2-6

 エンピオレ号の車内は騒然としていた。

 無理もないことだと、歩きながらダンは溜息を一つ。楽園を目指す列車が《エリール》に襲われかけたのだ。絶対の幸福を約束された者達にとって、それは何よりも恐ろしいに違い無い。

 やっと何世代にもわたる贖罪を終え、邪心像の支配する世界から抜け出せるのだから。


「ご理解とご協力をいただき、まことにありがとうございます。また何かありましたら、遠慮なくお申し付けください」


 ダンの探す人物は先頭車両のデッキにいた。身形のよい紳士が、どうやら言いくるめられたらしく彼から身を離して踵を返す。擦れ違いざまに視線の合ったダンは、目礼に舌打を返され閉口した。

 しかしそれも、自分にならばまだいい。本来自分は、この列車には乗れない人間だから。

 だが、リーチェにまで排斥はいせきの念が及んだ時を考えるといたたまれない。


「これはダン様、いかがされましたか?」


 機械の車掌は相変わらずの無表情で、ニコリともせずにダンを迎えた。


「今の人、何かリーチェのことで」

「ええ、《エリール》に襲われそうになったことで、少しナーバスになられてるようで。しかしわたくし共といたしましても、リーチェ様に下車して戴く予定はないとお伝えしました」

「……納得してはいなかったみたいですけど」

「しかし、贖罪しょくざいを終えた方を楽土へ運ぶ、そのための浄罪鉄道じょうざいてつどうでもありますので。一人の例外もあってはならないとわたくしは考えます。ご安心戴けましたか? ダン様」


 ギリウスには全てお見通しのようだった。どうやら微笑んでいるらしい、微妙に口元を和らげた表情にダンは感謝した。

 これで取りあえず、一つ目の不安は払拭できた。払拭とまではいかずとも、ギリウスの善処はダンには充分に過ぎるから。残す不安は一つだけ。


「ギリウスさん、エンピレオ号の――」

「正確には、特別急行エンピレオ四○八号です」


 無論、当人に話の腰を折ってるつもりはない。アナエルが言う通り彼の性分であり、その彼が主張する通り、ギリウスの本質は機械の域を出ない。

 それでもダンはめげずに言葉を続けた。


「この列車のダイヤを見せて欲しいんです、ギリウスさん」

「少々お待ち下さい」


 言葉通りにダンが待つ必要は無かった。瞬時にギリウスは手袋を脱ぐと、露になった銀色の右手を宙へ翳す。

 たちまちダンの目の前の空間へと、光が走って緻密で微細なダイヤ表を描きだす。


「あ、ええと、すみません。もっと簡単な、停車駅順の時刻表みたいなのは……」


 ダンには表示されたダイヤ表は難解すぎた。


「少々お待ち下さい」


 やはり瞬時に、複雑なダイヤ表が霧散する。同時に、解りやすい停車駅の一覧表が現れた。中空にぼんやりと光る、それに額を寄せて凝視するダン。


「ギリウスさん、この各停車駅にフィレンツェから追いつける列車――つまり先回りできる列車って、どれ位あるんですか?」

「少々お待ち下さい」


 今度は流石に少しだけ待ったが。これから通過する異国の街の名前を睨んで、ダンはあれこれと思案を巡らした。

 目の前に並ぶ、名も知らぬ街。そのどれかで再び、ファミリーの追っ手に襲われる。ダンは杞憂であればと思いつつも、そうはならないことを覚悟していた。

 だが、現実はダンが考えるよりも遥かに過酷で厳しいものだった。


「大変お待たせいたしました、ダン様」


 先程から右手を忙しく、複雑な指使いで宙へと走らせていたギリウス。彼の言葉と同時に、時刻表は真っ赤に染まった。各駅の名前からは次々と光が分岐し、数え切れぬ列車を表示してゆく。思わずダンが後ずされば、その光景はデッキ一杯に広がった。


「こ、これは……どの駅もこんなに!?」

「はい、浄罪鉄道は二十四時間体勢であらゆる都市を結んでおります。今、こうしている間もこの列車は、無数の貨物便や直通便に追い抜かれていることになります」


 ダンは言葉を失った。リーチェを連れて地獄を抜け出た筈が、未だにあの男の手の内に自分達はいる。

 顔すら知らぬ、会ったこともない――しかし絶対的な力を持つファミリーのボス。聞いた事もない高笑いが頭の中に反響する。


「浄罪鉄道では、《エリール》は」

「荷物であれば基本的に、料金さえ払っていただければ何でもお運びいたしますが」


 ギリウスはダンの質問を遮り答えつつ。その問いが無意味であることを告げた。


「《エリール》は高速での飛行移動が可能です。操者の煉罪れんざい、刑期の重さにもよりますが」

「そうか、それで」

「浄罪鉄道としましても、《エリール》には困っているのです。贖罪の為に構築されたこの世界の秩序を、根底から覆しかねないものですから」


 ギリウスは端整な顔を陰鬱いんうつとした表情にかげらせた。ダンにはそう思える微妙な変化で俯く、機械仕掛けの車掌。彼はしかし、投影された光学映像を消すと手袋をはきなおす。


「《エリール》だけが、この世の理を捻じ曲げます。その力ゆえに、人は恐れ慄き、神ならざる人の邪心に祈りを捧げてしまうのです。これがアナエル様の言う、偶像ぐうぞう


 漠然とだが、ダンは理解した。何故、《エリール》が神として恐れられるかを。この世界で唯一にして絶対の交通と物流、浄罪鉄道のダイヤですらエリールの前では意味を失う。


「何も心配はいりませんよ、ダン様。わたくし共浄罪鉄道は、必ずリーチェ様や他のお客様をミレニアムアースへとお連れします。それに――」


 ギリウスは珍しく、その言葉に僅かな熱量を込めてダンに語った。


「わたくしの親愛なる戦友、アナエル様がいらっしゃるのですから」


 おおよそ機械らしからぬ、論理的根拠もない絶大なる信頼。

 ダンはその一言に大きく頷き礼を述べて。先程の紳士同様、不安を車掌へと持ち寄る老婦人と擦れ違った。

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