第10話 「静かな朝」 妖怪「アンドゥ」登場

    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



 長い雨が降っていた。休み時間にサッカーが出来ないので、雨の日のシンイチの居場所は、もっぱら隣の三組に固定されている。そこには向野むかいのタケシという将棋の強い奴がいるからだ。シンイチはクラスでも二番目ぐらいに将棋が強い(源じいさんにも筋がいいとほめられた)。いつの日だったか、隣にスゲエ強いのがいると聞いてシンイチは勝負を挑みに来た。好敵手を見つけることはゲームにおいて僥倖だ。初戦はタケシが勝ち、二戦目はシンイチが勝った。以降シーソーゲームだ。そのとき雨が降っていて、以来雨の日は、タケシと将棋をする日になった。


「待った!」

「ええー? また『待った』かよ!」

 シンイチはブリブリと文句を言った。タケシは最近「待った」が増えた。それはシンイチの手が鋭くなったこともあるが、タケシに迷いが出てきたことでもあった。タケシは、先ほど打った4三銀を元に戻しながら言い訳した。

「だってさ、ここ角もあるし、銀もあるし、桂馬で行く手もあるじゃん。迷うんだよ。で、銀は、その先がマズイってことに気づいたわけ」

「オレに指されてから気づいたんじゃねえか」

「ちげーよ。ギリ前だよ」

 タケシは4三銀を4三角に変更した。

「お前今度『待った』したら反則負けな」

 シンイチはそれを銀で取った。タケシはまたもやしまったという顔をした。

「ううう。『待った』は駄目?」

「何言ってんだよ。『待った』病かよ」

「だってさ。角か銀か桂馬で迷う前にさ、その前の手が効いてる訳じゃん。そこも本当は『待った』したい訳だよ。でもその手は前の手が効いててさ……」

「そんなことやってたら最初に戻っちゃうじゃねえか」

「そうだよ。将棋は、最初が完成形なんだ」

「アホか。じゃあ何の為に将棋指すんだよ!」

 シンイチが笑いながら突っ込んだところでチャイムが鳴った。放課後はタケシが塾に行く為、勝負は次の雨の日まで持ちこすことになった。


 タケシの次の授業は書道で、「静かな朝」と書く課題が出た。皆は墨を摺り、思い思いの字で半紙を埋めて行った。「静」の字が難しい。最後の一本線とハネが美しさを決める。

 タケシは、半紙を前に考え込んでしまった。「静」の字の一画目、二画目を書き、首をひねり、また白紙を出しては一画目をどう書くかで悩んでしまった。担任の外津川とつかわ先生が、見かねて声をかける。

「書けなくても、まずは最後まで書いてみなよ」

「分ってるよ。でもさ、その後の展開ってのがあるじゃん。書道に『待った』は効かないからさ」

「お前の得意な将棋でも『待った』は駄目だろ」

「まあ、そうなんだけど」

 タケシは筆を構えたまま、白紙の上に自分の運筆をイメージしてみた。どう動かしても「詰み」になる気がした。下手糞な字になるのが「読めた」のだ。一画、二画、……五画目まで書いて、タケシは自分の書に「待った」をかけた。「下手。詰み」まで見えたのだ。そうしてタケシは筆が止まってしまい、最後まで書けたものは一枚もなかった。


 図工の授業でも、タケシは水彩絵の具をパレットで混ぜては捨てるをくり返して、絵が進んでいなかった。見かねた先生が自前のタブレットPCを持ってきて、お絵かきソフトを起動してタケシに見せた。

「見ろタケシ。こうやって使うんだ。使い方さえ覚えれば、絵の具とたいして変わらんだろ」

「じゃ絵の具でいいじゃん」

「ちがう。デジタルの得意なのは、これだ」

 先生は「一回戻すアンドゥ」コマンドを使って見せた。一度色を塗ったところがクリアされ、一回前の、色を塗る前の状態に戻った。

「なにこれ! すげえ!」

「『アンドゥ』って言うんだ。紙に描くとアンドゥ出来ないけど、これなら何回でも出来るだろ」

 タケシは自分で試してみて、アンドゥしてみた。

「アンドゥすげえ!」

「これがあれば失敗を恐れなくていい。何回でもやり直せるだろ?」

 タケシは夢中になって絵を描いては、夢中でアンドゥした。アンドゥしてはくり返し、アンドゥしてはくり返し、そして結局、最初の真っ白からほとんど進まなかった。

「うーん」

 タケシは思わずため息をついた。そのため息を嗅いで、窓の外から妖怪「アンドゥ」が寄ってきた。青白い顔で、物陰から覗き見る不安な少年のような、タケシに似た顔をしていた。


「わんわんわんわん!」

 朝、布団の中のタケシの顔を、老犬のシロが吼えながらべろべろ舐めた。臭い息と舌で、タケシの顔を隈無く舐める。みんな嫌がるけど、この舌はタケシは大好きだ。賢いシロは、リードも咥えて持ってきている。

「うーん、分ったよシロ。散歩だろ?」

 タケシはいつもシロに起こされ毎朝散歩に行く。すでに老犬だったシロを拾ってきて、随分になる。毎日散歩に行くことを条件で母を説得したのは、何年前だろう。

 あのときから、いつもシロの散歩の道はタケシが決める。「自分がどこ行きたいとかないのかよ」と最初のうちはシロに言ったが、タケシの道に従うことがシロの喜びなのだ、と次第にタケシは理解した。老犬シロはゆっくりと歩く。タケシが先頭で歩いて、シロがついて来る。

 タケシはふと、散歩道の途中の分かれ道で疑問に取り憑かれた。

「何か違う。さっきの道を左だったんじゃないか? シロ、戻ろう。アンドゥだ」

 タケシはシロを連れ、ひとつ前の分かれ道に戻った。しかし左に進みかけたところで、またしてもタケシは立ち止まった。

「ここの分れ道も違う気がする。詰みだ。その前の三叉路だ。アンドゥしよう」

 タケシとシロは更にひとつ前の分かれ道に戻った。そうして更に前の分かれ道に戻り、更に戻り、……ついには家の前まで戻ってきていた。

「あれ? 最初に戻っちゃったよ。……やっぱ、最初が完成形なのかな」

 タケシを観察していた心の闇「アンドゥ」は、安心してタケシの肩に取り憑き、根を張ることにした。


 「アンドゥ」の取り憑いたタケシは、体育のサッカーで消極的なプレイを見せた。攻めていける場面でバックパスばかりをくり返し、皆のブーイングを浴びた。国語の授業でも、「太郎は花子を何故ぶったのか」という問いに、「ぶたなければ、こんな事件は起こらなかった。そもそもぶたなければ良かったのだ」と事件以前の回答をした。書道でも一枚も書けず、マット運動では前回りせず後ろ回りばかりした。


 そして次の朝、タケシはシロと散歩に出たものの、やはり途中の道でアンドゥし続け、家に戻ってきてしまった。

「やっぱり、家から出たのがそもそも間違いなんだよ。学校も行く意味ない。結局どの道を進んでも、人生は失敗で詰みなんだよ」

 タケシはシロを連れ、家に入った。家から二度と出なかった。部屋からも二度と出なかった。つまり引きこもりになり、不登校になってしまったのである。


    2


 しばらく雨が降らなかったので、シンイチはススムや大吉や公次たちとサッカーにあけくれ(クライフターンは難しくてあきらめたが、たまに猛烈に練習したりもする)、今日の雨を見るまでタケシのことはすっかり頭から飛んでいた。そうだ。4三に何を打つかでつづくになったんだった、と思い出し、隣の三組へ将棋盤を持っていった。そこでタケシが、二週間以上学校に来ていないことを知った。

「病気なの?」

「病気、とは聞いていたけど……」

「けど?」

「引きこもりかもってみんな言ってる。休む前、なんかヘンだったんだよね」

 シンイチは腰のひょうたんから「遠見の力」の千里眼を出し、「跳梁の力」の一本高下駄を出して履き、両足に力をこめて大跳躍した。ゆく先は銭湯の煙突の上だ。雨で見にくいが、千里眼にうつったタケシの姿は、体育座りで、目が虚ろで、肩に妖怪「アンドゥ」が取り憑いていた。随分と痩せて衰弱している。心の闇「アンドゥ」は、既にタケシの上半身を越える大きさまで成長を遂げていた。


「雨の日だ! 将棋のつづきやろうぜ!」

 シンイチは努めて明るくタケシの部屋へあがりこんだ。体育座りのままのタケシは、反応が薄かった。シンイチを見るでもなく、シンイチの持ってきた将棋盤を見るでもなく、窓に当たる雨を見るでもなく、どこを見ているか分らない目をしていた。

 シンイチは勝手に座って勝手に将棋盤を広げ、駒を並べた。前回と同じかどうか、時々どんな手を指したか思い出しながら並べていた。この途中を思い出すことも将棋の楽しさであることを、シンイチはすでに知っている。

「さあ、4三、何を打つ?」

 駒を並び終え、前回の場面を再現したシンイチは、タケシに尋ねた。だがタケシは力なく答えただけだった。

「……打たないよ」

「何でだよ! 考えとくんじゃなかったのかよ!」

「考えたさ。考えた末の結論だ」

「……どういうことだよ」

「……将棋は、打たないのがいいんだ。最初の配置が完成形なんだ。そこから一手でも打てば、それは死に向かって進んでいくだけなんだ。どの手も、死に向かうんだ。だから将棋は最初の配置で終了で、完成で、美しい。その先を崩さないのがいいんだ」

「……はあ?」

「人生だって同じだよ。どんな手を選択したって、敗北へ、死へ、間違いへ向かっていくに過ぎないんだ。だったらアンドゥするしかないだろ。ぼくらはアンドゥして、お母さんのお腹の中へ戻るべきなんだ。それが完成だったんだ。そこからの全ては、醜い敗北だ」

「……だから学校も来なかったのか」

「将棋はしない。散歩もしない。授業もしない。ぜんぶアンドゥ出来たらいいのに。ぼくの人生、全部アンドゥ出来たらいいのに。……むしろ、生きない」

 シンイチは言うべき言葉が見つからなかった。彼とタケシの唯一の言葉は将棋だ。さっき駒を並べる時だって、途中のタケシの苦悩やシンイチの苦しみや、それぞれの喜びやしてやったりを、駒の動きが語ってくれたから並べられたのだ。二十二勝二十四敗の、これまでのストーリー全部を否定されたようで、シンイチは次にどう言えばいいか分らなかった。

 音もなく、静かに雨が降っていた。妖怪「アンドゥ」はじっとして、大きくも小さくもならなかった。

 とつぜん、タケシの母親が血相を変えて部屋に入ってきた。

「大変。シロの熱が止まらないの。ごはんも食べないし、食べても吐くし。動物病院に連れてくから」

 今までずっと同じ方向しか見ていなかったタケシが、はじめて顔をあげた。

「……ぼくもいく」


    3


 老犬シロは、苦しそうというより、じっと黙って動かなかった。なるべく体力の消耗を抑えておこうという動物の本能なのかも知れなかった。

 お医者さんから、「今夜が峠だ」と聞かされ、タケシはショックを受けた。もう随分と歳だから体力もないし、いつ寿命が来てもおかしくないと言われたのだ。

「今夜シロといてあげてもいいですか」とタケシは言った。

 お医者さんは優しく、宿直の者に伝えておくと言って毛布も持ってきてくれた。

 タケシは毛布にくるまり、シロにかぶせて一緒に寝る格好になった。シロは薄目をあけてタケシを見た。タケシはシロを撫でつづけた。タケシの手のひらから、少しでも命がシロに流れこんでいるようだった。

 シンイチも付き合うと言って泊まることにした。シンイチは毛布から抜け出し、レインコートを着こんで、雨の中一本高下駄を履いて高尾山へ飛んだ。


 すでに日はとっぷりと暮れていた。シンイチは天狗の薬草を必死で探した。猟師や修験者や忍者が、山の中で暮らしながら見つけた薬草や毒草の知識は、経験則として膨大な体系を持っている。西洋の博物学輸入以前の、東洋の知識としての本草ほんぞう学の基礎になったものである。西洋医学で知られていない漢方の知識や日本独自の本草学は、天狗の巻物に載っている。たとえば忍者の里で有名な滋賀県甲賀こうかには、今でも薬品会社が多い。これは甲賀忍者の本草学の伝統の上に成り立っているという。

「ちくしょう! こんなことなら、もっとちゃんと勉強しておくんだった!」

 シンイチは半泣きになりながら、ずぶ濡れになりながら草の根を分けた。指が痛くなってきた。あたりは真っ暗で、直接見て触らない限り判別できない。何時間もかけてようやく天狗の薬草のいくつかをみつけて、動物病院に戻り、すりこぎや炉を借りて、煮詰めて天狗の薬をつくった。

「苦いけど飲んで」とシンイチは少しずつシロに飲ませた。

「……効くの?」

「人間には効く。でも、動物に効くかどうか正直分らない」

「ありがとうシンイチ。寒かったろ」

 もう夜中一時を回っていた。シロはタケシの毛布の中で、寝ているのか起きているのか分らなかった。タケシとシンイチは毛布にくるまれながら、不安をまぎらわせようと色々な話をした。学校の話も、将棋の話も沢山した。

「……シロはさ、俺が拾ってきたんだ。拾ってきたとき既におじいちゃんだった。最初から動きも鈍くてさ。多分人間に飼われてて、捨てられて野良犬になったんだ。首輪の跡はあったけど、首輪はなかったし。俺が拾ってきたから、俺が責任を持つって母さんを説得してさ、俺が毎日散歩に連れてくことにしたんだ。だって下手したら保健所に殺されてたんだぜ? でさ、どうしてか分からないけど、シロはいつも俺に道を決めさせるんだ。普通犬ってルートを自分で決めたがるだろ? なのに俺に決めさせるんだ。しかも同じ道は嫌だって我が侭なんだ。おかげで色んな道をいったよ。近所の道、全部の道を歩いたよ」

 山の大冒険の疲れもあったのか、長い雨の一日を過ごしたシンイチは、話をしながらウトウトとしてしまった。規則正しく動く、大きな時計の秒針の音だけが聞こえていた。


 四時五十三分だった。シンイチはタケシの小さな声に起こされた。

「シンイチ。ダメだった」

「えっ」

「……いま、シロが死んだ」

 毛布の中には動かないシロがいた。眠っているようにしか見えなかったが、呼吸するたびに微かに動いていたお腹はもう動かなかった。

 タケシは叫んだ。

「何でアンドゥ出来ないんだよ。アンドゥだよ! アンドゥしろよ! 『元に戻す』ボタンはどこにあるんだよ! なんでアンドゥ出来ねえんだよ!」

 タケシの肩の妖怪「アンドゥ」は、見る間に膨れ上がっていく。時計の秒針の音は、規則正しく響いていた。シロが死のうが生きようが、自動的に規則正しく動いていた。

 シンイチはシロの動かないお腹をやさしく撫でた。まだ暖かかったけど、押したら押し返してくる、「命の張り」ともいうべきものがなくなっていることをシンイチは知った。

 神様にも天狗にも妖怪にも、出来ないことがある。

 子供でも知っている、簡単なことだ。

「タケシ」

 シンイチは静かに言った。

「いのちは、アンドゥできない」

 タケシは叫んだ。

 泣いて泣いて、泣いて叫んだ。

 宿直の人が来た。手を合わせてくれて、大人たちに電話をしてくれた。


 泣き疲れたタケシは、「櫛を貸してください」と言って、シロの全身に櫛を入れ始めた。

「こいつ汚いからさ。最後ぐらい、キレイにしてやんないと」

 おじいちゃんのシロは、右尻の辺りが毛が生えてない。左のわき腹は、皮膚のただれがずっと治りかけのままだ。顔には沢山シミがあり、ピンクに禿げた鼻は最近もっと禿げてきた。右手にはできものが固まって、左脚には切り傷がある。いくつかはタケシと出会う前の傷で、いくつかはタケシと一緒にいたときの傷だ。右手のできものが出来たときは病院に連れてったし、左のわき腹のときは毛がごっそり抜けたけど、ほとんど回復した。左脚の傷は、工事現場に入って機械に巻き込まれそうになったのを、シロが吠えて人を呼んで、鉄条網に引っかけた時のだ。

 タケシはそのひとつひとつを愛おしみながら、丁寧に丁寧に櫛を入れた。毛の生え変わりの時季は、いつもタケシが櫛を入れた。面倒くさくてさぼると家中シロの毛だらけになって、母親に怒られた。嫌々櫛を入れて、ごっそり毛が取れて気持ちよかった。シロはそういうとき、いつも目をつぶってじっとしていた。きっと気持ちよかったのだろう。終わったあとは、手をペロペロ舐めてくれたものだ。

 タケシはシロの頭を撫でた。目をつぶっていた。もう舌も出さないし、目も開かなかった。タケシは涙をぬぐった。また涙が出てきて、またぬぐった。

「最後の最後にさ、こいつ、俺の手をペロペロ舐めてくれたんだ。俺といて、良かったのかなこいつ。俺に拾われて、後悔してなかったのかなこいつ。自分の道も決めない散歩で、傷だらけの体で、最後に二人でした散歩だって、うしろ向きの散歩で。俺といて詰まんない人生だったんじゃないかなこいつ。俺に拾われない方が良かったんじゃないかなこいつ」

「シロはタケシが好きだったんだろ? 最後の最後に、シロはタケシが好きだって伝えたかったんだと思うよ」

「……」

 シロの頭を、何度も何度もタケシは撫でた。

「……ちがうよ」と、タケシは呟いた。

「え?」

「ちがうと思う」

「……じゃ何?」

「シロはペロペロ舐めることで、自分の人生を完成させたかったんだ」

 タケシはシロを、最後にもう一度抱きしめた。

 妖怪「アンドゥ」は、タケシから外れた。


 不動金縛りは早九字でやった。そうしないと泣きそうだったからだ。腰のひょうたんから天狗の面を出して素早く被った。泣いている顔を見せるのが恥ずかしかったからだ。

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「火よ在れ! 小鴉!」

 時は戻らない。いのちはアンドゥ出来ない。そんなこと誰でも知っている。知っていたって、納得がいかないこともある。

 この炎が何かを焼き尽くして欲しい。シンイチは小鴉を大きく振りかぶった。

「一刀両断! ドントハレ!」

 妖怪「アンドゥ」は真っ二つになり、巨きな炎に包まれて塩になった。



 朝、布団の中でタケシは目が覚めた。

 いつもはシロが起こしに来る時間に、先に目が覚めた。わんわん吠えて、ハアハア言いながらのたのたと起こしに来る主は、もういない。ほっぺたがベタベタになる、あの暖かくて迷惑な舌も、もういない。

 タケシは母に言って、今日は早めに学校にいくことにした。

 雨はとっくに止んでいた。家を出るときに、タケシは空っぽの犬小屋を見た。中を覗いて、もしかしてシロがいたらと思ったけど、いつものボロ毛布もなくて何もなかった。


 まだ誰も教室にはいなかった。がらんとして横から朝日が入る教室は、見慣れない異空間のようだった。

 タケシは書道セットを出し、丁寧に丁寧に墨を摺った。筆をもち、一画目、二画目と字を書いた。ためらいもやり直しもせず、はみ出して不恰好で下手糞な文字をただ書き終えた。


 教室は次第に明るくなってきた。スズメの鳴き声だけが聞こえていた。

 タケシはずっと、「静かな朝」というその字を見ていた。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






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