江島からゆっくりと離れた。


「不動金縛り!」

 廊下から病室の様子を伺っていたシンイチは、不動明王の印を結び、腰のひょうたんから天狗の面と火の剣を出した。

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「火の剣! 小鴉!」

 さっきの大跳躍の感覚が残っていたのであろう、思わず天井高くまで飛び上がってしまい、シンイチは自分で驚いた。空中で体勢を立て直し、天空から降るように、炎の剣を妖怪「横文字」の眉間にまっすぐ突き刺した。

「刺突通背! ドントハレ!」

 業火が生まれ、「横文字」を一瞬で粗塩の柱と化した。

 かくして、江島の心のコンプレックス(横文字を使わずに訳すなら、「複雑すぎてこじらせた心」)は、炎とともに清められたのである。


    5


 シンイチが山奥で薬草を摘んできて煎じたおかげか、息子と心を通わせたからか、康三郎の手術は成功した。三人と一匹は東京に戻り、平穏な日常へと帰還した。


 その数ヵ月後のある夜。いつもより気張ったレストランで食事をした江島と紀子は、海を見ながら歩いていた。

 江島が突然立ち止まり、ポケットから小さな箱を出した。結婚指輪だと紀子には分かって、二人とも緊張した。

「の、紀子」

「はっ、はい」

「……あらためて、話がある」

「……はい。……ど、どうぞ」

 江島は小箱をあけ、ダイヤモンドの指輪を見せた。紀子も江島も緊張の極限を迎えた。

「プロポー……」

 言いかけて、江島は慌てて口を閉じた。それが横文字であることに気づいたからだ。江島は頭を必死に回転させた。横文字の重圧。素直になることへの重圧。

「いや、えっと、……その……け、結婚提案」

 大失敗だ。何でここで四文字熟語を。一世一代の失敗に、江島はそれ以上何も言えなくなってしまった。

 紀子は静かに指輪を受け取り、最高の笑顔で微笑んだ。


「合点承知」



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






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