第12話 「リアルの風は、冷たい」 妖怪「上から目線」登場
1
心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る
最初は単なるひと言だった。それがエスカレートしていったのだ。
ネットの掲示板が、その舞台。
『あんなハイキック、楽勝でガードできただろ』のひと言が、大炎上の種となったのだ。
それは、日本最大のネットの匿名掲示板、「UXC」
炎上の発言は、ある試合についてのものだった。若手の勢いナンバーワン、クロアチアの選手マイケル・フィリップと、日本人選手
実戦でハイキックが決まることは殆どない。頭を蹴りにいくのはモーションが大きく、見てからガードできるからだ。あれは映画や漫画の中での、見栄えのよい派手な「見せ技」にすぎない。そもそも蹴りは小さく出すもの。実戦空手でも「蹴りは帯より下を蹴る(つまり股間を蹴る)」と教える。ところが大山は、八分四十二秒、マイケルの左ハイを出会い頭にあっさり食らい、みっともなくも失神KOされてしまったのだ。
一介の高校生、
『あんなハイキック、楽勝でガードできただろ』と。
ネットの住人たちは、この書き込みにカチンと来たのか、一斉に哲男を否定した。
『マイケルの有名な戦術を知らないのか。ローキックやミドルキックを最初に散らして目を慣らし、目線を下に下げておいてからハイを打つのだ』
『意識の外から蹴るから見えない』
『右ハイなら見えるけど、マイケルは
哲男は反論した。
『マイケルの戦法はずっと前から有名だろ。いまさらその対策をしてない、大山がヌルイって言ってんだ』
『まあ小山だからな』
『小山だな』
『小山だし』
『小山は関係ねえだろ。対策してればあのハイはガードできる、って言ってんだ』
『お前、何様だよ』
『何が分るんだよ』
『分るだろ。現にアラスターやエメルヤーコはガードしたろ』
『お前は何も分ってない』
『お前こそ何が分るんだ』
こうしてネットの中では水掛け論が続き、大論争となった。最初の発言者である哲男は、自説の正当性を示そうと次々に解説をし、その度に質の低い書き込みに否定された。哲男は顔を真っ赤にし、火に油を注ぐように次々と書き込んだ。燃料の投下された掲示板は、それをネタにののしり合いが止まらなくなった。
哲男の荒い鼻息を嗅ぎつけ、妖怪「心の闇」がやってきた。長く歪んだ顔で、青白くノッポだった。
『お前ら何も分かってねえ』
妖怪は哲男の肩に、ニヤリと笑って取り憑いた。その名を、「上から目線」といった。
論争は数日間、二十四時間休みなく続いた。眠ったら議論に置いていかれるから、哲男は三十分以上寝ず、意識を途切れさせながらも主張を続けた。「お前の目は節穴だ」と、誰もが誰もを否定しあった。
試合の中盤、大山の放ったタックルをマイケルがあっさり通して、寝技に持ち込まれたことについても哲男は非難した。
『もっと腰を落とせば、あんなタックルぐらい切れるだろ』
『何を根拠に。腰を落としただけじゃタックルは外せない』
『中国拳法の
『ハア? 中国拳法マニア乙』
『無知がアホなんだよ。この原理で、タックルは簡単に破れる。
『じゃなんでやんねえんだ』
『知らないからだろ。そもそもこの技は、中国拳法の投げ技や関節技を得意とする、「
『バーチャファイター乙』
『アキラ乙』
『あれは
『バーチャ乙』
『アキラ乙』
『そんなの出来るわけねえだろ。出来たら皆やってるわ』
『だから知らねえだけで、知ったら出来るだろって話だ』
『なんでオマエそんな上から目線なの?』
哲男はさらに怒った。オレは格闘技に詳しいんだ。十年以上も色んな試合を見てきて、技とかも全部知ってるんだ。世界の格闘技や珍しい武術も、いっぱい見て研究してるんだ。
『なんでセコンドって言うか知ってるか? 熱くなってる選手の試合を冷静に見て、指示を出す「
妖怪「上から目線」は、哲男の肩でぐんぐん成長してゆく。イボだらけの異様に長い体で、白く濁った目が見下ろす様は、宿主の哲男に似ていた。
彼の歳の離れた小学生の妹は、突然の兄の引きこもりに困っていた。彼女の名は綾辺ミヨ。そう、先日妖怪「弱気」に取り憑かれた所をシンイチに助けられた、シンイチのクラスの我らがヒロインだ。母の
「兄貴は、きっと心の風邪を引いてるのよ。私、そういうことの専門家、知ってるの」
2
「『心の闇』の仕業かも、って?」
「たぶん」
次の日の学校で、ミヨはシンイチに相談した。鈴木有加里の母、希美子の心の闇の件|(妖怪「若いころ果たせなかった夢」)を、ついこないだシンイチから聞いたばかりだったからだ。
「ミヨちゃん、誰かに『心の闇』のことは言った?」
「ううん。だってこれは二人の秘密でしょ?」
「うん、そうだね。妖怪『弱気』のことも」
二人の秘密、という言葉にミヨは自分でドキドキする。
「で、いつ頃から引きこもってるの?」とシンイチは尋ねた。
「えっと、今日で五日目。……前からずっとパソコンの前に座ってる気はあったんだけど、ついに部屋から出てこなくなったの。『心の闇』のせいだとしたら、対策は早いほうがいいと思って」
「そっか。今日ミヨちゃん家行ってもいい?」
「もちろん!」
それに備えて、今日はおいしいケーキを買っておいて、とミヨは母に頼んでおいたのであった。
「お兄ちゃん、いい加減ドア開けてよ!」
ミヨはシンイチを連れてくると、廊下からドア越しに兄の部屋に声をかけた。
「……うるせえな、ミヨ」
「なんで開けないのよ!」
「俺は忙しいんだよ」
「何に?」
「無知な奴らに、俺の知識を教えてやることにさ」
「は? 中で何やってんの?」
「何でもいいだろ! どっか行けよ! 邪魔すんな!」
埒が開かないと思ったシンイチは、金色の遠眼鏡「千里眼」を出した。
「何それ」
「千里眼。壁の向こうも見えるんだ」
薄暗い部屋の中で、哲男はパソコンに向かってブツブツと呟きながら、何かを書き込み続けている。青いモニタの光が、彼の顔を下から照らして不気味だった。そして、その肩には青白い妖怪がぐんぐん成長している。
「……妖怪『上から目線』だ」
「何それ?」
「なんでもかんでも評論家気取りでさ、自分は何もしない癖に文句ばっかり言う奴っているじゃん。それは妖怪『上から目線』のせいなんだ。お兄さんは、それにやられてる」
「……昔から、口だけ番長の気はあったけど……」
「さっきお兄さんは、『無知な奴らに教えてやってる』って言ったじゃん」
「うん」
「何をやってるんだろ。ずっとパソコンでカタカタやってるんだ」
「もしかして、格闘技のことかも。お兄ちゃんの唯一の趣味で、俺詳しいっていつも言ってるし」
「格闘技って、道場とか通ってるの?」
「ぜんぜん」
「全然?」
「私と一緒で、ちんちくりんの体型でヒョロヒョロの弱っちいかんじ。ケンカとかもしたことないし」
3
二人は二階から下り、リビングで作戦会議を練ることにした。
シンイチはパソコンを一台借り、哲男が書き込みをしている掲示板の様子を見ることにした。ミヨはこのタイミング、と母に目配せしてケーキを持ってこさせた。紅茶の香りが漂い、リビングは甘い香りに包まれた。
「あった。これだね。UXC板だ」
「UXCって何?」
「アメリカの総合格闘技だよ」
「K‐1みたいなの?」
「違うよ。K‐1はパンチとキックだけだろ? 寝技も関節技もある」
「だいたいK‐1みたいじゃない」
「全然違うよ! 世界中のあらゆる武道や格闘技を、なるべく公平に闘わせようと、皆で必死で考えてルール化した、今の所最も『世界最強』を決める競技だよ!」
シンイチの熱い語りをミヨは全く理解できなかった。
「……」
「なに?」
「どうして男の人は格闘技のことになると、そんなに必死になるの?」
「なるだろ! 世界最強だぜ?」
「意味ある?」
「んー。女の子はそういうのに興味ないのかなあ」
「ないよ」
「最近女子ボクシングとかあるじゃん!」
「興味ない」
「女子レスリングの吉田とか!」
「興味ない」
「……んんん、まあいいや!」
ミヨちゃんを格闘技教にする会じゃない、とシンイチは思いなおした。
「お兄さんを助けなきゃ!」
シンイチはUXC板の書き込みを一通り眺めた。そこは不毛と悪意に満ちた、欲求不満の吹き溜まりだったのである。
『何が分るんだカス』
『お前が分らんだけだ餓鬼』
『じゃあ三回目のタックルが決まらなかった理由わかんのかよ』
『膝への恐怖心だろ。三試合前のトラウマだ』
『そんなのとっくに解消してるわ。第一、あれは「焼鶏寧頭」で返せる』
『焼き鳥乙』
『また発頸乙』
『発「勁」だよ。それは打撃だろ。正面から受け止めて両手で首を捻るんだ』
『そんなの見たことねえわ』
『知らねえだけだろ』
罵り合いが延々とループしている。まるで憎悪の渦だ。シンイチとミヨは、気分が悪くなってきた。
「なんなのこれ。気持ち悪い」
「みんな上から目線で、やりもしないで文句ばっかだなあ」
ケーキを食べて一息ついたシンイチはひらめいた。
「じゃ、やってもらえばいいじゃん!」
「?」
4
シンイチはミヨにトイレを借り、トイレの中で円形の容器に水を張り、「水鏡の術」で遠野の大天狗と連絡を取り、相談をはじめた。
「ねじる力を使えないかなあ。妖怪『若いころ果たせなかった夢』のときみたいに!」
「どういうことだ」と、大天狗はシンイチのアイデアを期待した。
「あの時、時空をねじったじゃん。そんな風に、哲男さんを格闘技の試合に出させることは出来るかなと思って!」
「わはは。シンイチは愉快なことを考える。自分でやってみよ」
「オレのねじる力じゃ、鼻をねじるのが精一杯さ」
「鍛え方が足りぬぞ」
「精進するからさ。オレ、ミヨちゃんの兄貴を助けたいんだ」
「うむ。力を貸そう。因果の世界線を、少々ねじる」
大天狗は遠野の岩山の中から、ぐいと掌をねじった。大型の獣のような咆哮が、東京まで響いた。
「ねじる力」
大きな黒い渦が、突然、ミヨの家ごと包み込んだ。ぐるりと空間がねじられ、たちまちシンイチとミヨは、真っ暗で広大な空間へと飛ばされた。
「なにこれ? なにこれ?」とミヨは訳も分らず周囲を見渡す。
「ちょっとしたショーがはじまるよ!」と、シンイチはいたずらっぽく笑った。
そこは、巨大アリーナだった。
電気が消え、真っ暗な闇。目が慣れてくると、真ん中に白い試合用のリングがぼんやり浮き上がって見える。周囲はすり鉢状に観客席が並べてある。二階席も三階席もあり、きっと試合のときは何万人もの観客で埋まるのだろう。今の観客は、シンイチとミヨのたった二人だが。
「何がはじまるの?」と、ミヨは小声で尋ねた。
「レディース・アンド・ジェントルメン!」
シンイチの声とともにカクテルライトが点灯し、リングの白いキャンバスが照らされた。試合の格好をさせられた哲男が、その上で戸惑っていた。
「お兄ちゃん!」
ガリガリの裸に、青のパンツ、青い
「なんなんだよこれ!」
シンイチたちに気づいた痩せっぽちの哲男は、リングの上から詰問した。
「やって見せてもらおうと思ってさ!」と、シンイチは笑顔で答えた。
「何を?」
「あの、タックル切れるって中国拳法の技!」
「お、おう。焼鶏寧頭か」
「あと、ハイキックは見えるから、ガードすればいいんでしょ?」
「お、……おう」
「じゃやってみて! 大山選手に!」
「ハア?」
哲男は、相手方の反対コーナーを見た。
そこに赤いパンツ、赤いグローブ、赤いレガースのコスチュームの格闘家がいた。問題のUXCの試合で、問題のハイキックを食らって負けた、大山一廣本人だった。
「マジ! 大山じゃん!」と哲男は驚いた。
「大山さん! ネットで色々言われてますね!」とシンイチは質問した。
「まあ、不甲斐ない自分が悪いんス」と大山は、申し訳なさそうに答えた。
「今から彼が対策見せてくれるって!」
シンイチは哲男を紹介した。
「綾辺ええ哲男選手ううう! 中国拳法の達人!」
哲男は状況にのまれ、どうしていいか分らない。
「そしてプロ格闘家! 大山アアア一廣オオオオ!」
大山はリング中央に歩み出て、グローブを合わせることを要求した。哲男は慌ててリング中央に走り、両拳を合わせた。
デカイ。それが最初の哲男の感想だ。
大山は格闘家としては小柄なほうである。それ故ネットでは「小山」扱いされているし、哲男も「小山」呼ばわりを何度もした。だが目の前にするリアルな大山は、一八十センチ九十五キロの肉塊だ。腕周りは四十センチ、胸板はマグロの解体ショー並。その肉が動く圧倒的説得力。一六十センチ四十五キロのモヤシから見たら、まさに大山だ。体重差は倍、それは直接、筋肉量の差である。
大山は、自分の赤いグローブをばしんと音を立てて叩いた。
「赤は挑戦者側の色で、青はチャンピオン側っスね。チャンピオンの胸を借りますよ」
ミヨはシンイチに訴えた。
「これじゃお兄ちゃんがボコボコにされちゃうよ! 死んじゃう!」
「安心して。ここは、仮の世界なんだ」とシンイチは答える。
「仮?」
「もしもこうだったら、っていう仮の時空。それに大山選手はプロだし、手加減ぐらいできるよ。やばかったらオレが不動金縛りで止めるし!」
「……そうなの?」
「じゃ、ゴング鳴らして!」
「こ、これ?」
リングサイドにはゴングがあった。重たい木槌で鐘を叩く伝統的なタイプだ。ミヨは思い切りふりかぶってゴングを叩いた。
カーン。
十分一ラウンド、
「まじかよ……まじかよ……」
哲男はあまりの無茶振りについていけない。目の前には大山選手が、重い体の割に軽快なステップを踏んでいる。
まず哲男は、カクテルライトの眩しさに閉口した。光線が強すぎて集中できない。その分周りの観客席が暗くて、よく見えないのがさらに不安を煽った。暗闇の中にいるみたいだ。みんなが見てる筈なのに、その顔が見えず、さらし者にされている恐怖。
足元のキャンバスも、想像していたよりふかふかでびっくりした。足を滑るように動かせず、砂浜に足を取られる感触だ。大山選手がステップで跳ねるたびに、キャンバスがバウンドする。なんだよこれ。トランポリンの上にいるみたいだ。オイ、跳ぶなよ。俺が転ぶだろ。しかもよく見ると、白いキャンバスには血の跡が点々とこびりついていて、テレビで見るより随分汚い。洗濯したり出来ないのだろうと余計なことを考える。
目が一瞬見えなくなった。そのあと、鼻がツンとした。大山選手のリードジャブが鼻先を掠めたのだ。それだけで鼻血がどろりと出た。鉄の臭いで、呼吸が出来ない。ふんと鼻に力を入れて血を噴き出させても、尚呼吸が困難だ。鼻の痛みはあとから来た。垂れた血はキャンバスをぼたぼたと汚す。
「タックルをするよ。その技見せてよ」
哲男は慌てて構えた。鍛えた丸太のような首にだって、回転するテコの理は効く筈だ。
が、まず
何度も何度も、タックル一発だけで哲男は吹き飛ばされた。八回目、哲男はロープまで吹き飛ばされ、前にはじかれ、顔面をキャンバスで打った。また鼻血が出た。頭が痛い。首が鞭打ちみたいになってる。
「上手くいかないねえ」
と大山は離れ際軽いローキックを放った。哲男の足は二本ともなぎ倒され、身体が真横になるほど回転した。
痛い!
痛いなんてもんじゃない!
我慢できない痛みというのが世の中にはある。ローキックの痛みはその種のものだ。なんと言ってもローの鍛え方は、ビール瓶で脛を延々(痛くなくなるまで)叩くのである。一度もビール瓶で叩いたことのない、哲男の
目の前に、大山の足があった。
「あ……」
「そう、こないだ俺が引っかかった連携」
ハイキックを空中で止めるには、かなりの技量が必要だ。大山はそれを笑顔でやってのけた。
哲男は恐怖にかられ、腕を振り回してパンチを放った。右。左。右。そのパンチを低く潜り、大山は哲男の胸に低重心で抱きついた。
「タックルは、はい出しますよ、って出さないよ。こうやって相手にパンチを出させて、それに合わせて潜るんだ。その瞬間は、そっちは片手しか使えないでしょ」
哲男の必殺技「焼鶏寧頭」は、両手を使わなければ出来ない。その前提ごと崩されてしまった。仮に両手で大山の首を捻ったとしても、それより先にタックルの勢いのまま地面に倒されるだろう。技というものは、ある程度似た体格でしか通用しない。そして総合格闘技とは無差別級である。
大山は片足をかけ、キャンバスに哲男を押し倒した。教科書どおりのテイクダウンで、上に覆いかぶさり寝技へ展開。
「……!」
とにかく重くて跳ね返せない。寝技のコツは、上に乗った側が脱力することである。「死体は重い」とよく言われる。人間は無意識に体に力を入れていて、その分固まって力が逃げるらしい。水のように脱力すれば、死体のように全体重が下に集まる。
圧死は嫌だ。胸が苦しい。
「あと、これやられるとキツイんだよねえ」
大山は哲男の鼻と口をグローブで塞いだ。
はあ? ただでさえ鼻血で息が詰まるのに、グローブの革とワセリンの匂いが余計にキツイ。なんだこれ。呼吸できない。「しょっぱい」「塩」とブーイングされる地味な寝技の最中、こんなことがされてたのか。
大山はグローブを一端外した。必死で息を吸おうと哲男は大きく口をあけ、首を伸ばした。その首に大山の腕が巻きついた。まるで詰め将棋だ。一瞬入ってきた空気は、喉で絞められ肺まで届かなかった。
「あとこれも地味に嫌」
大山は哲男の顔をキャンバスに擦りつけた。キャンバスは荒いテント地の布で出来ている。運動会などで校庭にある、あの白くて固い布に顔を強制的に擦りつけられることを想像するとよい。
熱い! 熱い! 火傷する! なんだこれ。なんなんだこれ。こんなのみんなやってんのか。カメラになんかちっともうつってないじゃないか。こんなの誰も知らねえぞ。
「ついでに」
大山は親指を曲げ、パンツの上から哲男の肛門に、第一関節まで入れた。
「ぎゃあ」
哲男が最後に見た光景は、天井の白いライトだった。
試合なんて、痛くて息が出来なくて、眩しくて不安で、恐くてみじめなだけじゃないか。
哲男が意識を取り戻すと、そこはまだリングの上だった。眩しすぎるカクテルライトは半分消えていて、リングサイドに妹のミヨと、アナウンスした少年がいた。ニコニコした大山選手が、リングの上に胡坐をかいていた。
「どう?」と大山は笑った。
「……え?」
「どう?」
「はい?」
「どう? リアルは!」
「い……痛いです」
「そうでしょ!」
大山は更に笑った。
「リアルはね、痛いんだよねえ!」
「俺の想像してた技なんて……全然通用しなかった」
「そんなもん、そんなもん! 圧倒的現実が、理論を押し流すのさ!」
大山はニコニコして右拳を左の掌にぶつけた。ばちーんとものすごい音がした。
「……はい」
「それが分ってよかったじゃん!」
大山は肩を組んできた。肌を合わせた者同士にしか分らない、友情のような感覚を哲男は抱いた。
「あの。……大山選手に聞きたいことが」
「?」
「こないだのUXC。なんでハイキックガードできなかったんですか? あの作戦見え見えじゃないですか。昔からマイケルはあれしか出来ないでしょ。ローやミドルが効かされてたとはいえ、ハイが来るのは分ってた筈」
「来るのは分っててもね、身体が反応しないこともあるよね」
「……はい」
それは一瞬前に、自ら経験したことだ。
「あと、秘密にしといてね」
大山選手は一歩進んで、秘密を打ち明けた。
「俺、右わき腹の肋骨、骨折癖がついちゃってさ」
「えっ」
「ミドルキックやだなと思って無意識にかばったんだよ。そこでぱこーん」
「……そうだったのか。そんなの、見た目じゃ分らないよ……」
「見た目じゃ分からないことも、リアルにはいっぱいあるさ」
哲男は立ち上がった。
小さなリングを囲む大観衆の為の観客席は、三百六十度どこを見渡してもすり鉢状で、二階席からも三階席からも、どの席からもリングを見下ろせるような構造になっている。
「俺、あのへんからしか見てなかった。あんな上からじゃ、ここのことはなんにも見えない。汚ねえキャンバスも、重たさも、まぶしさも、痛いのも。……なにが神視点だよ」
哲男は大山選手に、深く頭を下げた。
「……今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
大山も立ち上がり、頭を下げた。
哲男のほうから握手を求めた。哲男の手は大山に握りつぶされんばかりに握られ、窒息しそうなほどに抱きしめられた。哲男は、意地で精一杯握り返した。
こうして、妖怪「上から目線」は哲男から外れた。
「不動金縛り!」
シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
挑戦者色の赤い炎が、高慢ちきな青のチャンピオン、妖怪「上から目線」を唐竹割りにした。「上から目線」は断末魔の声をあげて炎に包まれ、清めの塩と化した。
遠野の大天狗は事を見届けると、ねじる力で彼らを元の時空へと戻した。
その後、哲男は空手道場に通うようになった。週三回の稽古に励み、もやしのような体は少し太くなりはじめたようだ。その後の大山選手は勝ったり負けたりだが、哲男は試合を欠かさず見ている。いつかアメリカにリアル試合を見に行きたいと、貯金もしはじめた。
ミヨちゃんが、こないだのケーキの新作が出たの、とシンイチをまた家へ呼んだ。
哲男の部屋にもシンイチは顔を出した。哲男はまた格闘動画を見ながら、ネットに書き込みをしていた。
『あんなタックル切ればいいじゃん』と言う書き込みに、
『やってから言え』と、答えていた。
『知ってるか? 格闘家って、大男なんだ』と、言葉を締め、シンイチに言った。
「まだまだネットには、上から目線の連中がいるよ」
シンイチはその場に不動金縛りをかけた。「つらぬく力」でネットの向こう側へ行けないかと試してみた。悪意を辿ってゆき、パソコンの向こう側に出現することに成功した。ネットの住民たちは、かなりの確率で妖怪「上から目線」に取り憑かれていて、大天狗に頼み、彼らと今度はマイケル・フィリップのハイキックをかわせるかどうか試合をしてもらい、現実を見せて妖怪「上から目線」を外し、斬り伏せた。
哲男は、窓をガラリとあけた。
「風が冷てえ」
引きこもっていた部屋に、外の空気が満ちた。
「でもこれが、リアルなんだよな」
てんぐ探偵只今参上
次は何処の暗闇か
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