第9話

 付き合って、関係が恋人に変わったところで、これと言った変化はなかった。街に出て買い物をするか、映画を観るか、カラオケに行くか。時折僕の部屋へ来ることもあったが、結局は映画を観たり酒を飲んだりするだけで、身体の関係にまでは発展しなかった。

 最初のうちはそれでも充足していたが、慣れと言うものは恐ろしく、次第に強まる欲求は抑えられなかった。何より彼女の場合、街に繰り出すと大抵知り合いに出くわすというイベントまであるのだから、嫉妬心から独占欲が湧き出ても致し方ないだろう。

 あるとき、渋谷の街を歩いていると、

「香織」

 馴れ馴れしく声を掛けてくる男性が居た。スーツに身を包み、落ち着いた雰囲気を醸したその人は、小走りに近寄ってくると、パッと顔を綻ばせる。

「久しぶりだな」まるで僕の存在など視界に入っていないかのような扱いだった。「何してるの、こんなところで」

 香織さんは露骨に顔を背けて、

「デートだけど……」

 と言って僕の袖口を掴んだ。

 男はそこで僕を認めると、こちらも露骨に嫌悪感を剥き出しにし、

「ああ、君、連れだったの」

 そんな言葉で敵意を表明してくる。

「ええ。香織さんの彼氏の日野間と言います」

「へえ、ヒノマくん。俺は野々宮、よろしく」手を差し出してきながらも、「若いね、いくつ?」

 探るような視線を無遠慮にぶつけてくる。

「二十四ですが」

「三つも下かよ」そして宙に浮いたままだった手を早々に引っ込め、香織さんに向き直ると、「これから時間ないの? もうすぐ仕事終わるんだ。飲みに行こうよ」

「あの」僕は無理やりその視線上に割って入り、「今、デート中なので、水を差さないでくれますか?」

「君には聞いていないよ」その余裕がどこから出てくるのか、ぜひとも講義していただきたい。「なあ、香織、どう?」

「ごめんなさい」彼女はそれでも顔を野々宮に向けないまま答える。「もう、行って」

 小さく舌を打つと、別れの挨拶もなしに野々宮は去って行った。

 あからさまに落ち着きがなくなった香織さんを見て、気を遣い近くの自販機で飲み物を買って、ベンチに座らせた。

「ごめんね」香織さんは両手で大事そうにペットボトルを包み込んで言う。「嫌な思いしたよね」

「いや。良いんだけど」心にもないことを言っている。「まさかあれが?」

 その先に続く言葉は、彼女にもすぐに思い当たったらしい。ただ、うんともスンとも言わなかった。

「付き合ってたことがあるの。中学生のときだったかな。そんな、大したことはしていないんだけど」説明はそれだけで、「まさか今会うなんて」

 あとはそうして殻に閉じこもってしまう。

 また別の時には、

「高科先輩」それこそ僕と年の変わらぬような若い男が声を掛けてきたこともある。「あれ、そちら彼氏さんですか?」

「ええ、そうですけど」僕はなるべく強気に答える。「何か用ですか?」

「いや、お邪魔になりそうなので大丈夫です」男は怖気づいた様子でもなく、ただ笑顔のままで続ける。「今度また連絡しますよ」

 そういうことが頻繁とは言わずとも幾度かあった。もちろん、男女様々なパターンがあったが、恋人として、自分の知らない香織さんの部分を知っている人間がいることは、余り気分の良いものではなかった。そして何より、大抵バツの悪そうな顔をする彼女の様子から、こうして街中で出会う誰かが、彼女が想いを寄せていた相手なのではないかと勘ぐってしまうことも事実だった。

 それを言葉にして伝えはしなかったが、態度から、彼女が察しないわけもなく、

「なるべく外で会うのはやめようか」

 そう言ってくれることもあった。ただ、それはどこか逃げでしかなく、ましてやそう言わせているような気がして、僕は首を振るだけだった。

 高科から、

「姉ちゃんが余り元気じゃなくなってきたんだけど、何かあったのか?」

 と聞かれて、僕は遅れて理解するのだ。

 彼女は僕のことを考えてくれたわけではない。いや、もちろんそういう側面もあったのだろうが、彼女自身が、街中でそういう知り合いたちに会うことを嫌悪していたのではないかと。僕の意固地な態度は余りに自分本位で、立ち直らせるどころかまた深みに足を踏み入れさせようとしていたのではないかと反省する。

 そういう、表面的ではないにせよ厄介な一件もありつつ、彼女との出会いから三週間経ったとき、僕は香織さんに対し「一緒に暮らしませんか」と提案していた。外で会うことがお互いにとってプラスにならず、結局はどちらかの家に遊びに行くことになるのならば、一緒に住んでしまったほうが早い。もちろんそれは交際僅か二週間程度の男女の進行状況としては随分早まったものだとは思ったが、彼女は断らなかった。

 僕たちは、僕の住処でともに暮らすこととなる。

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