第57話 クサヴァーの真実

 カルロスの話は更に続いた。

「ここでクサヴァーの話をしておこう。彼は生まれながらの天才的な化学者だった。彼のもともとの研究テーマは、当時のドイツで最先端分野だった化学肥料だ。

 ライ麦しか育たない不毛な土地に生まれた彼にとって、農民を豊かにする化学肥料は、やり甲斐のある最高のテーマだったそうだ。


 彼が最も尊敬していたのは、自国の大化学者で、空気中の窒素からアンモニアを合成することに成功した、フリッツ・ハーバーだった。

 アンモニアは火薬を造るための硝酸の原料だ。フリッツ・ハーバーは硝石を産出しないドイツを一気に強国に変えた。そしてアンモニアによって、はじめて化学肥料の工業生産が可能になった。ドイツの農民も随分と豊かになった。フリッツ・ハーバーは功績を称えられ、ノーベル化学賞を受賞した。


 クサヴァーの研究は、化学肥料の最大の欠点である、土地を枯れさせてしまうという弊害を取り除く事だった。彼は化学肥料と地中の有用バクテリアが共生できるようにするための、特殊な添加剤の研究に没頭した。

 またクサヴァーはそれと同時に、生態系にダメージを与えない農薬の研究も進めた。


 クサヴァーが大学に入った年は、ナチスドイツがソ連に侵攻を始めた年だ。彼にとって悲劇だったのが、いくら人々のためになる研究をし、目覚ましい成果を上げても、誰も評価してはくれず、研究費も削られる一方だったという事だ。

 そんな中で、クサヴァーは自身の研究の副産物としてある重大な発見をした。それは新しい神経ガス合成の可能性を示す、初期反応だった」


「それがザビアなのですね?」

 矢倉の言葉に、カルロスは短く「そうだ」と答えた。


「クサヴァーは金銭に対する欲は全くと言って良いほど無かったが、学者としての名誉欲は人一倍あったと思う。彼は自らの能力を示す道として、毒ガス研究を選んだ。優秀なクサヴァーの事だ。彼の研究はすぐに周囲からの称賛と期待を集めた。そして彼は毒ガスの専門家と目されるようになった。


 ナチスはザビアの先進性をはっきりと認識し、その研究と製造のための工場をノルウェーに作った。なぜノルウェーなのかといえば、そこには重水の製造工場があったからだ。ザビアには水素と重水素を置換する重要な工程があり、そこには大量の重水を必要としたのだ。

 クサヴァーはその工場の総責任者として招かれた。クサヴァーが地位と名誉を手に入れた瞬間だった。しかしそれは、クサヴァーにとって悲劇の始まりでもあった。


 先程も触れたが、ヒトラーは毒ガス兵器の使用を一切禁じていた。従ってザビアも戦争終結に至るまで、一度も実戦に投入される事はなかった。

 クサヴァーは学者として学会で名を馳せる道を閉ざされただけでなく、自分の研究成果たるザビアを、実地に試される機会さえ失ってしまったのだ。


 ナチス上層部は敗戦を意識するようになると、連合国やソ連にザビアの機密が漏れる事を恐れ、技術資料や完成後のザビアを南極に送る事に決めた。開発者のクサヴァーもだ。

 終戦時、サリンやソマンを貯蔵施設に置き去りにしたのとは対照的だ、それほどザビアは革新的な兵器だったという事だ。その証拠に、ザビアは後に報復兵器V5と呼ばれるようになった。


 クサヴァーは生まれた時代が悪すぎた。かのフリッツ・ハーバーでさえ、後には毒ガス研究に身を投じざるを得なくなった時代だ。フリッツ・ハーバーは今や、人類に貢献したノーベル化学賞受賞者としての栄誉よりも、毒ガスの父という異名が独り歩きしている。


 クサヴァーがもしも良い時代にさえ生まれていたら、自然界にダメージの無い農薬と化学肥料の研究者として、ノーベル化学賞を受賞できたかもしれない。例えそうでなかったとしても、もともと彼が望んでいた通りに、貧困地帯を救って人類に貢献したことだろう」


 カルロスはクサヴァーの話を、あたかも自分自身の事であるかのように語った。それはカルロスとクサヴァーの深い友情を示すだけでなく、戦争によって自身の志を閉ざされたカルロス――つまり矢倉邦仁――が、クサヴァーに自身を投影している行為のように矢倉には感じられた。


 カルロスの顔には疲労の色が見えた。矢倉は少し休むように勧めたが、カルロスは心配はいらないとでもいうように、右手を少しだけ持ち上げた。

「さて、クサヴァーがどうしてネオ・トゥーレの指導者になれたかという話をしようか。全てが後になって、クサヴァーから聞かされたことだ」

 そこからまた、カルロスの話は続いた。


「彼は私と同じようにポルトガルに流れ着き、そこから陸路でノルウェーを目指した。当時ポルトガルでは、ナチスの支援組織が幾つも活動していた。敗戦を見据えて、高官たちの逃亡ルートを確保するためだ。

 彼はそれらの組織の助けを借りて、トロムソのUボートブンカーに帰りついた。そこでまずクサヴァーが行ったことは、基地に残されたままの兵士や、若者たちの人心を掌握することだった。


 国に置き去りにされた人間たちの心を掴むのは、容易だったと彼は言っていた。クサヴァーはナチスから大佐の階級が与えられていたし、若者たちも自分に年齢が近く、頭脳明晰なクサヴァーを慕っていた。

 兵士からも若者からも信頼が得られたのは、基地の中ではクサヴァーだけだった。しかも、クサヴァーがトロムソに着いた数日後にベルリンは陥落し、彼らの不安は最高潮に達していた。


 基地に集められた若者達は200人にも上っていた。まずクサヴァーは、Uボートブンカーの直上に、人々を住まわせる村を作った。それが、今我々がいるテレンダールだ。

 そのための資金は有り余るほどあった。ポーランドから送られてきた金塊と、精巧なドルとポンドの偽札だ。


 それと同時にクサヴァーは、全員分のノルウェー国籍を用意した。その当時、戸籍や住民票が完備していた国は、世界中を見渡してもワイマール憲法下のドイツと、それを手本にした日本しかない。しかも占領下のノルウェーにはドイツ移民の戦災孤児が沢山いた。国籍を得るのも、国に溶け込むのも簡単な事だった。

 政府の中にはナチスのシンパが何人もいたし、ノルウェーにとっても戦後復興に資金が必要だった。資金力のあるクサヴァーたちは、むしろ歓迎されたのだ。


 やがてテレンダールは栄えて街になった。今では我々の活動を知らない生粋のノルウェー人もここに数多く住んでいる。もちろん、自分の足元深くにブンカーがあるなどとは思った事もないだろう。


 ネオ・トゥーレの構築と共に、もう一つクサヴァーが手掛けたことがある。それはナチスの諜報機関の掌握だった。

 トロムソには軍関係者を統括するために、親衛隊の諜報機関だったSDという組織から、主計官や管理官が派遣されていた。ナチスのエリートであった親衛隊員は、敗戦を迎えれば自動的に戦犯扱いの身の上だ。彼らの弱みに付け込んで、逆にヨーロッパ中に散っている諜報員を再構成させたのだ。


 ヨーロッパ各地に散っている諜報員達にとってもそれは歓迎すべきことだった。母国の敗戦によって戦うべき目的を失い、帰るべき祖国も失い、自らを養う資金の当ても無くなっているところへの救いの手だ。乗らないわけがない。


 こうしてクサヴァーは自らのために手足のように働く、諜報組織を手に入れたのだ。ポルトガルで伊220の沈没海域を監視し、引き揚げられたラボ缶を奪ってここに届けたのは、今なお活動を続けているその諜報組織の功績だった」


 カルロスはそこで大きく息をついた。そして心の澱を幾らかでも吐き出したかのように、微かな安堵の表情を浮かべた。

 矢倉はカルロスの話の中に、ネオ・トゥーレという組織――ディータに言わせれば国家――の本質を見た思いがした。

 第四帝国を我が物にするとか、世界に君臨したいという大それた野望では決してなく、戦争と言う災厄に巻き込まれ、将来の道を閉ざされたクサヴァーと若者たちが、必死に自己を守ろうとした葛藤の産物。――それこそがネオ・トゥーレだ。

 そして今ネオ・トゥーレは、自身が築き上げた金融の領域を浸食しようとする管理金準備制度に、必死の抵抗を試みようとしている。


「私のことを語る前に、少しだけ伊404について話をしておこう」

 カルロスは言った。

「伊404はナチス敗戦後に、ここトロムソに到着した。搭乗員たちは艦を降りて初めて、自分達が協力すべき国が既に降伏している事を知った。また祖国日本も敗戦が近い事も知らされた。広島に原爆が投下されたのは、その3か月後だ。


 伊404の搭乗員たちは、国体が残ろうと残るまいと、日本を出た時点で帰るべき故郷を捨てている。唯一彼らを支えているのは大義だった。戦うべき目的、行うべき責務を無くした彼らは、ネオ・トゥーレの者達と同じ境遇だった。

 クサヴァーは伊404の搭乗員たちに、自らが第四帝国を継ぐものであると告げて、協力を求めた。クサヴァーは伊404をネオ・トゥーレの戦力として温存しておきたいと思ったのだ。

 搭乗員たちも、クサヴァーに同志の気概を感じ取ったのだろう。ネオ・トゥーレの若者達を訓練し、一人前の潜水艦乗りに育て上げた。


 彼らは皆この地で手厚く遇された。今どうしているかと言えば、皆が天寿を全うし、テレンダールの外れにある墓地に眠っている。日本の方角を向くように墓標が掲げられた、無記名の72基がそれだ。


 日本からは、伊220、伊404に先だって、伊12、伊13、伊32の3隻がテレンダールに到着している。それらはザビアや軍需物資を積み込んでアルゼンチンに向かったはずだが、無事目的地に到着できたのかどうか、後の事は分からない」


 ここまで話したカルロスは、先ほどよりも更に疲労の色が濃くなっていいるように見えた。体調が悪いのか、顔色が悪くやや紫色がかっており、額には冷や汗が浮かんでいた。


「少し休みましょう」

 矢倉は言った。

「そうだな」

 とカルロスは答えた。



――第十五章、終わり――

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