最終話 雪の背中に生えた羽

 今朝のお天気お姉さんは、白いコートと耳あてのせいで、テレビ局の屋上で震える雪うさぎに見えた。こんな寒い日に冷たい風の中に立たせるなんて、酷い大人たちだ。今日はしっかり防寒対策をして出かけるように、と顔を強張らせて笑っていた。

 この辺りでは雪など滅多に降らないから、雪用のブーツなど準備していない連中ばかりだ。天候の変化について行けず、病人や怪我人が続出しているらしい。あまり気には留めなかったが、そういえばここ数日、サイレンの音をよく聞く。


 一度解けた雪が凍ると、石段を上るのは、僕のような若い奴でも用心がいるものだな。スニーカーに染みた雪が、足裏を痺れさせ、滑り落ちそうになる。思わず、普段触れることのない手すりを握る。

 崖上は穏やかだった昨日と違っていた。軋みながら開く保育園の門が、強風に持って行かれそうだ。園庭の水たまりを足先でつつくと、薄く張った氷が割れる。

 遊具に干されていた洗濯物は片付けられ、見覚えのあるスウェットシャツだけが、洗濯バサミで止められていた。

 凍てついた白い空を衝く、赤いとんがり屋根を見上げてから、会堂の大きな窓を覗く。陽の射さない汚れたガラスの奥には、誰の姿も見えなかった。レオとチャチャは舞台袖で身を寄せ合っているのかもしれない。

 ジャケットから鍵を出し、ドアノブに鎖し込もうとして手を止めた。そうだった。鍵は掛かっていないのだ。ポケットに鍵をしまって、ゆっくりノブを回した。

 チャチャが無理にこじ開けたのが悪かったのか、それとも寒さのせいなのか、昨日より更に酷い悲鳴をあげて、ドアは開いた。

 履き替えようとした靴がいつもの場所に無かった。あれ、と近くを探すと、蜘蛛の巣が取り払われた靴箱の端に、白いスニーカーが収まっていた。それを軽く床に投げると、片方が横向きに転がった。そこで、綿菓子のようにころころ床を這うはずの埃が見当たらないことに気づいた。

 靴を履き替え、歩きながら部屋を見渡した。部屋の隅で積み重なる机や椅子に絡んだ煤も、放られっ放しのブラウン管テレビに積もった埃も消えている。手洗い場の戸を引くと、床に水をまいた形跡があった。

 は、は、は……。文字をそのまま声にした笑いが、僕のくちから漏れた。

 長い間覚えの無い上々の気分で、僕は舞台に飛び上った。でも、それを悟られぬよう深呼吸をして、臙脂色の幕をこっそりとめくる。

 彼らを脅かしてはいけない、と。

 けれど……

 僕の眼に映ったのは赤い電気ストーブだけで、舞台袖からの子守歌は聴こえてこなかった。

 狭い舞台をうろうろ歩き、トイレのドアをひとつずつ開け、会堂の外へ飛び出す。園庭をぐるぐる回り、鍵の掛かった園舎の窓を覗く。

 鉄棒に絡まりながらはためくスウェットシャツは、ざらりと砂の感触を残し、脇腹のシミが目立たないほど汚れていた。

 会堂に戻り、背負っていたリュックサックを舞台の上に降ろした。

 いっときの夢が醒めたように、僕は茫然と肩を落とす。彼らの居た証拠は、こんなにも在るのに……。

 雑巾代わりのスウェットシャツで、わざわざ幽霊屋敷の床を磨いたのは、宿代のつもりなのだろうか。

 リュックサックから紺色の風呂敷に包まれた重箱を取り出した。歩きにくいと思ったのは、天気だけでなく、これのせいでもあったのだ。


 ぐずる赤ん坊を背中にくくりつけた女は、居間の大型テレビを観る僕に、「ああ、よかった」と言いながら風呂敷包みを手渡した。

 ずしりと重く、思わず顔を見ると、女の眼はテレビ画面に釘付けだった。

 映っていたのは、ショッピングモール内の授乳室で、四日前に誘拐された赤ん坊が保護されたというニュースだった。

 連れ去ったと思われる女が、ショッピングモールや産院の防犯カメラに映った映像が繰り返し流れていたけれど、まだ捕まっていないという。昨日の朝、頭を下げていた産院の院長が、泣きながら喜びの声をあげていた。

 全国放送から地方テレビ局へスタジオが切りかわると、

「少しでも暖かい所に寝かせてあげたいと思って授乳室に放置したのなら、連れ去った女にも情があったのでしょうけど、新生児なんてひとりじゃ生きていけないんだから、お母さんはどれだけ心を病んだことか……。わたしなら気が狂ってしまう」

 独り言を呟いた女は、背中の赤ん坊を愛おし気にゆらしながら台所へ消えていった。

「あ、ありがとうございます」

 この先、この女を「お母さん」なんて呼ぶ機会は一生ないだろうけど、僕は感謝を込めて言った。伝わったかどうかは判らないが……。

 地方版のトップニュースは、数十キロ離れた海岸で、骨片を体にくくりつけた身元不明の若い女の遺体が発見されたことだった。


 風呂敷を解くと三段重ねの重箱が現れた。金色の松が描かれた蓋を取ると、小振りなおにぎりがぎっしりと並んでいる。

 レオが好きだと言っていた梅干とじゃこのおにぎりをくちに運ぶ。正直に、美味いな、と思う。

 上段を持ち上げると、二段目には玉子焼きとスライスされた胡瓜の漬物と南瓜の煮物が、レタスに仕切られて詰め込まれていた。箸は、どこを探しても見当たらない。

 砂糖たっぷりの焦げ付いた玉子焼きは、の出汁巻き卵が一番の好物だった僕には甘すぎるし、漬かり過ぎた胡瓜のぬか漬けはしょっぱい。ぐずぐず煮込まれた南瓜は形が崩れ、摘まもうとするとジャムのように絡むので、指ですくって舐める。

 ひとり鼻息をふんっと吹き、笑いながら二段目の重を持ち上げると、目頭がじわりと潤む。一番下の重箱には、僕の好きな鮭のほぐし身を混ぜ込んだおにぎりが並んでいた。

 ねえ、レオ、本当に、生きていくのは面倒だね。

 食べたり眠ったりしなければ簡単、というわけじゃないんだ。どうして独りで生きていけないのだろうな。

 鮭のおにぎりをひとつくちに入れてから、僕は重箱を重ね、風呂敷で包んだ。

 明日は箸を持ってこよう。重箱の中身が余ったら、鳥たちは食べてくれるだろうか。

 舞台袖から運んできた電気ストーブを点けた。手をかざし、擦る。「こんなに頼り無い自分では、何の役にも立たなかったよ」と、オレンジ色の光が呟く。

 電子オルガンのプラグを差し込んで電源を入れた。

「あれ……」

 限りなく淡い勝手な願いが叶うわけが無いことを解っていながら、音に釣られたレオがひょっこり顔を見せるのではないか、という僕の期待は泡のように消える。

 クリスマスツリーのような灯りを纏うこともなく、カチカチとスイッチの音だけを寂しげに鳴らすオルガンに、僕は拒まれてしまったようだ。

「とうとう……壊れちまった……」


 重箱を舞台の上に残した僕は、会堂の扉を閉じて鍵を掛けた。


 雪が降ってきた。


 赤いとんがり屋根を見上げて、僕は祈った。

 神様でも、仏様でもなく、ただ、凍える白い空に祈った。

 レオが見せてくれた、あの携帯電話の画像と同じ場所に、ふたりがたどり着けることを祈った。

 それで全てを終わりにすればいい。

 春になれば、チャチャは大学に戻り、レオは新しい職場を探す。忙しくしていれば、嫌なことは忘れてしまうだろう。

 そして、荒れた庭に立つ一本のグレープフルーツの樹をふたりで眺めながら、おそらくは───帰ってはこない───小さな骨を抱いた女を待ち続けるのだろう。


 雪が降ってきた。


 レオ───


 掌に舞い降りて、すぐに、解けた。

                                     

                                     了

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雪の背中に生えた羽 吉浦 海 @uominoyama

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