2-7

 近付くにつれ大きくなる喧騒けんそう。乗客の皆が皆、不安に怯えている訳ではなかった。否、不安を感じるからこそ払拭ふっしょくすべく、こうして集いて騒ぎ歌うのかもしれない。

 ダンは馬鹿騒ぎの中心である食堂車に辿り着き、ドアの前に意中の人物を見た。

 リーチェは一人デッキで、早過ぎる日没に目を細めていた。銀嶺ぎんりょうを縁取る紫色の稜線りょうせんが、奥に隠した夕日を僅かに感じさせる。


「綺麗、ですね」


 思わず口をついて出た言葉に、リーチェがダンを振り返った。同意するように微笑み、彼女は再び絶景へと視線を投じる。

 ダンはしかし、風景を誉めた訳ではなかった。

 着飾り夜会に連れ出されるリーチェを、ダンは何度も見たことがあった。しかし今、質素な服装の彼女は今までの何倍も綺麗に見える。穏やかな心中が、柔らかい表情をかたどるから。どこか緊張した、脱がされる為のドレスに身を固めたリーチェはもういない。

 今のリーチェは手編みのセーターに身を包み、肩にショールを掛けている。落ち着いた色合いのスカートからのぞく足は、黒いタイツが包んでいた。

 寝巻き一枚の薄着から解放された彼女は、見ているダンさえも温かくしてしまう。


「あ、あの、昼間のこと。あ、ありがとうございます。僕、夢中で、つい」


 リーチェの隣に並んで、車窓に映る二人を眺めながら。ダンは礼を言いながら自分を恥じた。侮辱ぶじょくの言葉に頭へ血を昇らせ、結果的にリーチェを危険に曝してしまった。


「ぼ、僕、許せなくて……僕ならいいんですよ、でも……リーチェさんがあんな」


 それはしかし事実だと、無言でガラスに映るリーチェが語っていた。

 贖罪しょくざいを終えた魂が、決して拭えぬ罪に汚れている。それはどんなに祈りを重ねても、リーチェの心に消えない傷となって残って。未だに出血して膿み、今も彼女を苛む傷痕。


「リーチェさん、僕は――」


 頭の中で組み立てた慰めの言葉が、口に出す前に消えてゆく。

 そっと、手と手の甲が触れた。列車の走るレールが、ゆるやかにカーブしていたから。二度、三度と触れ合う手は、気付けばどちらからともなく指をからめて体温を分け合う。

 二人にもう、言葉は必要なかった。

 黙って見詰めるガラスの向こうで、宵闇よいやみに星が輝き出す。


「天使様、何やってんですかー? 早くこっちに戻ってきて、一緒に飲んでくださいよー」


 不意に賑やかな食堂から、酒気を帯びた声が響く。横柄な返事と同時にドアが開け放たれ、ダンの守護天使が姿を現した。

 咄嗟に握る手を放すダンとリーチェ。頬が赤みを帯びる、その熱を二人は感じた。


「今更何を恥ずかしがることかね。なんじ等がいつまでたっても来ないので、一足先に一杯やらせてもらってるよ。どうだい? もう少しそうしているかい?」


 アナエルはもう、既に酒精を己の身に招いているようで。しかし顔色を全く変えずに、普段の達観した見透かすような笑みで二人を見詰めている。

 開けっ放しのドアからは、そんなアナエルを呼ぶ他の乗客達の声。


「少年、汝の心配はわかるよ。リーチェを責める者もいるさ。しかし、その者達をどうか許してやって欲しいのだ。辛いと思うけどね」

「わかってます、頭では……でも」

「若いな、少年。まあいい、こっちに来て皆と一緒に飲むといい」

「皆と一緒に、って。アナエル、みんなに天使だってばれてるじゃないですか!?」

「うむ、私は嘘がつけないからな。聞かれれば答える他あるまい」


 顔を手で覆って呆れるダン。

 確かに乗客の大半は見た。光の巨人となって《エリール》を倒し、再び少女の姿へと戻ったアナエルの姿を。


「良いのだ、少年。他の者達も私の存在を知れば安心するであろう? 《エリール》に追われるこの列車が、主の加護を得ていると信じられるなら、私は嬉しいのだよ」


 そう言って、再度呼ぶ声に振り返って。そのままアナエルは食堂車の宴へと戻っていった。そんなものかと納得するダンは、そっと袖口を掴んでくるリーチェに引かれて後に続く。

 凍てつく大地を東へと横断するエンピレオ号は、凍土に賑やかな声を刻んで馳せた。

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