第10話

 引越しの日、業者が入れてくれた荷物を解くのに、高科と姉が手伝ってくれた。姉と香織さんは同い年だが、ちゃんと会うのは初めてらしく、

「どうも、翔太の姉の優子です。弟がお世話に」言って、こちらを小突く。「美人ね」

「翔太さんとお付き合いさせていただいています、高科香織です」

「ついでに、その弟の純です」高科は頭を下げてから、「二人は知り合いじゃないんですね」

「覚えてない?」香織さんが弟に対する言葉遣いで続ける。「私が通ってたのって西中だったでしょ?」

「ああ」と言って納得した顔になる。「そっか、姉ちゃんたちの時はまだ西中あったんだっけか」

 言われて僕も思い出す。僕たちの住む街には当時西中学校と東中学校があったが、ちょうど姉たちの代を最後に、少子化を理由として、より校舎が古かった西中学校が吸収合併される形で廃校となったのだ。だから二人は同じ中学は出ていない。

「そういえばそんなこともあったね」

「私はだから、中学に関して言えば母校がないんですよ」香織さんは優子に対してそう言った。「いや、正確にはまだ校舎はあるんですけど、どうも近所の子どもたちにお化け屋敷扱いされているみたいで、ちょっと悲しいです」

「そっかあ、東中出身としてはどこか申し訳ない」

「いえいえ」言って、香織さんは微笑んだ。「おかげで純と翔太さんが出会えて、私も翔太さんと出会えたので」

「微笑ましいですなあ」優子は暢気な声で言った。「じゃあ私は純くんと付き合おうかなあ」

「おいおいやめろよ」思わず口を挟む。「投げやりになるなよ」

「それって俺に対して失礼じゃない?」高科は笑った。「俺でよければ喜んで」

 そんな二人のおかげと言うのか、比較的和やかに荷解きは進められた。

 夕方には香織さんの荷物のほとんどが僕の部屋に広げられ、今までに比べればもちろん少し手狭になりはしたが、精神的な面で言えばそのほうが満たされる。大仰な言い方をすれば、これで香織さんは正式に僕のものとなったような、そんな感情を抱く。

 近場のコンビニで酒を買い込んで、四人で飲んだ。幸い優子はクリスマス直近唯一の休みが明日で、高科は午後からの出勤だったため、さほど時間を気にする必要がなかった。

 見るともなくつけたままのテレビの雑音の中、

「しかし翔太に恋人がねえ。かれこれ何年ぶり?」

「美奈子が三年前くらいか」言ってから、恋人の前で元恋人の話をするのは少し配慮がなかったかと思い、「今のほうがずっと楽しい」

 そんな言葉を添えたが、香織さんは特に気にした様子はなかった。

 優子も僕のその配慮に気がつかなかったかのように梅酒を煽りながら、

「いいねえいいねえ」酔いが回り始めているのか、口ごもるような口調で言った。「ああ、正孝さん」

「正孝さん?」まさか先ほどの挨拶がてらの交際申し込みが本気であったわけでもなかろうに、聞きとがめたのは純だった。「誰です?」

「結婚寸前まで行ったけどこの間別れた相手」頭を重そうに振っている優子に代わって僕が答えた。「なんか、浮気を疑われて振られたんだって」

「絶対正孝さんが浮気していたに違いない!」

「で、こんな調子で恨んでいるみたい」

「恨んでいるんじゃないのよお」優子の感情は右に左に振られて忙しい。「どれだけ好きだとしても、伝わっていなかったんだとしたら、しかも心当たりのまるでない浮気を疑われるなんて、いくらなんでも悲しすぎる……」

「うまく行きませんね」純がさりげなく優子の肩を撫でている。「俺もね、似たようなものですよ。こいつらが恨めしい」

「似たようなって、お前しばらく恋人居ないだろ」

「居ないよ、かれこれ六年くらい居ないよ、全部俺の好きが伝わらないからいけないんだ」さほど飲んでも居ないのに、高科も酔い始めたらしい。「もう本当に俺と付き合っちゃいます? 俺、結構有望株かもしれないですよ」

「付き合っちゃう?」優子は肩に置かれていた純の手を取って、「私、純くん、好きかも」

「だめだめ、純はだめだよ」言ったのは香織さんだった。「優子さんを満足させられるような男じゃないから」

「なんだよ姉ちゃん。今いい感じだったのに。それにこっちはこっちでくっついたら、ちょっと面白いだろ?」

「面白いとかどうとかじゃなくてだめなものはだめなんだよ。純は大人しく独り身でいなよ」

 その必死な様が可笑しかったのか、優子は高科の手を振り払うと、

「大丈夫だよ香織さん、私もっとちゃんとした人が好きだから」

 けらけらと声を立てながら不躾に言い放つ。

「酷いわ、これは酷い」高科はおいおいと泣いた振りをする。「お前慰めてくれよ」

「嫌だよ」

 僕も大概酒に弱いほうだが、こうして自分よりも酔っ払っている人間を目の当たりにすると普段よりずっと冷静で居られた。香織さんも同様らしく、視線が合って、呆れたように笑みを交える。

 やがて缶を手にしたまま炬燵に伏して高科が眠り、優子はトイレで一度吐いてから大人しく横になった。三十分もしないうちに寝息が聞こえ始め、それからさらにしばらくして「正孝さん」と呟いたかと思うと、するりと涙を零すのを見て、僕は寝室から毛布を持ってきてやり姉に掛けてやった。

「ようやく静かになりましたね」

「楽しいお姉さんだね。これなら仕方ないな」僕が不思議に思い首を傾げたからか、「ああ、純が懐くのもね」

 そう言って香織さんは口元だけで微笑んだ。

「こいつもなかなか気難しいやつですからね。まあ、僕に対してだけなのかも知れないけど」

「多分照れくさいんだよね、日野間くんに対しては。お兄さんみたいな立場で居たいんじゃないかな。だから自分ははっきりしていなくちゃ、頼りになる人でいなくちゃって思っているんだと思う。純はあんまり強い人じゃないけど、日野間くんにはそう思われて居たいんだよ」

「そうなんですかね」煙草を咥える。「確かに、最近は化けの皮が剥がれてますね」

 香織さんがライターを差し出してくれたので、それに甘える。近い距離で、目が合った。先に視線を外したのは向こうだった。

 煙を吐き出しながら、最近の若者にしては健全な交際だなと、どこか冷静な部分で考える。身体の関係どころか、キスもしていない。でも一方ではこうして同じ部屋に住むことになっていて、あべこべな感じがした。恋愛においてこれという正しい順序があるかはわからないし、それに則る必要があるのかも不明だが、正直なところを言えば、せめて唇を合わせることくらい、したかった。それは純粋な下心と言ってもよかったが、恋人として、安心を得るための儀式のような、もっと神聖な所作のつもりだった。

 そうして香織さんの顔を、唇を見つめてしまっていたからか、僕たちの間に会話は消え、小さな音量で流れるテレフォンショッピングの胡散臭い吹き替えが耳に届く。まるで冗談のように僕たちは互いを意識した、ように思う。

 キスをしたいときに、「キスをしてもいいですか?」と質問することは、一方では紳士的で、一方では女々しく映ることだろう。香織さんにとっての正解がどちらかわからないが、今、微妙な距離を持って座っているわけだから、ここはひとつ会話を挟んだほうがよいのだろうか。しかし声を立てて、寝ている二人が起きだしても困る。だから男らしく目と目を合わせ、勢いで。いやしかし。

 そんな思考を繰り広げているうちに、煙草の灰が落ちる。幸い、灰皿の上に構えていたからどこも汚れはしなかったが、こんなあからさまな態度を見せてしまって、香織さんが僕の異変に気付かないはずもない。

「どうしたの?」

 聞かれてしまう。

「いやいや」お互いの兄弟が居るこの場で何をしようと思っているんだ。「なんでもないですよ」

「なによー」

「なんでもないですって」酒を煽る。味なんてほとんどわからなかった。「元気が一番。香織さんが普通に笑って、一緒に居てくれることが僕は嬉しいです」

「ありがとう。こんなことに巻き込んでごめんね」香織さんはしかし、楽しそうな声は出さなかった。「多分これからも迷惑を掛けてしまうと思う。でも、どうか見捨てないでね。私のこと」

 ちらりとこちらを見る香織さんの顔は儚げで、少し触っただけでぼろぼろと崩れてしまいそうな、やわなものに見えた。

 詳細は知らないが、やはり彼女は失恋したばかりに違いなく、僕のことを好きだと言ってくれたのも傷心を誤魔化すためだったのかもしれない。でもそれも仕方のないことなのではないか。少しでも、嘘でも、そう言わせることが出来たことを嬉しく思えばいい。なんて考えは、卑屈が過ぎるだろうか。なら、香織さんは恋愛に対して臆病になっているのだと、そういう言い方でもいい。どんな顔をしていようと本当は脆く弱い人間なのだ。

 間を詰める。

 そっと肩を取って、まずは抱きしめた。彼女は驚いたようで、呆然としている。

 また向かい合う形に戻り、彼女に近づいていく。

 唇が当たるかどうか、というところで香織さんは顔を逸らした。頬の辺りにぶつかる。

 怒りが湧いたわけではなかった。ただ純粋に疑問に思って、

「どうして?」

 と聞いていた。この場合、謝罪をしたほうが正解なのかもしれないが、そこまで頭が回らなかった。

 香織さんは何も答えなかったが、背後から、

「ふえー」

 寝ぼけた優子の声がして、多分、それに気付いていたからだろうと、思い込むことにした。

 翌朝目が覚めたときには、高科の姿がなかった。机の上に「ごちそうさん」と書かれたメモだけが残っている。香織さんはすでに散乱した部屋の片づけを始めていて、僕に気付くと、

「起こしちゃった?」

 声を潜めてそう聞いた。時計はすでに十時半近くを指している。まだ寝ていた僕と優子のために窓もカーテンも閉め切っているらしく、部屋の中の空気は酒気に満ちている気がして気持ちが悪くなった。

「ううん、勝手に目覚めただけ」

「顔洗ってきなよ、さっぱりするよ」

「うん、そうする。それから手伝うよ」

「ありがとう」

 まるで昨日のことなど何もなかったかのような会話だった。顔を洗いながら、あれはもしかすると夢だったのかもしれないなんて淡い期待を込めてみるが、避けられて頬にぶつかった感触は、しっかりと唇に残っていた。

 あらかた片づけが終わった頃になって、優子が目を覚ました。

「おはよう」

「もう昼前だよ」

「げえ、そんなに寝てたのか。ごめんね、せっかく引越し初夜だと言うのに一番寝てて」香織さんに向けたものらしい。「どうもお酒が入るとだめで」

「全然、楽しかったですよ」

「申し訳ない」寝癖のついた頭を掻きながら、「おなかすいてます? お詫びに何か奢りますよ」

「いえいえそんな」

「気を遣うならなおさら、さっさと帰ってくれよ」昨日邪魔されたことを根に持ったわけではないが、思わず邪険になる。「飯は二人で食べるから」

「そんなこと言わないの」

「いやあ、じゃあ、今日は翔太の言うとおり帰ろうかな」優子は少し寂しそうな顔をした、ような気がする。「顔だけ洗わせて」

 言いながら立ち上がると、こちらを見ないまま洗面台のほうへ向かう。

「何であんな言い方するの」香織さんは僕の肩を叩いて、声を潜める。「断るにしても言い方があるでしょ」

「だって」

 その先が続かない。いかにも情けない理由だからだ。

 香織さんが何かを言いかけたとき、優子が戻ってきた。いそいそと自分の荷物をまとめると、

「じゃあお邪魔しました」

 軽く頭を下げて玄関先に向かうのを、香織さんが慌てて追いかけ、見送った。

 扉が閉まり鍵を閉める音がする。

「どうしたの?」

「なんでもないですよ」

「なんでもないのにお姉さんにああいう態度取るの?」

 僕は返事をしないでいた。

 香織さんはひとつ溜息をついてから、窓を開けに立ち、それから煙草に火をつけた。

 僕の正面に来るように座り、こちらにも一本差し出してきたので、素直に吸い始める。

「昨日のはごめん」やはり覚えていたじゃないか、などと思っている自分の浅ましさに嫌になる。「心の準備が出来ていなくて」

「心の準備? そんなもの、僕はずっと出来ていますけど」何を張り合っているのか、馬鹿らしい。「今どき付き合ってたら高校生でもキスくらい」そこまで言って、「いや、もういいです。なんでもないです。勝手に盛り上がって、勝手に怒ってるだけですよね、僕が」本心からそう思った。「気にしないでください」

「ごめんって」香織さんは囁くように言った。「違うの。本当に、どきどきしちゃって、怖くなっちゃったの。キスなんて、ずっとしてないんだもん。久しぶりすぎて、怖かった。それに、純も、優子さんもいるところで、したくなかった」

 香織さんを見る。

 彼女は顔を伏せていて、昼過ぎの強い日差しは不釣合いだった。

「タイミングが悪いんだよ、日野間くん」

 視線を上げる。

 目が合う。

「じゃあ、今は?」

 答えを待たずに、煙草の味の残る香織さんの唇に、唇を合わせる。

 一瞬触れただけのそれは、それでも、今の僕には十分な意味を持った。

 離れて、また目が合って、すぐに逸らした。

 二十七と二十四の男女が改まってするには、気恥ずかしいものだった。

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