第21話 Merciful Sea

「シュウに、ぼくの夢を見てほしかった」

 ジュカン区西に建つシノ・サイガの研究所を訪れていた。ナエは、今日はお客様だ。仕事を正式に辞退するついでに事の顛末を報告しに来たのだ。

「それでシュウに試薬を投与した?」

 サイガの確認にナエは首肯する。

「怖い子だ。無茶をしたね」

 サイガは笑いを噛み殺して、それでも堪えきれずに喉の奥を震わせた。

「ぼくは久しぶりにぼくだけの夢を見たんだ。シュウの夢じゃなくて。何日もかかった。シュウはぜんぜん夢に現れなかったし、現れたとしてもそれはぼくの作り出したものだってすぐに分かった。だから本当のシュウだ、って思えるシュウと会えたことが、すごく嬉しかった。ああ、うん――全部勘違いなのかもしれない。ぼくはずっとぼくだけの夢を見て、都合の良い解釈をしていたのかもしれない。それでもね、ぼくはシュウの夢を見ていたんだと思う。シュウもきっと、ぼくの夢を見てくれたんだと思う」

「それは今後確めてみたいね、是非に。キリヤ・シュウの退院はいつ?」

「まだ目覚めないんだ。予定よりかかりそう。眠っていた期間が期間だけに、慎重に処置を進めているみたい」

「心配ないだろう。じきに目を覚ますよ。リハビリが済んだらここにもつれてきてほしいな。是非検査をしたい」

「うん、シュウが嫌がらなければね」

「勿論だ。きみのママに会える日を楽しみにしているよ。それと、きみとシュウの再会を、僕は心から祝福する。おめでとう」

 そう言って彼は眩しそうに目を細めて笑った。

 ナエはサイガから試薬も給金も受け取らずに施設をあとにする。



 待ち合わせを現地集合にしたのはヨウの判断だ。

 電車で三時間もの時を共に過ごすにはまだ心の準備が足りなかった。

 言い訳としては直前に用事があるからと断ったくせに、一本早い電車に乗ってしまい、結果として待つことになった。

 向こうは車椅子だから手を貸すためにも一緒に来たほうが良かったのではと後悔が浮かぶも時は既に遅い。

 ヨウは焦りばかりを膨らませて待っている。

 ナエとシュウの到着を。


 

 車椅子が大きいのか、彼女自身の体が小さいのか、そこに腰掛けるシュウはとても小さく見える。古い駅舎の段差にも難なく車椅子を操ってナエは前に進んだ。

 妹と言われたほうがまだ納得のいく姿をしていた。

 帽子を目深に被っていて、長い髪をゆるくひとつにまとめている。

 俯いた顔を上げてヨウを見た。

 驚くほどナエにそっくりな少女だ――少し前のナエに、よく似ていた。

「ヨウ。もしかして待たせちゃった?」

「いや、予定が変わって。早い電車に乗れたんだ」

「言ってくれれば一緒に来たのに」

 ナエは浮ついた様子でいつもより早口だ。落ち着きがなく、いつ言い出そうかと迷っている。すぐにでも紹介したいと逸る気持ちを必死に押さえ込んでいるのが丸判りでヨウは苦笑した。

「はじめまして。瀬名蛹セナ・ヨウです。ナエの友達」

 腰をかがめて手を差し出す。

 シュウは華奢な白い腕をそうっと差し出した。

 触れるとヨウより冷たくて、しかし人間の体温を持っていた。

「ヨウ君。よろしく。私はシュウ、……ナエの母です」

 そう紹介されてもまるで実感がない。

 シュウは子を一人産んだようにはとても思えない虚弱な少女のかたちをしている。

 表情の動きはとても少なくて感情は読み取れない。

 握手を交わすシュウの手に少しだけ力がこもった。

 目を覚ましたシュウは、神さまでもなんでもなくて、一人の些細な人間だ。

 年上らしく大人びたところもなければ、母親としての頼もしさもない。

 けれど、確かに生きていた。

 シュウが自ら母親を名乗ることがナエにはこの上ない幸福なのだろう。

 ヨウがはじめて見る顔を、ようやく歳相応の、笑顔を浮かべている。

「はじめましてって、へんだね。ヨウは何度もシュウに会っているもの」

 照れくさいのがナエはまだ早口だ。

 車椅子を押して駅舎を出ていく。

 珍しく強く日が差していてヨウは日陰を出て目を細めた。

 駅から既に海が一望できて、ナエは走り出したい気持ちをこらえて安全に車椅子を運んでいる。潮風の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、ヨウも二人の後を追った。

 あの朝、ナエは海の夢を見たらしい。

 母親の夢を見るのではなく、ナエの夢を母親に見せることで、気持ちを伝えようとしたとナエは言う。

 ナエはもう毎晩死ぬことなく目を覚ますのだと理解しヨウは安堵した。

 ナエはナエ自身の夢を取り戻したのだ。

 それが海の夢だった。

 そこにヨウが影響したかは分からない。

 ヨウがまだ毎夜見る夢とは異なるのだろう。

 その海は優しくてきっと誰も傷つけない。

 再び海へ来る約束をこうして叶えるまでに少し時間がかかった。

 シュウが現状を認識するまでの時間、シュウがナエに歩み寄るまでの時間、一眠りのあいだに過ぎ去った五年間を受け入れるまでの時間。

 ナエにとって、今更何を辛抱することもない。

 根気強くシュウを助け、こうして海まで連れ出した。

 ヨウは素直に羨ましく思う。そうまでして愛する対象を持つナエに強さを感じた。

 砂浜に車輪は前進を阻まれて、ヨウが力を貸して波打ち際まで車椅子を運んだ。

 ナエはシュウとヨウを残して砂浜を駆け出す。

 靴を脱ぎ捨て、首から提げた古いカメラを跳ねさせながら、素足に砂の感触を楽しんでいる。

 思い出したようにカメラを携え地平線に向かって構えた。

 シャッターを切る。

 繰り返し何度も。砂浜を、水面を、波間を、空を写す。

 あれは最近ナエがトウマ・ケイイチに習い始めた趣味で今回の目的のひとつだ。

 シュウの傍らに残されて、居辛い思いで立ち尽くす。

 シュウと何か話すべきかと話題を探す。

 遠慮がちにシュウを見下ろした。帽子を傾けて視界を開き海を眺める眼差しが、いつか見たナエと良く似ている。

「海を見たことは?」

 話しかけられたことが意外だったようで、シュウはヨウを見上げた。

 日が差すのか眩しそうに目を細める。

 それがもし微笑みだったら、とても優しい笑顔だった。

「夢で見た気がするの」

 答えるシュウは見た目相応の少女のような喋り方でナエよりも幼い印象を受ける。

 再び海に目を向けて、この光景を夢の景色と見比べるように首をめぐらせた。

 シュウは視界にナエをとらえて、しばらくじっと見入る。

「ここでナエと出逢った」

 それがナエの夢と同じものかどうかはヨウには分からない。

 ナエはきっと信じているのだろう。

 夢の中でシュウと出会ったことを。

 それを裏付けるシュウの証言を、彼女はきっと喜ぶはずだ。

「大きくなっていたけれど、すぐにわかった。私をママと呼んだから」

 少しずつ耳に馴染みはじめたシュウの、その声もナエに似ていた。親子というより双子のようだ。

 ヨウは意外な気持ちでシュウの言葉を聞く。

 実際にシュウに会うのはずっと怖かった。

 許せないのではないか――憎しみや憤りが滲み出し、また暴力的な衝動に駆られたとしたら、きっとナエを悲しませる。

 しかし杞憂だったようだ。今日までにナエのそばにシュウが居ることが答えだった。シュウはナエを受け入れた。ならば、ヨウが彼女を憎む理由はひとつもない。

「あなたに謝りたいことがある」

 ヨウは意を決して切り出す。

 シュウはヨウを見上げて、目を伏せた。

 首を横に振る。謝る必要はないと制して再びヨウを見た。

 その仕草からシュウにも迷いが窺えた。

 彼女が眠りに至った理由との折り合いを、まだつけられずに抱えている。それは今後もシュウに絡んだまま当分は共にあるのだろう。

 ヨウは戸惑いを隠すように笑う。

 シュウの視線はまた波打ち際を追いかけてナエを見つける。

 ヨウも同じようにナエを見た。カメラを海へ構えて、立ち尽くし、思い立ったようにシャッターを押している。

 シュウに謝罪が出来ないのなら替わりにお礼を言いたいと思った。けれどそれも的外れだと感じる。きっとそれはナエが充分にしたはずだ。

 ヨウはただ二人が羨ましかった。シュウが選んだ長年の眠りを、もどかしく思ったが、それはヨウにとっては得難い猶予だった。

 セナ・キョウが同じように死ではなく眠りを選んでくれたならば結果はまた違っただろう。けれどキョウは死を急いた。

 シュウはゆるやかに死を待って、しかしそれは妨げられたのだ。彼女を必要とする人間によって。

 ヨウだって言いたかった。キョウに伝えたかった。

 まだあなたは必要だと呼びかけたかった。

 それが出来る唯一の人間だったはずなのだ。否、セナ・メイにだって言えただろう。あとほんの少しの年数を待ってくれたならば。ひとりの人間として認めてくれたならば。

 呼びかけ、答える。

 たったそれだけの応酬ができたならば、今こうして並んで海を眺めていたのは、キョウとメイ、そしてヨウの家族だったかもしれない。

 眠りは猶予を与え、その間にナエは呼びかける言葉を持った。

 シュウを揺り起こす言葉はナエにしか伝えられない。

 ナエはシュウの娘だから。

 彼女を何の理屈もなく許し認めることのできる、ただ一人の存在なのだ。

「ナエが呼んでる。ヨウ君、運んでくれる?」

「勿論」

 シュウの要求に、ヨウは少し考える。

 車椅子から彼女を抱き上げると予測していたよりもずっと軽くて驚いた。

 それはシュウも同じことで、唐突な浮遊感に声を上げる。

 落下を恐れるようにヨウの腕にしがみつき、やがてバランスをとって身を任せた。

 シュウを抱えたままナエのもとへ歩き出す。

 二人の姿を、ナエはカメラのレンズ越しに見つけて笑う。

 シャッターを何度も何度も押して、喜んで笑い声を上げた。つられたように笑ったシュウの笑顔も、きっと何枚もの写真のうちのどこかに写ったことだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

傷つけない海 詠野万知子 @liculuco

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ