第20話 産声

 海へ行ってから二週間が過ぎようとしていた。

 海へ行ったのはこの町へ引っ越してからは初めてで、その時自分がどんな感慨を抱くか怖くもあったのだが、実際に足を運んで触れてみて、拍子抜けしてしまった。ただ馴染み深い空気に少しだけ胸が痛んで、予期していたような気持ちの乱れはほとんどなかった。

 もっとも、ナエの海への態度が面白くて、それで気が紛れていたのが大きな要因だろう。

 あれからナエを訪ねていない。

 彼女が何を選択したのか知らないままだ。

 それを知るのが怖いのかもしれない。否定はできなかった。

 仕事の途中で古ぼけたアパートが視界に入る。

 アパート・ビリジアンは今日も窮屈そうに建物と建物に挟まれて建っている。

 大きな期待をかけたわけではなかったが、何気なく眺めていると玄関が開いて少女が出てきた。

 ナエだった。

「あ。ヨウだ」

 と、ナエは隙だらけの顔で呟く。

「ナエ。久しぶり……」

 ヨウはふと潮の香りを感じた。

 海の匂いがする。錯覚だろうか。

「仕事?」

「そう。ナエは? 出かけるの?」

「うん、ぼくも仕事。サイガのところへ行く」

「途中まで一緒に行こう。方向、同じだろ」

 ナエは返事もせず隣に並び立ち、気ままな様子で足を運んだ。

 サイガの施設へ行くというならやっぱり試薬の仕事を続けたままなのだろう。

 小さな落胆がヨウの胸に降りて、それを自分で否定した。

 次の仕事が決まるまで続けざるを得ないだろうし、ナエの年齢ではそうそう次が決まるはずもない。

 落胆するのはまだ早い。

 彼女がどういうつもりか分からないうちから決め付ける自分自身に失望して、ヨウは黙り込んでしまう。

「ヨウ。明日、時間ある? もしよかったら、目覚ましをお願いしても良い?」

「目覚まし? 電話をかければいいのか」

「ううん。家まで来てほしい。そうだ、鍵。今晩までには届けておくよ。それで朝、ぼくのことを起こしてほしいんだ」

「いいけど――」

 どうしてわざわざ、と尋ねることはできなかった。

 まだ悪夢の改変を信じているのだろうか。

 本意を知って今度こそ落胆してしまうのが嫌だった。

「ヨウはまだ怖い夢を見る?」

 ナエが問いかける意図が分からない。

 沈黙が図らずも肯定になってしまった。

 もしかして、ナエはヨウのことをも救うつもりなのだろうか。

 幼い勇気を侮る気持ちが沸いてヨウは首を振った。

 ナエは構わず歩いていく。

 ろくに話もできないまま目的地にたどり着いてしまいそうだった。

「ぼく、海は嫌いじゃない。だからヨウも海が嫌いじゃなくなったらいいな」

「どうして」

「そうじゃなきゃ、また一緒に行こうって誘えないから」

「また、二人で?」

 ナエは答えない。

 ただ黙って微笑んだ。あの日見た景色を思い出すように。

 やがて道は分かれ、二人は解散した。

 ナエがどこかへいこうと提案したことが意外で、ヨウの都合も考えてくれたことに戸惑いを感じる。

 嬉しいはずだった。この喜びが不吉な予兆に感じられることが怖くて、喜びを抑え込んだ。

 明日、彼女を起こしに行く。

 言いつけられた用件の理由も分からないまま、ヨウは仕事が終わるまでの時間をもどかしく過ごした。

 家に帰るとポストの中に鍵が届けられていて、しばらく自分の所有物だったそれを懐かしい思いで手に取る。

 それはナエからの許しだと思った。



 テーブルには二列十二行のシートに二列一行のバラを併せた十四錠、二週間分の薬が横たわっている。

 いくつかの錠剤はシートから損なわれて消費されていた。

 ナエは繭の部屋の中、潮の香りに包まれて、母親の姿を眺めている。

「シュウ。おやすみ」

 もう眠っている相手にそう挨拶して部屋を去る。

 待っても返事がないのはとっくに知っていた。

 自分の寝所へ向かい、ナエはここでも〈Cradle〉を焚いた。

 同じ匂いに包まれて眠ることに意味を見出して、ベッドの中で目を閉じる。

 羊が一匹、羊が二匹。羊が三匹、羊が四匹。

 数え始めて、やがて眠りに落ちた。

 そこで、羊は旅を続けている。

 長いこと道に迷っていた少女を背中に乗っけて、ようやく旅は再開したばかりだ。

 ナエはふわふわの羊毛に包まれて眠りながら旅をする。

 道は長く、途切れ途切れで果てがなく、入り組んでいて複雑だ。

 目指す場所にいつたどり着くかも分からない。

 だから眠りながら進むくらいで丁度良い。

 今日は辿り着くだろうか。毎晩挑戦を続けている。

 道なき道に道を探して、彼女のもとを目指している。

 それは、シュウへと至る旅路だった。

 海の匂いがする。浜辺が近い。

 ナエが羊の背中で目を覚ますと、そこは見慣れたアパートだった。

 褪せた緑色の外壁が両隣の建物に押しつぶされるように建っている。

 ハシュ区四丁目五番十八号アパート・ビリジアン。

 その一○一号室がナエとシュウの暮らす家だ。

 羊を家の前に停めて、ナエは不思議な気持ちを抱いて玄関の前に立つ。

 この部屋を出発してきて、この部屋にたどり着いてしまった。

 意を決してドアを開ける。その向こうから音がした。

 波の音だ。

 寄せては返す、絶え間なく響く、水の、惑星の、鼓動。

 ぱちぱちと瞬きをしてナエはその光景を眺めた。

 いっぱいに広がる海。

 空には薄暗い雲が立ち込めている。

 足元には白い砂浜が、ナエの素肌の足を包み込んでいる。

 風が頬にかかる髪を揺らした。

 ナエは周囲を見渡す。

 いつのまにかドアは消えて、ナエの体は砂浜に一人ぼっちで立っている。

「シュウ。ママ――いるの?」

 波間から響く呼び声を待って耳を澄ませた。

 少しの異変も見逃さないよう目をみはった。

 そうして、もしかしたらここには自分ひとりしか存在しないのかもしれないという心細さに怯えた。

 こんな広い場所に、ひとりきりでいるのは、とても寂しい。

「ママ。ママ。ぼくだよ。来たよ。ナエだ。あなたの娘だよ。

 覚えているでしょう――? ぼく、ずっとそばにいた」

 答えるものはなにもない。聞こえるのは波の音だけ。

 怯える足が震えて膝が折れそうだ。

 裏切られた気持ちがナエを臆病にする。

 ナエはぼんやりと海を眺めた。

 このまま海に身を任せて飲み込まれてしまっても、それなりに心地良いかもしれないと考えて、ふとヨウを思い出す。

 彼はナエの考えを歓迎しないだろう。

 ヨウのことなんか関係ないのに。

 でもナエは考えを改めて、波打ち際を歩き出した。

 濡れた砂を裸足で踏む。時折足首が海水に浸った。

 足跡をまばらに残しながら歩き続ける。

 そうするうちにひとつの気持ちに没頭していった。

「会いたいよ。もう一度」

 果ての見えない砂浜を行く。

 そうするうちに何かが見えた。

 それは一匹の羊だった。朝を迎えた黄金の光の下を、その羊はゆっくり、もどかしいほどの速度で歩いている。

 もしやと思ってナエは駆け出し、その拍子に転んで、でも危うくバランスをとって逆にそれを勢いに変えた。

 走っていく。

 砂を踏み、蹴飛ばしながら、その羊を迎えに行った。

 思ったとおりだ。

 ナエもそうして来たように、羊は背中に旅人を乗せていた。

 とてもよく眠っている。長い金の髪を潮風に揺らして、羊の背中で丸く体を縮こまらせて、深い眠りについている。

「ママ!」

 シュウだった。その姿が見えた途端に、ナエの足には力が漲って、さっきよりもずっと速く走った。風になったみたいだ。波が足首にまとわりつくのも気にならない。

 飛沫を立て、砂を蹴って、ナエは羊のもとへ駆けて行く。

「あっ」

 走ってくるナエにびっくりしたのか、羊の足取りが戸惑った。

 軽やかに方向転換をして走り出してしまう。

 追いかけたら逃げていく。

 焦りが息を詰まらせて、ナエは少しずつ羊から遠ざかっていく。

「待って! 待って、シュウ! 起きて、ママ!」

 ナエは両腕を伸ばして羊を追った。願うように呼び続ける。

 まだ羊の上で眠り続ける彼女を、どうやって起こせばいいのか分からなかった。

 ただ呼び続けた。そうするほかに術はなかった。

 そうしてついに、羊の背中で、彼女は身じろぎをした。

「ママ――シュウ。ぼくを見て。ここにいる。ここまで来たよ」

 ほとんど声はかすれて言葉にならなかっただろう。

 しかし羊の上の真っ白な少女はそれで気付いてくれたようだ。

 寝ぼけまなこをこすりながら追いすがるナエを振り返る。

 ふと気付いて周囲を見渡して、不本意な場所へ運ばれていると分かったようだ。

 そうして、ナエがいっぱいに伸ばした腕を見つけて、少女は羊の背を飛び降りた。

 大きな水しぶきが上がる。

 ナエは背中に水を感じた。

 砂浜はクッションのように柔らかく、シュウごとナエを受け止めてくれている。

 ナエは抱きかかえたシュウを、もう一度強く抱きしめた。小さくて、細くて頼り無くて、ほのかに、でも確かに熱を持っていた。

 背中を水に浸したまま、胸に抱いたシュウを見る。

 シュウもこちらを窺うように覗きこんでいて、まるで野良猫が相手を見定めているような仕草だった。

 透明な青い瞳が確かにナエを見た。

 小さな手でナエの頬に触れて、形を確かめるようになぞる。

 そうして唇をそっと開いて、吐息が漏れた。

 それは音を伴っていた。

「ナ、エ」

 胸の奥で何かが弾けて、苦しくて、熱くて、吐き出したくてたまらない。

 ナエはあえぐように口を開く。

 そうして喉の奥から嗚咽があふれ出た。



 どこかで赤ん坊が泣いていると思った。早朝のハシュ区の裏通り、アパート・ビリジアンのほど近くでヨウはふと足を止めた。赤ん坊の泣き声が少し気になって、しかしありふれたことだと納得してまた歩き出す。

 約束の時間よりやや早い。どうせなら朝食でも作るつもりだ。

 右のポケットには一○一号室の鍵が入っている。

 もうそろそろ玄関が見える。

 ヨウは鍵を手に取った。

 赤ん坊の泣き声は益々近づいて不思議に思う。

 近所に乳児を育てている家なんてあっただろうか。

 ふと、それがまさに一○一号室のドアの向こうから聞こえていることに気付いて、ヨウは不吉な予感に怖気立った。

 急いで玄関へ駆け込んで鍵を開ける。

 もどかしい気持ちでドアを開け、見慣れたナエの部屋を目指す。

 ふいに潮の香りを感じて、いっそう不安をかきたてられた。ヨウにとってそれは死の記憶に強く結びついている。

 いつしか声は消えていて、ヨウはドアを開けて部屋に飛び込んだ。

 ナエはベッドの上で仰向けになって、腕で顔を覆っている。大きく開いた口が呼吸を繰り返して、だから、やっぱり泣いていたのはナエだと思った。

「――起こしにきたよ。ナエ」

 恐る恐る呼びかける。

 少女は顔の上から細い腕を外した。

 頬が涙に濡れて、瞳が赤く充血している。

 それなのに、少女の口元は綻んで表情に陰りは見えなかった。

 ちぐはぐな印象に戸惑いを抱く。ナエはまだ横たわったまま、体を起こせない様子で首だけ曲げてヨウを見た。

「ナエ。どうしたの」

 尋ねる声にすぐには答えず、ナエはまた目を閉じる。

「うれしくて泣いていた。こんなのはじめてだ」

 それまでの緊張が一気に解けてヨウはベッドに腰掛けた。

 それから大きな安堵を漏らしてナエを見る。

 少女は唇に微笑みの名残を表したまま、再び眠りに落ちていた。

 今までに見たことのないような、健やかな寝顔だった。

 彼女が傷ついたのでなければ良いと思った。

 何が理由でも、それで良いと思った。



 目覚まし代わりのラジオが音を吹き出し始める。

 中途半端な時間につけて、中途半端なところから話が始まる。次のニュースです。淡々と声が言う。今朝どこかで電車が止まっている。線路に悪質ないたずらをされダイヤが乱れています。政治家が仲直りをしたけど言を翻すのは時間の問題だろう。しかつめらしくキャスターが言う。どこかの会社が悪いことをしていた。災害への義援金がこんなに沢山集まりました。父親が子に殺される悲惨な事件。今日は雨が降るので傘を忘れずに出かけること。

 ぜんぶ、この町で起きていること。

 朝食が出来上がる頃に、少女は自然と目を覚まして着替えを済ませて現れた。

 少し腫れぼったい目をしていて、それが少女をいつもよりあどけなく見せる。お行儀良く席について、ヨウが食事の支度をする手際を眺めている。

「それ、ぼくにもできるかな」

「どれ?」

「料理」

 先に出されていたカップに満たされたお茶に口をつけてナエは息を吐く。

「ほんとはずっと、目が覚めてヨウがいてご飯が出来てるのって嬉しかったんだ。だから呼んだの。ぼくもシュウにしてあげたい。シュウがそれを気に入るかは分からないけど」

 ヨウはナエが示した言葉の意味を少しずつ理解する。

 彼女が何を選択したのか。

 あの固く紡がれた繭を、ほどく決心をしたのだ。

「覚醒処置には一週間かかるんだ。間に合うかな」

「それだけあれば充分だよ。つきっきりで教えるから」

「よかった。頼りにしているよ、ヨウ」

 食事の準備は整った。

 一体どうして今に至るのか、その話を聞く時間はたっぷりあるはずだ。

 朝は、まだ始まったばかりだ。

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