2-5

 怯えすくむ者達の、声も失う程の戦慄。恐怖のあまり彫像と化した人々が、許しをうように祈り出すまで、そう時間は掛からなかった。

 その人混みの中をかきわけ、線路へとダンは飛び降りる。無駄とわかっていても、腰の銃へと手は伸びた。銃口を向けるべきは、エンピレオ号に迫る異形の邪神像。


「リーチェってぇ客が乗ってる筈だ! 出せよ、オレぁ気が短ぇんだ! オラァ!」


 灰色の巨体は、足元まで達する長い両腕を振りかざす。異様に細いそれは、短い駆動音と共にむちのようにしなって伸びると、そばに停車していた貨物列車をバラバラに引き裂いた。

 そこだけ鮮血のように赤い頭部で、一つしか無い眼が光る。

 雪の舞う空が、幾重にも重なる悲鳴を吸い込んだ。次いで散発的に響く命乞いの祈り。


「あの時と同じだ、これが偶像! でもそんなことより、僕はっ!」


 エンピレオ号の白亜の車体に身を寄せ背中を押し付ける。背後の車内の混乱が、見ずとも感じられた。

 そのまま両手で銃をしっかりと握り、近付く《エリール》を睨んで深呼吸。ダンはこの時、自分が何をするべきかを即決していた。驚く程に冷静に。


「エンピレオ号から奴を引き離す。相手はお尋ね者として僕を知ってる筈だから」


 何故なら、ファミリーにとって自分はリーチェの誘拐犯。それ以外の何者でもないから。光栄な事だと笑みを浮かべる、妙な余裕すらある。

 危機に際して渦中に飛び込む、そんな自分の恐怖を感じる心が麻痺しているのをダンは感じだ。


「どこか、アナエルが戦える場所へ――!」


 己の守護天使に、聖なる使命を果してもらう。それを望んで尽力すべく、周囲を見渡していたダン。その視界の隅に突如、愛しい面影が舞い降りた。

 エンピレオ号がら降りたリーチェが、無差別に暴れ回る《エリール》をにらんで立ち尽くしていた。

 凍て付く外気に凍える素振りも見せず、凛として堂々と。相変わらず寝巻き一枚の彼女は、ゆっくりと歩み出した。瞳に強い光を宿して、真っ直ぐに灰色の《エリール》を見据える。

 覚悟、という言葉を感じてダンは地を蹴った。同時に、貨車を蹴散らしていた《エリール》がリーチェの存在を察知する。


「おっとぉ!? 自らお出ましとはいい度胸じゃねぇか……淫売いんばいが聖女気取りか? あ?」


 下卑げびた言葉に震える空気を、鋭い斬撃が引き裂いた。リーチェの直ぐ側で積雪が舞い、線路が衝撃にたわんで断ち切れる。しかし、リーチェは意に返さず歩みを進めた。


「下がって、リーチェ! 吐いた言葉を飲み込めっ、この野郎っ!」


 ダンの中で理性が爆散した。変わって五体を支配するのは怒りの感情。聞き捨てならないリーチェへの罵倒が、彼を《エリール》の前へと全力で押し出す。


「ハッ! ダンじゃねぇか。見つけたぜ……今までどこほっつき歩いてた? 手前ぇの始末もオレの仕事なんだよぉ!」

「黙れっ! その前に訂正しろ! リーチェへの侮辱ぶじょくを、取り消せぇ!」

「マジになんなよ、ダンッ! 馬鹿か手前ぇは! だが感謝はしてるぜ。手前ぇみたいな馬鹿のお陰で、オレはチャンスを――《エリール》を手に入れたんだからなっ!」


 背後にリーチェをかばって、ダンは夢中で銃爪トリガーを引き絞った。


「ほんっ、とにぃ、馬鹿だな手前ぇ! エリールに銃が、通じるかってーのぉ!」


 灰色の巨躯きょくの、断続的に発する燐光が一際強く輝いた。同時に振りかぶられた右腕がダンを襲う。だが、彼は逃げない。ただ怒りに任せて、闇雲に銃を撃ち続ける。

 轟音――気付けばダンは、背後から押し倒され大地に伏せていた。その上で身を起こし、両手を広げて彼の前に立ちはだかるリーチェ。

 ダンは咄嗟に、リーチェに助けられた。

 先程まで立っていた場所は大きくえぐられ、両断された線路の切り口が天を向いている。


「っと、リーチェは殺しちゃヤベェ。ま、ボスん所に連れ戻せば、オレも晴れて幹部よ」

「クソッ、それだけは許さない! 貴様だって、リーチェの優しさに触れただろうに!」

「ああ、リーチェはオレみたいなチンピラにも優しかったぜ? オフクロみてぇだった」

「なら……」

「だがな、ダンッ! リーチェの情けが、どれだけオレをみじめにしたか解るかっ!」


 偶像に満ちる負の感情が爆発した。


「祈るリーチェを、オレがどんな思いで見ていたか! この手に手を取り、共に祈ってくれるリーチェに触れて! どれほどに自分を醜く思ったか!」


 乗り手の憎悪に呼応するように、禍々まがまがしい光を増してゆく灰色の《エリール》。

 強い光は、より強い影を刻む事がある……その影に飲み込まれた者が今、激昂していた。


「偶像を駆る者よ、その憎しみは汝の卑屈な心に起因する。罪と向き合うためにも……今すぐ悔い改め、偶像より己を解放したまえ」


 逃げ惑う人々のささやく、許しを乞う祈りを突き破り。張りのある落ち着いた声がこだまする。《エリール》が駆動音を響かせ振り向く先を、ダンとリーチェも見上げた。

 雪の舞い散る空を背に、駅舎の時計台に無彩色の影。一日が午後へと折り返す、その僅か前……真紅の瞳を炎と燃やして、アナエルは長針に寄りかかっていた身を起こすと。短針を蹴って宙に身を躍らせる。


「手前ぇか、市長を殺ったのは! って事はぁ、手前ぇを殺ればオレが市長かぁ!」

「愚か。身分よりも先ず、なんじは己を高めるべきだったね。今はしかし、それも許されぬ――断罪あるのみ」


 曇天の雪空に、小さな太陽が発現した。眩く輝く姿は、甲高い音と共に交差する《エリール》の連撃を避けて着地するなり、光の巨人をかたどる。


「天使アナエル、断罪形態――フェイム・アップ」


 天使、降臨。翼の代わりに鎧をまとう、白銀のアナエル。彼女は真っ赤な瞳で異形の《エリール》をねめつけた。


「少年、早くリーチェを連れてエンピレオ号に逃げたまえ。ここは私が――!」


 アナエルの細身の身体に、毒蛇の如きエリールの両腕が巻きついた。四肢の自由を奪われたアナエルは、そのまま高々と中空へ掲げ上げられる。


「どいつもこいつもよぉ! オレに、偉そうにっ……イラつくんだよぉ!」


 アナエルの体が勢いよく、大地へと叩きつけられた。苦痛に悲鳴を押し殺す彼女は、再び持ち上げられると……次は駅舎に激突。そのままレンガに火花を散らして、《エリール》はアナエルの身体をもてあそんでゆく。


「オレに説教たれていいのはなぁ! ボスだけなんっ、だよぉ!」


 触手と化した両腕を、アナエルへと幾重にも巻きつけて。周囲を巻き込み荒れ狂う《エリール》。アナエルの装甲にひびが走り、ギチギチと華奢きゃしゃな身に弾力ある金属が食い込んでゆく。

 アナエルを案じながらも、その真紅の瞳に無言で訴えられれば。ダンはリーチェを守るべく身を起こす。その時、ジャンバーのポケットから鈍い光がこぼれた。

 それは、ダンが全財産と引き換えに購入した安物のロザリオ。

 短い声をあげてそれを拾い上げる。ダンが伸べる手に自然と、リーチェも続いた。雪の中から真鍮の十字架を、二人は拾い上げる。


「これは、その……やっぱり、無いとリーチェが困るかな、って」

「ダァァァン! 何だ、その貧相なロザリオはよぉ? 程度が知れるぜ、ヘヘヘッ」


 二人を巨大な影が覆った。高々と頭上にアナエルを拘束したエリールが、気付けば二人を見下ろしていた。


「リーチェ、ボスから貰った奴があるだろ? もっと豪華な奴がよ。そんな貧相なオモチャじゃなくて、ボスの女に相応しいやつがっ! あっただろうがよぉ!」


 リーチェは動じることなく、静かに首を横に振って。ダンと共に握る簡素なロザリオを、首にかけてみせた。

 その姿に怒りも露に、発する光を強める灰色の《エリール》。その触手となった両手の中でアナエルが血を吐いた。


「そりゃおかしいだろぉ! リーチェ、ボスのロザリオは、あのキンピカの高ぇやつはどこにやった! ボスが幾ら積んで作らせたと思ってんだ? ああン?」


 リーチェを引き寄せ、その冷たくなった肩を抱きながら。ダンは短く、はっきりと告げた。


「売った!」

「売っ、た、っておい……ダン、手前ぇは馬鹿か!? そ、そんな恐ろしい事を……」

「ロザリオは身を飾る宝石じゃない、祈りの支えだ! それに、それにっ――」


 ダンは顔を真っ赤にして叫んだ。


「贈り物は価値じゃない、気持ちだっ!」


 その瞬間、曇天の空が割れて雪が止んだ。《エリール》を中心に、雲が拡散してゆく。


「世は主の愛で満ち満ちたり。少年、それもまた形なき愛の本質!」


 エリールの両腕が勢い良くはじけた。破片が宙を舞い、エンピレオ号の白無垢しろむくを黒い液体が汚す。邪悪な縛鎖を内より力で破り、空へと四肢を広げるアナエル。その背に、光の翼が生えて天をいた。


「主の御名において――」


 《エリール》の背後に舞い降りたアナエルは、そのまま両腕で灰色の巨躯を抱きすくめた。ミシリと音をたてて、鉄壁の装甲が歪んでゆく。


「クソッ、動かねぇ! どうした、引き剥が……クソッ! 何だこの力ぁ!?」


 既に恐慌状態に陥って、必死にエリールは千切れた腕を振り回す。しかし、地から足の離れた胴体はどんどん圧縮されて小さくなっていった。


「ヘッ……ダァン! せいぜい足掻あがくことだな! ファミリーの追っ手はオレだけじゃねぇ……エンピレオに追いつくダイヤはゴマンとあんだ! 覚悟して逃げ――」

「その偶像を、破壊する!」


 短い断末魔と同時に、エリールの胴がねじ切れた。両断された偶像はもう、血の様に黒い液体を迸らせる鉄塊てっかいとなって横たわる。


「――アーメン」


 アナエルの言葉にリーチェの祈りが重なる。彼女は、偶像に飲み込まれて道を誤り、贖罪の閉じた環に還る魂に祈っていた。小さなロザリオを手に。


「少年、どうやら汝と私は利害を共有できそうではないか」

「みたいですね。クソッ、どうしてリーチェをこんなに執拗しつように」

「その答は少年、汝は既に知っているのではないかね?」

「えっ?」


 意外なアナエルの言葉に、思わずその巨躯を見上げるダン。しかし彼の守護天使は、駅の構内に投げ出してきた荷物の事だけを告げると……自らの翼で己を包む。断罪の天使は徐々に小さくなり、最後に一度だけ大きく羽ばたくと。既に見慣れた修道服の少女が、真紅の瞳を細めて笑っていた。


「そ、そうだっ!ちょっと取ってきます! アナエル、リーチェを」

「無論だ、少年。さあリーチェ、外はその姿では寒すぎる。先ずはエンピレオ号に戻りたまえ。なに、ダンはすぐ戻っ、っ……クシュン!」


 天使のくしゃみが、正午を告げる時計台の鐘に入り混じった。

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