第19話 選択

「時は止まったままなんだよ、ナエ」

 サイガがナエへ視線を向けた。

「きみのママは眠っている間、何ら成長をしていないよ。眠ったときの思考で固まっている。きみが譲ったとして、彼女は理解するかな?」

「わからない……」

「母親として社会的に見て、それは充分酷いと言っていいんだよ。でも、それを許そうと言うんだね」

「うん」

 理解し難いようにため息を吐く。

「何にしてもね、こちらは有用なサンプルを失うことになるんだ。なるべくなら続けてほしいけど、無理強いはできない。そう理解したうえでもう一度言うけど、続けてくれないかな」

「……まだ少し、迷ってる」

「じゃあ決まりだ。結論を延ばそう。先二週間分。きみは給金と薬を受け取る。服用するもよし、せずとも僕には分からない。損はしていない、そうだろう?」

「そんなの、悪いよ」

「いいや違う、こちらの都合の良い話なんだよこれは。お願いだナエ」

 特徴的な細いフレームに嵌った薄く色づいたレンズの向こうでサイガの目が切実なふうにナエを見る。

 今まで世話になったことを考えると、断り難かった。

 結局ナエは首を縦に振る。

 今までのこと、思ったこと、相談を持ちかけるようにほとんど全て打ち明けた。

 サイガは何も言わなかった。

 頷いたナエの頭をポンと撫でて、

「良い子だね、飴をあげよう」

 薬師だか医師だか判然としない男シノ・サイガは、ポケットから引き抜いた棒つきのキャンディをナエへ差し出した。

 おそらくそれも、いつも通りレモンの味がするに違いない。

「利益がないと思ったら、そこで切り上げるのが良いよ。引き止めておいて言うのも妙なことだけど」

「うん。ありがとう」

 キャンディを口に含んでナエは応えた。



 帰り道に匂い屋へ寄った。

 丁度手にした給金で買い物をしようと思った。

 木造の床のきしむ音を久々に聞いて、なんだか懐かしいと感じる。

「おう、久しぶりだな。なんだ随分顔色が良いじゃねえか」

「そう?」

 店主が珍しいものを見たように眉をひそめる。

 そうしながらも太い指でポケットというポケットを探って品物を取り出した。

「ほらよ。そろそろ切れる頃だろう」

「ありがと。でも今日はまた違うものがほしくて」

「なんだ気に入らなかったか? 折角在庫を見つけ出したんだが、まあいい。何がお好みだ?」

「海の匂いのするのが欲しいんだ」

「海? いいけど、それがどういう匂いか分かるのかね」

「分かるよ。この前行って来た。ぼく、あの匂い好きだよ」

「オーケーオーケー、ちょっと待ってな。多分あるはずだ」

 匂い屋が品物を探るのを、わくわくする気持ちで待っていた。

 あの朝の海の香りがまだ残っているような気がする。

 ヨウの恐ろしい夢とは違って、実際の海をナエは優しく感じた。

 もう一度、きっと行きたいと思った。

「っと、これはどうかな。〈Cradle〉だと」

クレイドルゆりかご? それが海の匂い? なぜ?」

「海は命のゆりかごってな。詳しいことは自分でお勉強するんだな」

「そのうちね。それでいいよ。ちょうだい」

 ソーセージみたいな指に額面の一番大きな紙幣を渡すと、店主は舌打ちをして服のそこらじゅうを探してお釣りをかき集める。

 その間、先に受け取った包み紙を鼻先に近づけて、ナエは香の匂いを確めた。

 胸がすうっとするような、少し癖のある、確かに潮の香りだった。

「ほらよ、お釣りだ」

「ありがと。じゃ、またね」

「毎度」

 小さな女の子の夢の香りは気に入っていたけれど、そろそろ飽きがきてしまった。

 刺激は必要だ。

 家に帰って早く香を焚きたいと思う。

 逸る気持ちを抱えて帰り道を歩む。

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