第32話 冬の旅

 僕は、次に嵐でも来たら、この石段をがらんがらんと転げ落ちてしまいそうな、錆びた水色の門を開けた。

 冷たい指が這った喉に触れ、その手をジャケットのポケットに入れる。指先に伝わる紙の感触に、拾ったレシートのことを思い出す。泥の付いたレシートを指に挟んで取り出す。裏側に書かれたメッセージを何度も読み返す。

 そうだ、チャチャは歌っていたのだ。

 若い奴らが好んで歌う、やたらと英語の交じった、お手軽な恋の歌なんかじゃなかった。それは、偶々覚えた古典の名曲だった。

 石段を下りた僕の足は、図書館へと向かっていた。


 市立図書館の分室を訪れるのは、母さんがいなくなってから初めてだ。よく、ボランティアの女性が絵本の読み聞かせ会を催してくれたけれど、今でも子供たちは、それを楽しみにしているだろうか。

 人の気配が僅かに漂う本棚の迷路を抜けて、畳の敷かれたキッズコーナーを見ると、膝に幼児を抱えた若い母親が、念仏を唱えるように早口で語りながら、原色の表紙をめくっていた。

 あの年頃の僕は、ちょっと気取った若者が図書館の隅で音楽の試聴をする姿に、大人の匂いを感じていた。時間を止めた中身はこれっぽっちも成長していなくて、それでも大きなひらがなで書かれた絵本しか与えられない幼児には、僕のような者でも大人に見えるのかもしれない。

 キッズコーナーを横目に、入り口から一番遠い小さな視聴覚室の扉を開け、よく知った作曲家の代表作だけが並ぶ角の棚から一枚のCDを引き出した。雪の積もった平原に、海老天の尻尾のような氷層を付着させた樹木が立つCDジャケットには、『WINTERRESE~冬の旅~』と書かれている。

 プレーヤーにセットしてヘッドフォンを着けると、積雪を踏みしめるざくざくとしたピアノの旋律が耳に響いた。バリトン歌手のドイツ語は何を歌っているのかが解らなくて、ただ、暗く思い足取りだけを連想させる。

 背中を丸めて椅子に腰掛け、解説に眼を通す。チャチャが教えてくれたように、この歌集は、叶わぬ恋の果てに辛い旅に出るところから始まっていた。


 ───君が夢から醒めぬよう、そっとドアをしめるよ。僕の変わらぬ想いを「おやすみ」と柱に書き記して───


 日本語の大雑把な訳が正しいのかは僕には判らない。けれど、チャチャが書いた物かも定かでないメッセージを見つめながら、昨夜泣いていた理由が知りたくて仕方なかった。

 やっと聴き馴染んだ『菩提樹』の旋律が流れると、夢現ゆめうつつを行きつ戻りつしながら旅する様が、不治の病に侵されたシューベルトに重なった。

 だとしたら、主人公の行き着く先は、絶望、だ。

 考えるのも嫌な結末に、きゅっと心臓が縮まる。『冬の旅』は、どれもこれも、あの菩提樹の調べさえ、重い鉄の塊を落としたように、僕をとことんへこませた。

 ヘッドフォンを外すと静かな喧騒の中だった。現実に生きていることへの安堵が全身を包む。

 シューベルトの歌曲集を棚に戻し、次にバッハのオルガン曲を探した。簡単に見つかるCDから気に入ったコラールだけを再生すると、別れたばかりのレオとチャチャに会いたくなった。そして、訊かなければいけない。あなたたちの楽園は、どこにあるのか、と。


 図書館を出ると春の陽気が一変していた。お天気お姉さんの忠告は半分だけきいておくのが正解だった。




 薄暗い家の中は足音ひとつ聞こえず暖房も停止していた。僕はジャケットを着たままトイレで用を足し、洗面所で入念に手を洗った。その後、台所に入るとハンドソープを泡立て更に手洗いをした。

 炊飯器の蓋を開け、冷たくなった白飯をしゃもじでよそう。両手で握るけれど、べたべた飯粒がくっ付いて、ちっともまとまってくれない。手を濡らして握る、という簡単なこともできなくて涙が零れそうになる。

 飯粒を舐め尽し、流し台で手を洗い、もう一度挑戦する。濡れた手で丸められた白飯をくちに運びながら、塩を忘れたことに気づいた時、突然明るくなった部屋にびくりと肩を竦ませる。

「びっくりした。こんなに暗い所で何しているの? お腹空いたの?」

 頭を後ろに反らせた、赤い頬っぺたの赤ん坊を胸の抱っこ帯にくくりつけた女が、食器棚の横に立っていた。女はそそくさと居間へ逃げながら、

「おにぎりなら作ってあげるわよ。具は鮭フレークでいい?」

 と言う。

「う……梅干」

 居間に置かれたベビーベッドに赤ん坊を寝かせようと帯を解く女に、聞こえなくてもいいけれど気づいてくれないか、という程度の声と態度で応える。

「わかった。珍しいのね、梅干のリクエストなんて」

 暖房の電源を入れて、僕と眼を合わせないように台所に顔を出した女は、流し台で手を洗い始めた。

「あの……明日でいいよ」

「明日?」

「友達に……会いに行くから」

「友達?」

 女は鉛筆くらい細い蛇口の水で、いつまでも手を擦っている。

「その……梅干を細かく刻んで……ちりめんじゃこと混ぜ和わせて……」

「お、美味しそうね。お友達が好きなのね」

「……はい」

「梅干はあるけど、おじゃこが無いの。すぐに買ってくるね」

 振り向いて手を拭うけれど、僕の顔は見ない。

「いえ、無ければ、別に……」

「ううん。お買い物に行くついで……いいえ……そう、買い忘れがあるの。だから、お願い、あの子だけ見ていてくれるかしら」

 女は脱いだばかりのママコートを再び羽織り玄関を出て行った。嘘の下手な女だ。荷物で膨らんだリュックサックから青ネギが飛び出しているのを見て、僕はまた泣きそうになる。

 ベビーベッドを覗き込むと、赤ん坊はかさかさの頬っぺたを掻きながら眠っていた。僕は、ベッドの端にそっと置かれた御守り袋のようなミトンを、小さな手に被せた。

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